第2話 伝えたいこと(前編)

 あれから1週間。俺は酒場で、新しい仕事を始めていた。


「こんなもんでどうですかね?」

「おお! ばっちりだぜ兄ちゃん! ありがとな!」


 俺は男にカバンを手渡した。カバンには、俺がたった今転写した男の名前が写されていた。


「これでカバンを間違えることも無くなるぜ! それに盗まれにくくなるしな!」


 これが俺の新しい仕事である。酒場に訪れる冒険者たちの持ち物に、持ち主の名前を転写する仕事だ。

 この異世界では、同じ商品はどうしても似たり寄ったりで、色味やデザインに差異が少ない。そこに冒険者たちのおおざっぱな性格も加わって、持ち物を間違えてしまうことがよくあった。

 そのため、冒険者たちも持ち物に傷などの印を付けて、自分のものだと分かるように工夫していたが、やはり限界がある。

 要するに俺の新サービスは「おなまえシール」である。だが、このサービスはなかなか好評だった。


「うんうん、あいかわらずいい仕事だね~。さっすがヨハネス君! 目の付け所が違うね!」


 でかでかと「フィレリの店」と転写されたエプロンを着たマスターが大げさに褒めてくれた。その手に持つ盆、皿、食器類それぞれにも「フィレリの店」と転写されている。

 そもそも店名は「スリップノット」であり、決して「フィレリの店」ではない。「フィレリの店」と転写されている理由は、彼女が店のものにも名前を転写してほしいとねだったからだ。

 言われるがままに「フィレリ」と転写したが、これでは店のものだと分からなくなるので「の店」を空いているスペースに付け足しただけである。2人揃っておっちょこちょいなものだ。


「新しい装備が手に入ったら、また頼むぜ兄ちゃん!」


 男は白い歯をむき出しにして笑顔を向け、店を後にした。


「うーん、こんなに好評なら別料金にした方がいいかしら?」


 マスターは腕組みしながら真剣そうに悩んでいた。


「このままでいいですよ。集客にもつながるし、コストがかかってるわけじゃないし。来店の足がかりになれば売上にも貢献できるでしょ」

「それとは別に君の問題だよ。このサービスはキリがない。頼まれたら頼まれた分だけ君がこなさなきゃいけないんだよ? だったら、ここいらで有償にした方が長期的には安定すると思うんだ」


 従業員の健康管理も含めてコスト管理できるとはさすがである。普通ならギリギリまで使い潰して、従業員から訴えが出てから応えることで経営者としてのイニシアチブを取るだろうに。


「お任せしますよ。俺は経営のことわかんないし」


 実際、たかがアルバイトが口にするものでもない。


「君は、この仕事は好きかい?」


 唐突の質問に若干戸惑う。流れからして「おなまえシール」のことだろうが、この酒場で働くことそのものを問いているのかもしれない。


「……嫌いじゃないです。ここのお客さんは素直に喜んでくれる人が多いし」

「そっか。ならいいんだ」


 素っ気ない返事とは真逆に、彼女はとびっきりの笑顔を向けて厨房に戻っていった。

 あの答え方から考えると、きっと酒場で働くこと自体を聞いていたのだろう。それに対して俺は「嫌いじゃない」と答えた。

 そう答えたことに対する後悔の気持ちがじくじくと込み上げてきた。

 誰のおかげで、今のこの平穏な生活を過ごせているのか。忘れかけていた自分を恥じた。


────異世界に転移したときの記憶を忘れられる人間がいるだろうか。

 誰だってそうだと思うが、異世界に転生や転移したときの記憶が薄れたとしても忘れる人間などいないだろう。

 特に俺の場合は忘れたくても忘れようもない。「あれ」で転移するくらいなら死んで転生した方がましだと本気で思っている。


 転移前の現実世界の俺は22歳のフリーターだった。名前は山田夜羽音やまだよはね。キラキラネームである。だが、そこまで嫌いではなかったので、改名する気はなかった。転移後も文字ってヨハネスを名乗っている。

 大学は卒業したが、HSPのためフルタイムで働く自信が無かった俺は学生時代に働いていた居酒屋のバイトをそのまま続けていた。

 転移した日は居酒屋でバイトの日だった。その日はクローズ間近の時間帯で、最近一気飲みする輩はほとんどいなくなったが、なぜか無くならない居酒屋トイレの春の風物詩とも言える、新歓飲み会でぶちまけられたトイレの吐しゃ物を俺は片付けていた。

 その時、急に自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。空中や自分の頭の中ではない。便器の中から聞こえるのである。正直、ホラーが始まったのだと思った。

 ホラーだと思うのだから、当然、便器から遠ざかる。ドアを開けて逃げねばと思った瞬間、トイレが勢いよく流れだした。さらに次の瞬間には、周りのあらゆるものが便器に吸い込まれ始め、俺自身も吸い込まれようとしていた。

