第3話 伝えたいこと(後編)
異世界に転移した俺は、森の中で巨大な蟻に覆いかぶさられていた。
今にもかぶりつきそうな蟻の頭を両手で抑える。
────死にたくない。
そう思った時に、急に手の平から光が放たれた。直感的に、魔法だ、と思った。モンスターがいるのだから魔法もあるだろう。異世界に来て魔力が覚醒したのだと信じ、この眼前の敵を倒すことを期待した。
光が消えていく。頼む、ダメージだけでも与えてくれ、そう願った。
かざした手をどけると、蟻の頭には大きな文字で「死にたくない」と写されていた。
当時は何が起きたか分からなかったが、心の底からがっかりしたことを覚えている。今では死にかけた俺が転写スキルで蟻の頭にお気持ち表明をしただけだったと分かる。
死にたくないのはこっちだと思いながら、蟻の頭を押さえつけて必死で抵抗する。しかし、あまりの力の強さに、喉元を噛みちぎられるのも時間の問題だった。
俺は自分の喉元を喰われる覚悟で両手を蟻の頭から離し、さらに上部にある蟻の2つの触覚を掴み、全力で引きちぎった。
蟻は自分の体の異変を感じ取り、俺の体から転げ落ちた。苦しんでいる様子は無いが、明らかに俺という目標を見失っているようだった。
じっくりと蟻の観察をしている暇はない。
俺は一目散にその場を逃げ出した。幸か不幸か、左足の感覚がないおかげか、極度の緊張状態だったおかげか、俺は全力疾走で森の中を駆け回った。
ただただ、人と会いたかった。
俺の状態を見て、すぐさま助けてくれる人と出会えることを心から願っていた。
闇雲に走ったにも関わらず、森を抜けることができた。抜けた先は開けた高台で、下の方に町の明かりが見えた。
猛烈な安堵感から涙が滝のように流れた。まだ、助かったわけではないのに、心から救われた気分だった。
一刻も早く町に入りたい一心から、俺は改めて駆け出した。
町は壁に囲まれていたので、壁伝いに歩き門から町に入ることができた。
時間は分からないが、やはり真夜中なのだろう。明かりが付いている家の方が少なかった。俺は門から一番近い明かりの付いた家の戸を叩いた。
少しの時間をおいてから、主人と思われる中年の男が出てきた。警戒心を持っているのか、手には棒きれを携えていた。
「なんだお前、こんな夜中に。⋯⋯足を怪我しているのか? まさか森に入ったのか?」
「⋯⋯気が付いたら森にいました。そこで、でかい蟻に襲われて⋯⋯、あ、足を食われたんです。お願いです、病院に連れて行ってくれませんか⋯⋯?」
「なんて非常識だ! 着の身着のままで森に入ってモンスターに襲われただと!? 自業自得だ! 病院なんてものはない! 教会に行けば治療系のスキルを持つ者がいるだろうから自力で行け!」
家の主人は顔を真っ赤にして、ドアを勢いよく閉めた。残るのは地べたに這いつくばる惨めな俺だけである。
今のやりとりで世界観をなんとなく理解した。
恐らく俺はとてつもない大馬鹿者なのだろう。しかし、異世界から来ましたなどと話したところでまともに信じる人間などいるものか。
正直、こんな大怪我をしたことがないので、自分の状態が分からない。
どこにその教会があるか分からないが、途中で力尽きる可能性も大いにあった。
森の中では感じなかった痛みが、今となって左足に押し寄せていた。
とにかく、教会に行けば生存できるかもしれない。ならば這ってでも向かわなければならない。
壁に手をかけて、足を引きずりながら教会と思われる建物を探す。
すると、路地で酒樽を持ってこちらを見つめている赤髪の女性が目に入った。
あの女性に教会の場所を聞いてみよう。案内は無くとも方角くらいは教えてくれるかもしれない。
「……あ、あの……」
思った以上に声が出なかった。体に力が入らないし、頭もくらくらする。血が足りないのかもしれない。
ぼやける視界が、こちらに向かって走ってくる彼女を捉えた。
「待って。動かないで」
彼女は、俺のズボンを捲り上げて傷口を確認した。ふくらはぎは大きな裂けており、そこから血が流れ続けている。息を飲んだ彼女は少し目を瞑った。そして、覚悟を決めたように、こちらへ申し訳なさそうな表情を向けていた。
「ごめん、ちょっと焼く。でも、それも後で一緒に治せるから」
彼女はエプロンを脱ぐと、俺の口元に寄せた。噛めということだろう。焼くということは止血するための応急処置なのか。焼きごてか何かがすでにあるのだろうか?
