第9話 リンイェンという女②

 馬車の中で、この国の政務担当官である彼女、リンイェンと会話することはなかった。彼女はずっと外の景色を眺めていた。

 話は事務室ですると言ったから、それまでは話す気はないのだろう。俺もあまり外出する機会がないので外を眺める。

 酒場付近で用が足りてしまうので、ほとんどこの町のことも知らない。馬車から見える町並みも初めて見る景色で新鮮だった。今度休みがあったら町の中を散策してみようかという気になった。寝込んでなければの話だが。


 国王が住む城は、町から出て高台になった場所にある。しばらく進むと、まさに西洋の城という感じの建物が見えてきた。城の周りは強固な城壁で囲まれている。町の城壁とは違い、ここまで物々しい雰囲気を醸し出している建物を見るのは初めてだった。改めて、ここが魔族やモンスターに対する武力の拠点なのだと認識した。

 そして、国のお偉いさんに呼ばれたという事実が現実味を帯びてくる。そもそも城に呼ばれるということが、どれくらいの頻度であるものなのだろうか。フィレリさんに聞いておけばよかった。

 もしかして、王と謁見とかさせられるんだろうか?王じゃなくて王族かも、食事とか出るのかもしれない、そんな妄想にふけっていると、城に到着した馬車が足を止めた。


「着いたわ。私についてきて」


 馬車から降りたリンイェンの後ろを歩く。

 城には正面からではなく、脇の小さなドアから入った。恐らく兵や内部の人間用の出入口なのだろう。

 出入口もそうだが、城内のあちこちに兵が立っている。彼らはリンイェンが通ると敬礼をした。どうやら彼女は本当に上層部の人間らしい。敬礼を受けた彼女は答礼をしながら、城内を進んでいった。


「この部屋よ。どうぞ入って」


 ようやく彼女の事務室にたどり着く。当然そこにも兵が立っており、彼女が近づくとドアを開けた。

 事務室内は簡素ながら相当の広さがあった。事務室内にあるのは、彼女のものと思われる大きな事務机と書棚、応接用のテーブルとソファー。それから10人以上が座れそうな会議机と椅子が並んでいた。


「着替えてくるわ。そこのソファーに座って待っていてもらえる?」


 彼女はそう言いながら、彼女のプライベートルームだと思われる別の部屋に入っていった。

 言われたとおり、ソファーに腰掛ける。フカフカの座り心地だが、なんとも落ち着かない。こういう場所に呼ばれたこともめったにないので、心なしか緊張している。思えば、就職活動中、最終面接で落とされた会社の社長室もこんな感じだった気がする。


 扉が開き、着替え終わった彼女が出てきた。

 黒のセーターに、スキニーのデニムを履いている。打って変わってかなりラフな服装になっていた。相変わらず、耳には赤いタッセルがぶら下がっている。


「何か飲む? コーヒーならあるけど」

「あっはい、いただきます」


 さすがに政務担当官ともなるとコーヒーが飲めるのか。思えば、この世界に来てからコーヒーなんて飲んでいなかった。元来好きなので、ありがたくいただく。


 給湯室もプライベートルームにあるのだろうか。彼女はその部屋に戻ると、数分後にコーヒーカップを両手に携えて姿を見せた。

 ソファーのそばに立ち、片方のコーヒーを俺の目の前のテーブルに置く。


「はい、どうぞ。いきなり呼びつけてごめんなさいね」

「いえ、ありがとうございます。いただきます」


 カップからは湯気がたゆたい、口元に近づけるとコーヒーのいい香りがする。

 一口飲むと、酸味と苦味の向こうにどっしりとしたコーヒー特有の美味しさを感じた。これだけでも、ここに来た意味が大いにある。

 リンイェンはテーブルを挟んで反対側のソファーに腰掛けた。


「あの酒場で働いているようだけど、きっかけは? 働いてどれくらいになるの?」

「数ヶ月前くらいから働かせてもらってます。きっかけは……たまたま拾ってもらったというか」


 ふうん、という顔つきで彼女もコーヒーに口を付ける。本題前のアイスブレイクなのだろうか。


「冒険者になろうとは思わなかったの? あなたくらいの年齢の男性はほとんど冒険者になると思うのだけど」

「……あんまりスキルが戦闘向きじゃないんです。俺自体も向いていないというか……。でもクエストには同行したことがあります」


 見栄というか、プライドというか、クエストには行った経験があることを付け加える。自分でも器の小さい人間だと思う。


「ところでコーヒーの味はどうかしら、不味くない?」

「ああ、とっても美味しいです。ほんと久しぶりに飲んだんで」


 もう一度、カップに口をつけてコーヒーを味わう。対面から、ふふっと笑う声が聞こえた。彼女に目を向けると、こちらを見てほくそ笑んでいた。セリフを付けるなら、にやりという感じである。

 何がそんなにうれしいのかと疑問に思ったが、その後に続く彼女の言葉に、俺は息を飲むほど驚かされた。


「この世界にコーヒーは存在しないんだけどね」


 驚きすぎて思わず咳き込む。

 その様子を見た彼女は、さらに一回りオーバーに笑っていた。


 今、何て言った?

 俺が、この世界の住人じゃないことを知っている?

 どうやってそのことを知った?


 頭の中を無数の疑問が駆け巡る。同時に、彼女に対する危機感が急激に湧き上がってきた。

 コーヒーをソーサーに置いて、体を彼女の正面から逸らす。彼女はまだ、くすくすと笑っている。


「ごめんなさい笑っちゃって、そんなに驚くと思わなかったから。ああ、そんなに身構えないで。別にこの場でどうこうしようっていうつもりは無いから」


 彼女はコーヒーを一口啜り、続けて話した。


「ヨハネスさん、あなた、別の世界から来たでしょ?」


 ずばりの質問に心臓が波打つ。

 何て答えればいい? 彼女の意図は何だ?

 そんなことを考えている間に、時間は過ぎていく。


「その沈黙は、イエスと捉えさせてもらうわ」


 彼女の言うとおりだ。俺のリアクション自体が、彼女に正確な回答として伝わっている。

 心拍数が上がり、心臓の音が聞こえるようである。何かの駆け引きが始まっている。俺は話しすぎてはいけない。だが、沈黙が答えになってしまうこともある。俺がこの場で取るべき最善は……。


「何度もごめんなさい、私に敵意は無いの。こんなこと、いきなり言われても戸惑うのは当たり前よね。それに、あなたのことばかり聞くのはフェアじゃない」


 彼女はコーヒーをテーブルに置いて、笑顔のまま、体の脇に両手を広げて見せた。敵意がないことを表しているつもりなのか。


「改めて自己紹介させてもらうわね」


 緊張を解かない俺に対し、彼女は一息つくと足を組み片方の手のひらに顔を乗せて、じっと見つめている。

 切りそろえられた前髪の向こうに、彼女の黒い瞳が覗いている。その瞳は美しくもあり、怖くもあった。

 何度見ても美しい顔立ちである。その魅力の一つでもある、唇が薄く開いた。


「私の名前は、リンイェン。この異世界で最初の転移者よ」

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