 吸引音と言えばいいのか。轟音がトイレの個室に響き渡る。

 便器はさっきの吐しゃ物がぶちまけられた便器である。死んでも近づきたくない。なんなら幽霊が顔をのぞかせていた方がよっぽどマシだ。

 ものすごい吸引力にじりじりと便器に近づいていく。終いには便座に両手をかけて踏ん張っている状態になった。

 目の前には吐しゃ物。なぜこんな酷い目に遭うのか、自分の置かれている状況に涙が出そうになった。

 決して吸い込まれるものか。そんな俺の心からの反抗心も虚しく、俺はゲロ臭い便器の中に吸い込まれていった。


────目を開けると、真っ暗な空間にいた。

 体の感覚はあるが、床に立っている感覚はない。周りを見ても壁も天井もない、ただただ黒色が無限に続いている空間に存在していた。

 俺は直感的に「異世界転生じゃないか?」と思った。鼻に残る吐しゃ物の臭いはともかく、色んなメディア作品で既視感のある世界だと思った。これで目の前に女神的な案内人でも現れれば、俺の予想は確実だと思っていた。

 しかし、現実はそうではなかった。

 俺の目の前に現れたのは、頭のない袈裟を着た大男だった。さらに、本来、頭があるはずの部分には茨の輪が浮遊していた。

 内心、「ヤバい」と思った。

 こんな狂ったデザインの案内人の時点で、スローライフ系とハーレム系の選択肢はまずないからだ。よくて最強系だろうが、死に覚えゲーの可能性が高いと思った。

 そんなことを煩悶しながら、大男の言葉を待った。頭がないのに男だと分かるのかと言われれば、体格的に間違いなく男だった。

 結論から言う。大男は一言も言葉を発さなかった。

 大男は、涙目でこれからの自分の未来に絶望する俺の額に指をあてるとあたたかな光を指先から放った。今思えば、あれがスキルの付与だったのだろう。

 額から離した指先は、そのまま延々と続く黒い空間を指差した。

 選択肢はなかった。拒否したら何をされるか分からない。

 俺は大男の指差す方向に向かって歩き出した。


────光の中をくぐり抜けると、真夜中の森の中だった。

 植物を見ても日本では見たこともない種類なので、恐らく異世界に来たのだと感じていた。

 同時に早く町に避難しなければと思った。ファンタジー系なら、山賊やモンスターに出くわす可能性が高い。

 俺に与えられたスキルがチート系の可能性もあるのではと若干ワクワクしたが、そんな微かな期待で命を賭けるもんじゃない。

 ということで、町のヒントになりそうなものはないか探してみる。残念なことに四方八方、木に囲まれている。

 しかし、段々と目が夜に慣れてきた上に、月明かりで大分遠くまで見渡せる。予想通り、一部、木の数が少なく見える箇所があった。何らかの理由によって人の手が入って、伐採されているように見える。

 あそこまで行けば道があるかもしれないし、人のいる場所のヒントが得られるかもしれない。

 足を運ぼうとすると、急に左足に熱を感じた。熱いのである。

 視線を向けると、左足のふくらはぎの部分の服が切り裂かれ、ぱっくりと割れた肉から血が流れ出ているのが見えた。

 自分の身に何が起きたかを視覚で捉えた瞬間、ものすごい痛覚がやってきた。同時に、攻撃されていると脳が全身に情報を伝えた。

 足元を見渡すと、小型犬くらいの大きさの蟻がいた。大きさも違うが、牙と顎が異様に発達しており、その牙には俺の血液が付着していた。

 気がつくと、蟻と真逆の方向に走り出していた。脳がやっと情報の処理を始める。

 モンスターだ。モンスターがいるタイプの世界だ。

 異世界なのだからモンスターくらいいるだろうとは思っていたし、いきなりエンカウントするのもお約束だとは思う。

 頭に死に覚えゲーという言葉がよぎる。いや、覚えさせてくれる、リセットされる保証はどこにもない。異世界脳になっているだけで、死んだらそのまま終わりなのが生命としての大原則ということを忘れてはならない。

 3秒ほど逃げたところで、すぐに蟻に追いつかれた。

 そりゃそうだ。普段は小さいから気にならないだけで、虫の移動速度は哺乳類と比べ物にならない。大して運動もしていない上に、足を負傷した成人男性が逃げ切れるはずもなかった。

 ────足を狙われる。

 大きな顎で、再度、足を切り裂かれることを想像して、注意が足に注がれた。

 しかし、蟻は足を攻撃することなく、そのまま足を伝って上半身へと向かってきた。

 この時の不快感を未だに鮮明に覚えている。恐怖と蟻の脚の感触の気持ち悪さに、全身が粟立った。

 蟻の重さでそのまま地面に倒れ込む。 蟻の牙は明らかに俺の喉元を狙っていた。


 切り裂かれた左足は、もうすでに感覚が無い。

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