彼女の手がふくらはぎに触れる。傷口を避けて触れてくれているので、痛みはなかった。
触れた手のひらがとても温かい。でもその温かさは最初の数秒だけで、彼女の手の体温はどんどん上昇し、我慢できないほどの熱を帯びていた。
熱したフライパンに誤って触ったことはあったが、そんなものとは比べ物にならない。真っ赤に液状化した鉄をふくらはぎに垂らされたような、そんな感覚だった。
自然と足が彼女の手から逃げようとするが、彼女はもう片方の手で左足を固定した。
「ごめん、もうちょっと我慢して。ごめんね」
肉の焼ける音と共に、不快な臭いが鼻を刺激した。熱いを通り越して激痛で体が強ばり、顎はエプロンがちぎれるのではないかというほど強く噛み締めた。
堪えられない痛みに涙がこぼれ、視界はほとんど見えなかった。
「これでよし。待ってて! 今、教会の治療士連れてくるから!」
駆け出す彼女を見送り、傷口に目を落とすと血で溢れていた裂け目は溶接され、手の形に火傷となっていた。
痛みは未だに強く残っており、俺は石床に寝転がって、エプロンを口にくわえたまま泣いていた。こういう時に、生き物として本当に情けなくなる。昔から痛みに対しては、過剰に反応してしまうのだ。
程なくして、彼女は治療士らしき中年の男を連れてきた。男は白を基調としたローブを来ており、中世の神官のようにも見えた。
「全く、お前の頼みだからこんな夜中に外まで出てきてやってるんだぞ!」
「いいから! 毒の可能性もあるから治療と一緒に解毒もお願いね!」
男は俺の火傷の部分に手を当てると、温かい光を放ち始めた。その光は心地よく、痛みが徐々に引いていくのと同時に火傷の傷も消えていった。傷としては消えたが、彼女が触れた手の形で跡だけが残った。
「これでいいだろう。礼を期待しているからな、フィレリ」
「ありがと治療士さん! 今度来た時のお代は結構だから!」
男はやれやれといった表情を見せたあと、こちらに目を向けた。
「お前も、どんな事情があったが知らんが、あんまり無茶なことはするなよ」
「……ありがとうございました」
男が戻っていくのを見つめながら、自分が助かったのだという安堵感を感じていた。全く知らない世界で、全くの見ず知らずの人たちに命を救われたことに素直に感謝したかった。
「よかったよ、助かって〜。ほんとになんで森になんて入ったの?」
「……わからないんです。なんでですかね……」
「家はどこ? 他の町から来たの?」
「……家はありません。知り合いもいません。この世界じゃないところから来たんです」
彼女の視線は明らかに怪しんでいた。そりゃそうだ、こんなわけの分からない男、嘘をついているとしか思えない。
「君の服装……もしかして君は酒場で働いているのかな?」
彼女の視線は、俺の腰に巻かれた前掛けに目を向けられていた。居酒屋のバイト中に転移した俺は、当然の制服のままだった。この前掛けを見て、なんとなく飲食店で働いているように見えたのだろう。
「そうです。雑用でしたけどね、調理はやってなかったです」
「君のスキルを教えて」
「スキル……?洗い物と清掃くらいしか……」
「そういうのじゃなくて能力があるでしょ? 一人1つの」
とぼけた訳ではなく、当時は本当に分からなかった。思考を巡らせる。蟻に襲われた際の自分の手から放った光と、がっかりな結果を思い出す。もしかして、あれがスキルなのではないかと推測した。
「これ、ですかね……?」
俺は石床に手をかざし、今思っていることをそのまま強くイメージした。思ったとおり、手の平は発光し石床を照らした。
彼女は訝しげに石床を覗き込んだ。そして、そこに書いてある文字を見て吹き出した。
「……ぷっ、あっははは! なにこれ!? これが君のスキル?」
石床には、ぐにゃぐにゃの字で大きく、
「あ りが とう」と、写されていた。俺の心からの気持ちである。
