第8話 リンイェンという女①

 初のクエストクリア後、俺は改めて酒場の仕事に勤しむと思いきや寝込んでしまっていた。

 何しろ20年以上生きてきて、自分が生きるか死ぬかの状況に置かれたことなど全く無い。そのため意気揚々と参加したクエストで、かつてない体験を目まぐるしいスピードで経験しまくったおかげで、俺の脳と体はオーバーヒート状態になってしまった。

 そもそも、現実世界でも半日くらいしか働けないHSPである。異世界転生ものの主人公のように、次々と課題をこなしていくバイタリティ溢れる人物には到底なれない。

 そんな俺を、フィレリさんは嫌な顔一つせずに仕事を休ませてくれた。もちろん間借りしている部屋の家賃は払わせてもらっている。クエスト報酬と今までの蓄えがなかったらどうなっていたか。

 フィレリさんも少し前までは1人でこの酒場の切り盛りをしていたので、俺がいないところで店が回らないというわけではなかった。

 ただ、いつまでもこうしているわけにはいかない。数日間休ませてもらったおかげで体も精神も大分回復してきた。

 そういえば、この世界に転移してからこんなに休んだのは初めてだった。

 色々なことがあった。転移後は本当にどうなるのかと思ったが、今思い返せば、それなりに異世界らしいこともたくさんしてきたと思う。スローライフとも言えないし、チートスキルで俺最強とも言えないが、この異世界の生活に今のところ不満は無い。

 現実世界と比べて楽なこともあるし、当然不便なこともある。そういうことを引っくるめて考えても、現実世界に戻りたいとも特に思わなかった。

 この酒場にいれば仕事もあるし、居場所もある。こないだフィレリさんが言ったように、俺がここから旅立つことも可能性としてはあるのかもしれないが、この居心地の良さを手放す気は今のところない。


 そんな取り留めのない考えを巡らせながら、俺は初めての休暇を過ごしていた。明日からまた仕事に復帰する予定である。

 だが、基本的には部屋にこもりきりの生活だった。ちょっと慣らし運転がてらフィレリさんの手伝いをすることにしよう。いきなりシフトどおりに入ると体が持たない気がする。


 階段を降りて酒場のキッチンに入る。フィレリさんはいつもの様子で、忙しそうに調理にかかっていた。彼女が仕事着を来て現れた俺に気づく。


「あれ? 今日まだ休みじゃなかったっけ?」

「そうですけど、手伝います。明日からに向けてちょっと体慣らしておきたいんで」

「まじめだねえ、でも助かるよ! じゃあホールの方お願いね!」


 指示通りホールの業務に入る。顔見知りの客は、久々に俺の姿を見たからか声を掛けてくれた。

 声を掛けると言っても、仕事がキツくて逃げ出したと思ったとか、こないだのクエストで死んだのかと思ったとか、そんなもんである。失礼な奴らだとも思うが、それだけの仲になれたと考えると嬉しさもあった。

 

 酒場の扉が開いて、女性客が1人入ってきた。

 この世界では珍しくアジア系の顔立ちで、長い黒髪を背中まで伸ばしていた。服装も紺を基調とした制服を着ており、冒険者には到底見えなかった。

 制服と一言で言ったが、スーツやブレザーをベースとしたようなデザインで、スカートとタイツを履いている。

 俺はこの異世界のことをほとんど知らない。フィレリさんから聞いているのは、この国はラーナイという国で、国王が統治し軍隊を持っているということ。そして、軍隊は魔族との戦いを主としているが、細かいモンスター討伐などは冒険者に外部委託しているということだけだった。

 俺は入店した女性の姿から即座に国の人間、恐らく上層部の人間だと予想した。何らかの用事があってこの酒場を訪れたのだろう。

 何にしても、このまま放置する訳にはいかない。冒険者に見えなくても、ウェイターとして接客する義務がある。


「いらっしゃいませ、お一人ですか?」


 近づいて、いつもの文句を口にする。遠巻きで見てもそうだが、そばで見るとその美しさが際立っていた。

 年齢は俺と同じ二十代だろう。典型的なアジアンビューティーで、切れ長の目には長いまつ毛をたくわえ、ほぼ黒色の瞳には酒場の明かりがハイライトとして輝いていた。また、両耳にぶら下がっている赤いタッセルが特徴的だった。


「そうね、一人だけど……」


 そう言いながら、彼女は店内を見回しフィレリさんの姿を見たあとに、また、俺と視線を合わせた。その視線は何かを探るような意図を含んでいる。

 席に案内しようとした俺に、彼女は声をかけた。


「あなたがヨハネスさん?」


 初対面の相手に名前を呼ばれ当然驚く。様々な疑問が頭をよぎるが、隠してもしょうがないので、そうです、と一言答えた。


「そう。じゃあ向こうの女性がこの店の主人ね。ちょっと声をかけさせてもらうわ」


 そう言いながら、つかつかとフィレリさんに向かって歩き始める。呆気に取られた俺はその場に立ち尽くしていた。

 フィレリさんも彼女に気づき、カウンター越しに何かを話している様子である。顔見知りという訳でもなさそうで、黒髪の女性の話をふんふんと聞いている。

 フィレリさんはホールの真ん中で突っ立っている俺を見つけると、手招きした。一体何の話をしたのだろうか。


「ヨハネス君、えーと、この人は国の政務担当官さん。ヨハネス君に用があって来たそうなの。それでヨハネス君は今日オフだよね。だから、この人の話を聞くかはヨハネス君に任せるよ」


 最初に名前を呼ばれたときから、なんとなく予想はしていた。そして、この展開にあまり驚いていない自分もいた。何故かと聞かれれば、異世界転生ものの話の広げ方としては王道だなと思ったからだ。

 話の流れから察するに、国から直接何かの依頼を受けるというパターンが最も可能性が高いだろう。

 不安もあるが正直興味津々である。昨日までぶっ倒れていたくせに、新たな興味が生まれるとそれに飛びつきたくなるのが俺の習性だった。


「わかりました、話があるなら聞きます。すいませんフィレリさん、手伝うって言ったばかりなのに」


 フィレリさんは笑顔で首を横に振っている。


「全然構わないよ! それより、美味しい話だったら私にも話してね!」


 そういうのはこそこそ言うものではないかと思いながら、真顔でうなづいた。そのまま政務担当官殿の方に顔を向ける。


「ありがとう、急なお願いなのに申し訳ないわね。でも、ここでは話せない内容だから私の事務室まで来てもらえる? 馬車なら待たせてるわ」


 フィールドを相手側に譲ることに若干の抵抗を覚えて、思わずフィレリさんの方を見る。彼女も、やれやれという顔をしている。お上相手なら仕方ないということか。


「わかりました、ご一緒させてもらいます。えーと……」


 入口の方に向かいかけていた彼女は振り返り、言い淀んでいる俺の質問に答えた。


「ああ、ごめんなさい。まだ名乗ってなかったわね」


 耳元のタッセルを揺らしながら、彼女は口元に笑みを浮かべて答えた。


「リンイェンよ」


 中国系の名前かな、としかこの時は思わなかった。しかし、彼女の名前を俺は今後死ぬまで忘れることは無かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る