その日、雨は何を流したのか
神は取引所を祝福して言われた、「買えよ、ふえよ、寮に満ちよ、寮を従わせよ。また通学生と、舎監の先生と、学校に通うすべての生き物とを治めよ」。神はまた言われた、「私は全校のおもてにあるすべての寮のもつ全ての棒と、棒による全ての価値をあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう」。
そのようになった。
神が造られた全てを見られたところ、それは、なんか、まぁ、ちょっとだけ良かった。
夕となり、また、朝となった。
台風の襲来である。
その一週間は酷い雨で、Mはうまか棒の調達に行けない事に苛立っていた。
テレビもネットニュースも、急加速した台風のこと一色で、まともに情報を追えない。あまつさえ、寮の中の話だって、舎監の口から出る言葉だって、全てと言っていいほど台風のことだと言うからタチが悪い。
まだ木曜日なのに学校は休みとなり、Mは酷い頭痛に悩まされ、風の音で中々寝付けず、何か薬でも仕入れておけば良かったと嘆いた。
相変わらず棒による取引は続いているから、それだけは安心できるな。運び屋はそう言ってお互いを励ましあっていた。
雨は七日七晩続き、八日目の朝、カラリと空が晴れ渡った。
『次のニュースです。今回の台風による大雨で、紀伊半島は歴史的な洪水に見舞われ、現在も行方不明者の――』
「オイオイオイオイ……」
『被害は紀伊半島南部に留まらず、京都府、大阪府にも及んでおり――あ、今! 現場のリポーターと繋がりました! こんなんなんぼあっても困りませんからねェーーッ!!』
『こちら京都市右京区、太秦の渡月橋の様子です! 見てください! 立派な土砂! あ今! なんとか! カメラの画角に収まりました!』
「ヤバいって……」
寮生たちは朝早くから食堂に集まり、テレビから流れてくるニュースに釘付けである。
一人はネットニュースを眺め、一人は家族へ電話をかけている。
京北町は、異様な雰囲気に包まれていた。
平成23年の台風第12号。
この台風に起因する豪雨により、特に紀伊半島において被害が甚大であったため、豪雨による被害については「紀伊半島豪雨」、「紀伊半島大水害」とも呼ばれる――(Wikipediaより引用)
台風の進路上にあったこの広い田舎町も、被害を避けることはできなかった。
時間が経つにつれ、寮生たちの表情は深刻なものになっていく。刻一刻と、絶望が伝播していくのが分かる。
少し前まで、あれだけうるさかった蛙の声も、けたたましい程だった虫の音もなくなって、寮は嫌に静まり返っていた。
Mは出来うる限りの情報網を駆使してなんとか家に戻る方法を探したが、そのどれもに莫大な時間と金を費やすことが分かると、はたりとその手を止めた。
この状況は、Mにとって旨くない。今更ホームシックなわけではなかったし、地元にいる友達の安否確認はできている。だから会いたい人がいるわけではないのだが、Mは誰よりも深く眉間に皺を刻み、重くこの問題を捉えていた。
「そういえばさぁ」
誰ともなく、ぼそりと呟いた。
「栗尾峠で土砂崩れやって。復旧にだいぶかかるらしいよ」
短い言葉を皮切りに、晴れ渡って少し肌寒い寮に、しとしとと涙が降る。
「オレ、帰れへん」
ほっと安堵。まだそちらだけなら。そう思ったのも束の間。
「学校側に行く橋も落ちたらしいぞ」
それが皮切りとなった。
前門の虎、後門の狼。
南から登ってくる為の唯一の峠道は土砂に埋もれ、北から下りてくる為の唯一の橋は崩落。
これは寮生だけの問題ではなく、この地が陸の孤島となったことを意味していた。
道が開通するまでどれだけの期間がかかるのか。通学生ならいざ知らず、寮生たちには知る術がない。近隣に知り合いはおらず、また、大人は教師陣に至るまで皆復興に駆り出された。現状について聞ける相手は一人もいない上に、自分たちだけで寮の全てを管理せねばならなくなってしまった。
いつになったら帰れるのか。それが些細なことに思えるほどの大きな問題が有明寮男子棟に――ひいては、頭取の前に立ち塞がっていた。
「頭取、食糧の備蓄がありません。このままでは数日で底を突いてしまいます」
飯をなんとかしろ。
昼寝から覚めても、話題はそればかりだ。
舎監が居ない今、外出は自由だ。一々報告をする相手はいない。きっと寮生は誰もが、コンビニに、スーパーに、あるいは道の駅に走ったことだろう。
彼らは束の間の自由を手に入れ、台風によって正しく降って沸いた休みを楽しもうと走った。コンビニのATMで列を成しては現金を引き出し、陳列棚から思い思いのものを買い占めて行った。
「収穫は、これだけか?」
頭取が尋ねると、帰還者たちは揃えて首を縦に振る。
結果として、手に入ったのは少々の備蓄と、大量に売れ残ったうまか棒だった。
彼らは貯めてきた小遣いをここでほとんど放出し、通貨と備蓄の代わりに自由を失った。
疲れきった顔だ。陳列棚には碌な物が残っていなかったから当然だろう。
食堂のテーブルに広げられた食糧の数えながら、頭取のMは、力強く言った。
「これで一週間は持つ。皆で賢く分配するように」
毅然とした態度を見せたものの、心を覆うのは不安ばかりだ。だが他の寮生に悟られる訳にはいかない。暗い気持ちは伝播する。暴動でも起こったらことだ。
そう考えるMの頭は知らずの内、リーダーとしての思考に切り替わっていった。
きっとすぐに備蓄は足りなくなるだろう。男子高校生と言うものはいつでも腹を空かせている。成長期なのだ。その食欲はげに恐ろしいもので、空腹が原因で眠れないことなどしょっちゅうであった。
有明寮生は常に飢えている。
Mはそれを、改めて思い知らされていた。
買い足した食糧は瞬く間にうまか棒に代わり、想定よりも遥かに早く無くなっていく。まるでブラックホールを相手取っているかのようだ。おまけに自分自身にも、全てを飲み込む重力に似た力があるというのだから始末が悪い。
頭取は苛立っていた。
その日、彼は思い出した。
空腹という恐怖を。
それに囚われていた屈辱を。
通行止めになって一日目。
まだ、有明寮には平和があった。
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