そして、己に与えられたあまりにもひ弱なスキルに絶望した。モンスターのいる世界、一人1スキル、いかに戦闘に役立てるかが指標となっている世界で、このスキルでどう生きろというのか。
俺はもう一度石床に手を当てて、「そうみたいです」と写した。今度はさっきより綺麗な字だった。
「あはは! く、口で言えばいいじゃん!」
そのとおりである。彼女はツボに入ったらしく、その場で笑い転げている。
その姿を見ながら、先程のことを思い返し、俺の左足を焼いたのが彼女のスキル、そしてその火傷と傷を治したのが治療士と呼ばれる男のスキルなのだと改めて理解した。
笑いも落ち着いてきたのか、彼女の呼吸がゆっくりになっていく。大きく深呼吸をしたあとに、顔を上げて俺の目をまっすぐに見つめてきた。黄色がかった大きな瞳に吸い込まれそうだった。
「……うちで働いてみる?」
突然の申し出に驚いた。彼女は目をそらさない。まるで、目をそらすことを許さないとでも訴えているかのような視線だった。だが、彼女の言っていることが即座には理解できなかった。
「えと、あの……」
「私ね、酒場を経営してるの。クエストの受注所も兼ねてね。うちも人手不足だし、酒場で働いてたってことは即戦力でしょ?」
訳の分からない異世界転移、命を脅かすモンスターの存在、自分の非力なスキル。答えは一つだった。
「やります」
考える前に返事をしていた。何でもいいから拠り所が欲しかった。第一、断ったところでこれからどうするのか。
「ははっ即答だね。住むところはどうする? うちの空き部屋にでも住む?」
「いいんですか?」
さすがに親切すぎる。しかも、いきなり女性の家に転がり込むこととなると躊躇せざるを得ない。
「遠慮しなくていいよ、広い家だからね。それに、わざわざモンスターに殺されかけてまで、人をだまそうとしてるとは思えないし!」
そういう風に信じてもらえるとありがたい。
「それから────」
彼女はもう一度、顔を近づけて俺の目をまっすぐに見つめた。
俺も、今度は意識して彼女の目を見つめ返した。
「……うん、後ろめたいこともなさそうだね」
彼女は立ち上がり、俺に向かって手を伸ばした。
「私の名前はフィレリ。君は?」
どうやら彼女なりの人を見極めるための手段らしい。俺は彼女の手を掴んだ。
「俺の名前は、
「ヨハネス? いい名前だね!」
俺は立ち上がりながら、名前を訂正しようとした。
しかし、いざ2人で並ぶと、彼女の背丈は俺の腹の部分くらいしかなかった。
「ちいさ」
本当に悪気なく口にしていた。
彼女は目付きを変えると、拳を俺のみぞおちに叩き込んだ。
膝から崩れ落ちる俺を彼女が見下ろす。
「雇用主に対する態度から教えないといけないかな?」
笑顔だが、目は全く笑っていない。
「すいません……思わず口にしてしまって……」
地面にうずくまりながら、謝意を伝える。せっかく得た仕事を失いたくないのもあるが、失礼なことを言ったことは確かである。
「これからバシバシ鍛えてあげるから。よろしくね! ヨハネス君!」
ヨハネスで定着してしまったので、最早訂正するのが面倒だった。それに、新しい世界で生きていくのだから、名前を変えて生まれ変わったつもりで生きるくらいの覚悟が必要だと思った。
俺の長い夜が、やっと終わりを迎えようとしていた。
────異世界への転移、モンスターとの邂逅、彼女との出会いと、色々なことが起きすぎたその日から今日まで、俺は彼女に世話になっている。
酒場での仕事は、居酒屋のバイト経験が活きるところもあるが、文化の違いに驚かされるところもあった。
特に衛生観念はぶっ飛んでおり、調理も清掃も現代社会で同じことをしたら炎上不可避なことばかりだった。
しかし、慣れというものは恐ろしいもので、だんだんとその文化に染まっていく自分に驚きを隠せなかった。というより、慣れないと仕事が回せなかった。
