第6話 アルビョンにて

 トーマはソニアに金貨10枚を渡し、下宿の優先入居権を売ってもらえないか訊いてみた。居ない間は誰を住まわせてもいいという条件だ。金貨10枚はほぼ1年分の家賃の額である。だがソニアはそれを断った。

 いざとなれば、まだ力仕事もできるソニアである。金など別に必要ないのだろう。「今度はもっと素直な性格の男前に貸すんだよ」とのことであった。


 翌朝、目を覚ましたトーマは、昨日のうちにまとめておいた旅の荷物を横に置いて、しばらく食べられなくなるソニアの麦粥を食べた。

 居間兼食堂にはトーマだけが居る。さきほど自室の窓から見た秋の空は、雲が高く濃い青色がどこまでも広がっていた。裏庭ではソニアが洗濯をしているようである。


 水がめから青銅の柄杓で一杯、水を飲む。よく振って柄杓の水けを切る。青銅製は錆びやすいので銀製に替えてくれと何度かトーマは訴えたのだが、盗人に狙われるからごめんだと最後まで聞いてくれなかった。


「それじゃあ行ってきます」


 トーマはこころもち大きな声で裏庭に声をかけたが、反応は無かった。




 路地を曲がり、大通りを南に向かって歩くトーマの背中には、うしろから見たら上半身が隠れるほどの荷物が背負われている。

 つぶして乾燥させた大麦1袋と、塩のきつい干し羊肉を少しと、森苺を干したものがひとつかみ。


 丈夫な木の椀。あと岩塩。持ち手が2つ付いた、顔を洗えるほどの鉄なべに入れてある。

 下着と綿服の着替えと、あつらえたカザマキヒョウの毛皮の外套。まだひと月は着なくてもいい。それと丸めた羊の毛布。


 財布に入らない金貨と、色んな種類の宝石はボロ布に包んである。

 小さな砥石や、針と糸。きれいな包帯ひと巻きと、なんにでも塗る軟膏。細かい物はひとまとめに皮袋に入れてある。

 それらをカシの木の背負子しょいこに載せて、魔物の毛で作った網で巻く。入れ忘れた調理用の木の匙を網の目につっこむ。昨夜も寝台の上に敷いて寝ていたムツアシ狼の毛皮でさらに上から覆う。革ひも2本で結んで固定したら、飲み水を入れるオオトカゲの皮袋をぶらさげる。これで背負う荷物の完成。

 これを整える作業でトーマの昨日の午後はつぶれていた。



 

 もうすぐ街の門が見えてくるので、門前市場で固焼きパンでも買おうかと考えていると、うしろからトーマを呼ぶ声がした。


「あー、よかった間に合いました。朝出るって聞いたのでお宅まで行ったんですけど、入れ違いで、もう出たってソニアさんが——」


 名前は知らないがラケーレの屋敷で家事手伝いをしている少女である。急いで走ったのであろう、秋の朝の空気の中で汗が額に光っている。


「これ、ラケーレ様からです。もう本当の若者じゃないんだから体を大事にしろって、言ってましたよ」


 何やら半笑いである。少女の渡してきたウサギ革の巾着袋を開けてみると、中にはラケーレお得意の木の葉のお茶が詰まっていた。お茶の上に、トーマが出した手紙の余白を切り取ったらしい切れ端が乗っていた。ラケーレの字で一言「良い旅を」と書いてある。

 少女に礼を言って、巾着をとりあえず腰帯に結びつけた。

 腰帯には武器にはならない小さなナイフも結びつけてある。トーマはお茶を飲むための金属杯も市場で探すことにした。




 南方に延びる大きな半島の付け根。そこに位置するデュオニア共和国は大陸西部の中心地と言っていい。そのさらに中心であるオカテリアの街にトーマは住んでいたわけだが、内陸のオカテリアよりも此処ここアルビョンの街はまだ暖かかった。海に面した街なのだ。


 デュオニア共和国の東の端にあるこのアルビョンまで、約400キーメルテの街道をトーマは2日で歩いてこられた。歩くというよりは走るになるのだろうか。歩行と同じ動きで一歩で2メルテずつ移動する事を何と呼ぶべきなのか。

 40階梯に至るための、3年半にわたる前回の旅。その時もこの街には滞在した。護衛のむさくるしい男どもは二人ともちょうど30階梯で、当時のトーマと同じだった。


 同じ道筋を移動するのに前回は4日掛かっている。移動速度が2倍になったわけではない。旅慣れたことの影響もある。

 だがやはり現在のトーマの速度についてこられる護衛を雇うのは簡単なことではない。前回の2人だってラケーレの伝手で探してもらったのだ。なので今回は1人旅である。


(1人だと宿賃も入街税も3分の1なんだよな……)


 アルビョンの街で一番警備が厳重だという宿屋で大銀貨1枚の宿賃を払ったトーマは、寝台ひとつがぎりぎり収まっている部屋の中で、全財産持ってくる必要はなかったのではと、後悔した。




 宿の朝食には舟獲りの海魚の焼き物が出た。これが食べられるなら大銀貨1枚は高くない。

 『マナ大氾濫』以降、海も川も湖も、水の中は魔物の天下である。

 水中の魔物は体が大きく力も強い物が多い。そうでなくても水中で人間が戦うのは難しいことだ。階梯がいくら高くても息が続かなければ死んでしまうのは変わらない。


 古代、人間は海に大きな船を浮かべて風の力で移動したという。陸を行くより多くの荷を、しかも早く運べたらしい。

 それが今では長い綱で陸に繋いだままの小舟を沿岸に浮かべ、魔物の接近に警戒しつつ漁網を放るのが精一杯だ。


 当然トーマの旅も陸路である。アルビョンから東に海沿いを行き、約100キーメルテ東にある遺跡で夜を明かし、北の低山地帯を超えてスコンブロ川の上流に出る。前回とおなじ道順だ。


 トーマは悩んだ末に、宿の主人に羊の干し肉を買い取ってもらう事にした。食べられる物が手に入らなかった時に備えた保存食であるが、永遠に持つものでもない。カビたりすることもある。

 こういう大きな街では買い替えて新しくしていくのが、もったいないようでも旅の基本である。


 というのは建前で、数日前に買ったものだからさすがに買い替えるのは早い。久しぶりに海の魚を食べたトーマは魚の干物が欲しくなったのだ。

 どうせ食べないかもしれない非常食なのだが、なんとなく塩辛い羊より海魚の干物を持ち歩きたくなったのだ。

 思った通り、この辺りでも貴重な羊肉は買った時とほぼ同じ値段で売れた。今晩スープにでもなるのだろう。


 アルビョンの市場には100以上の露店が並び、なかなかの賑わいであった。トーマは海魚の干物を探した。だが露店では塩で水を抜いていない保存性の低いものしか売っていなかった。すぐ食べるのならばそちらの方がおいしくはある。


 衝動買いで古物商から銀の匙とフォークを買ってしまう。換金性が高いのでそこまで無駄遣いではない。


 店舗を構える乾物屋に塩干しの魚があると教えてもらう。海岸近くの市場から、宿屋のある丘の上の宅地方面に少し戻ると『乾物』と書かれた大きな看板を乗せた建物がある。間口まぐちが大きく開いていて、紐に通した魚の干物が奥の方まで何列も重なっている。

 近づいたトーマに気づくことなく、店の間口で若い男と店主らしい太った女が口論をしていた。

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