不慣れな俺に対しても、彼女は丁寧に指導し、さらに賃金も支払ってくれた。正直相場は分からないが、店に部屋を間借りした上に小遣いももらえていると思えば、感謝の気持ちしかなかった。
そう、感謝の気持ちしかないのだ。
この世界で今生きていけるのが、誰のおかげか考えればすぐわかる事だった。
「おなまえシール」の仕事を終え、ホールを片付けた俺が厨房に戻ると、彼女は明日の仕込みをしている最中だった。
言わなければいけないことがある。
「フィレリさん」
「ん、なーに? 仕事終わったなら部屋に戻ってていいよ」
「好きです」
彼女はその場で吹き出した。
驚いた表情でこちらを見た後に、目をつむり少し考えてから、じろりと横目で視線を向けた。
「……えーと、なにが?」
彼女の一連の反応を見て自分の言葉が足りないことに気付かされた。確かに、あの言い方では誤解がある。
「あ、仕事です」
彼女は調理台に手を付いて、大きなため息を吐いた。
「……うんうん、良かったね! で、急になに!?」
急に変なことを言ったみたいになってしまって申し訳ない。でも、伝えなければいけないことがあるのだ。
「俺、さっきウソついたんです。フィレリさんに仕事が好きかって聞かれて、嫌いじゃないって答えたんです。
でも、それはウソです。俺、照れたんです。本当は好きです、この仕事。フィレリさんが命の恩人ってのももちろんあります。でも、俺みたいなやつでも、居ていいって思えるのがこの仕事なんです。
やな事もあるけど、知り合いがいないこの世界で、人に関われるこの仕事が好きなんです。だからフィレリさん」
一息ついて、姿勢を正して頭を下げた。
「助けてくれて、ありがとうございます」
最初、疑わしげな表情で話を聞いていた彼女だったが、その表情はだんだんと真剣になっていった。そして、俺の話が終わると彼女は柔らかく微笑んでくれた。
「私もうれしいよ、ヨハネス君。あの日、勢いで君を雇ったけど、雇ってよかったって思ってる。私もヨハネス君に関われて、ほんとにうれしい」
思いがけない答えに、涙が出そうになった。しかし、また「なんだこいつ」と思われるのも嫌なので、必死でこらえた。
「でも、ほんとに急になに!? いきなり言われたら私も焦るよ!!」
「それは、俺が仕事のこと嫌いじゃないなんて言ったから、フィレリさんが俺を助けたことを後悔させることになるかなって……」
彼女は、また大きなため息をついた。
「あのねーヨハネス君、気にしすぎ! 私が、仕事が好きかって聞いたのはただの世間話だから! それにそんなことくらいで、私がヨハネス君助けたこと後悔するわけないでしょ!!」
「でも、嫌いじゃないなんて、生意気じゃないですか?」
「だったら普段から生意気だよ!!!」
いまいちピンと来てない俺に対して、彼女はなんとも言えない視線を向けている。チベットスナギツネのような、いわゆるチベスナ顔である。
「……きみ、めんどくさいなー!!」
彼女は、一際大きな声で叫んだ。
そんなことを面と向かって言われたら、HSPの人間としては大ダメージである。
俺は精一杯の抵抗として、自分のシャツに手を当てて転写のスキルを放った。シャツいっぱいに、「傷ついた」、「悲しい」、「ひどい」、「言い過ぎ」などなど、夥しい数の言葉が表示された。
彼女の表情がみるみる緩んでいく。
「それずるいから!!」
彼女はヒーヒー言いながら、文字通り腹を抱えて笑っていた。短い付き合いだが、段々と彼女の笑いのツボを理解していた。
何回でも言います。
ありがとうございます、フィレリさん。
こうやってふざけて笑っていられるのも、全部あなたのおかげです。
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