第7話 治験計画書
僕がリールリル製薬に新薬のデータを提供してから、はや1年の時が経過した。しかし時間の経過を感じさせるほどの変化は特に何起きてはおらず、なにか特別な動きがあったというニュースもない。
1年もたっているのに何の進展もないのか!?!?と思われるかもしれないけれど、現実問題、新薬の開発には相当な時間がかかるのだ。
新薬成分の化学的な性質を解き明かすまでにおよそ2年、動物実験などを行って効能効果を推察するのに3年ほどかかり、そこまで終えたところでようやくヒトを対象にする治験に入ることができる。
つまり、1年経過したくらいでなにかの進展を期待する方がなかなか難しいという話なのだ。
……とはいっても、僕だって普通の人間だ。それで気持ちが収まるほど僕は人間ができてるわけじゃない。新薬の計画が今どこまで進んでいるのか、いつごろ治験に入れるのか、さやかの体に薬が届くのは一体いつになるのかというのは、気にならずにはいられない。
…そこで僕は、ほめられたものではないある方法を使って、そのあたりの事を調べてみることにしたのだった…。
――――
「…で、なんで俺が呼び出されなきゃならんのだ…」
「決まってるだろ。暇そうだからだよ」
「あーーぶっころしてぇーー」
僕はいつもと変わらない居酒屋にはやとを呼び出した。1年たっても僕とはやとの関係は変わらず、こうして時間を合わせては飲みに行っている。
彼はこの1年で大きく出世しており、24歳でありながら大銀行の主任の立場を任命されていた。だからこそ決して暇なはずはないのだが、誘えばどれだけ忙しくてもこうして来てくれる。
「主任様の俺を呼び出したからには、相当面白いものを見せてくれるんだろうな?」
「ああ、もちろんだとも♪」
よくぞ聞いて切れたと言わんばかりに、僕はカバンにしまっていたある資料を机の上に置く。A4サイズの紙がピッタリ入る茶封筒の中に、数枚の資料が入っているらしい物だ。らしいと言ったのは、実は僕はここに来るまでこの茶封筒を開封しておらず、中身を見ていないためにこのような言い方となった。開封する楽しみはこいつと分かち合いたいと思い、開けないままここまで持ってきた。
「なんだなんだ?俺の好きなグラビアアイドルの写真でもあるのか?」
「バカ言え、もっとすごいものだぞ」
僕から茶封筒を受け取ったはやとは、中身を破かないように丁寧に封を開封していき、中に入っていた書類が机の上にあらわになった。
「これは………治験計画書??」
「そう、これはまぎれもない治験計画書だ♪」
どやぁ、と胸を張って僕はそう答えるが、一方ではやとはいぶかしげな視線を送りつけてくる。
…あれ、説明が足りていなかったか…??。
「何度でも言おう!これは治験計画書だ!製薬会社が治験を行うときは、厚生労働大臣に必ず治験計画書を提出しなければならないってルールがある!これはその」
「そういう話をしてるんじゃない」
「…??」
「はぁ……」
僕のいまひとつ的を得ない反応に対し、はやとはやれやれといった様子で言葉を返した。
「…新薬の開発資料や申請資料なんていうのは、それひとつが会社の株価やイメージを大きく左右するものだ。つまりこの治験計画書は、あの会社の中でも限られた人間しか知らない極秘情報という事になる。それをどうしてお前が…」
「あぁなんだ、そんなことか」
はやとの言った通り、この資料はリールリル製薬の中にいる人間でしか知りえない秘密情報だ。どうしてそれを社員でもない僕が持っているかというと…。
「僕の職場は研究所だ。それも生命科学を扱う分野だから、製薬業界、さらには医療業界とはかなり親密な仲にある。実際、うちの職場にも医師免許を持つ人や医学部の大学院を卒業している人は多いからね」
「…それで?」
「そして同時に、薬を作る製薬会社と薬を処方する医師のつながりが深いことも周知の事実だろう。…と、いうことは?」
僕はあえてそこで言葉を途切り、続きをはやとに想像させてみる。僕の言葉を聞いたはやとはさらに一段と頭を抱えた。
「お、お前…………。要は自分の同僚の医師のつてを使って、リールリル製薬内部の人間からこの情報を流してもらったってことか…?」
「そうだとも♪」
堂々と胸を張ってそう答える僕を、はやとはまさにやばい奴の事を見る目で見てくる。
「にゅ、入手方法は聞かなかったことにする…」
「それでもいいさ。とにかく見てみようじゃないか!」
引っ張ったものの、内心では一秒でも早く治験計画書を見たくて仕方がなかった僕。資料を手に持つはやとから資料をひったくると、その内容を上から順に目を通していく。
「まぁ実際に治験が始まるのはまだまだ先だろうけど、それでもこれが僕たちにとって大きな一歩になることには違いない!この日をどれだけ待ち望んだことか!間違いなくここには僕たちの求める……ものが……」
…が、そこに書かれていた内容は僕が長らく待ち望み、期待していたものではないのだった…。
「…………………………」
「……どうした?」
資料を見て呆然とする僕の姿を、はやとはどこか不思議そうな目で見つめる。
「…こ、これは………な、なにがどうなって………」
「……??」
はやとは僕の事を不安に思ってくれたのか、その身を乗り出して資料の内容に目を向け始める。
「なんだよ、なにかまずいことでも書いてあるのか?」
…この計画書、不自然にしか見えない箇所がいくつもある…。僕は身を乗り出すはやとに対し、そのひとつづつを追って説明していく。
「…治験計画書は、治験の目的や種類、そして生み出される薬がどんな効果をもたらしうるかを記載するもので、金の話をする資料じゃない。…なのに、見てみてくれ…。この資料、冒頭からいきなり薬価や販売価格の話を始めてる…」
「た、たしかにそうだな…。病気を治療する画期的な新薬が生まれるかもしれないっていうのに、いきなり金の話を持ってくるとは、なんだか不自然だよな…」
「…それにこの部分。ここには、これまでにこの薬によって行われた動物実験や各種実験の結果が書かれているんだが、ここには僕が行ってきた実験結果に関する記載が全くない…」
「…たしかに、すっからかんだな」
僕の実験結果が必要ないくらいに、新しい研究を行ってより良いデータが得られたというのなら納得だけれど、ここにそんな形跡なんてかけらも見られない。…まるでわざと僕のデータが抜き落されているかのようだった…。
そしてそれ以外にも、多くの個所はずさんで適当な記入がされていた。全体を見てみても、明らかに手抜きをしているようにしか思えない計画書だった…。
「リ、リールリルの人たち……いったい何を考えてるんだ……こんなずさんな治験が現実に行われたなら、いくら大きな企業でも致命的なダメージを負ってしまうだろうに…。ましてやこれは、繊細な要素を大きく含む治験に関するものだ…。人の命を軽んじていると言われたって仕方がないようなことじゃないか……!」
「つかさ…?」
…ついさっきまで、期待しかない感情を抱いていた僕の心。それがいつのまにか、
大きな怒りしか沸き上がってこない状態になっていた。
…薬を待ち望む人たちの事を、ひいてはさやかの事を軽んじて見られているようにしか思えないその内容に、僕は言いようのない憤りを感じざるを得なかった…。
「せ、誠実に向き合うと約束してくれたはずなのに……。それがこんな……!!」
「落ち着け、つかさ」
「落ち着けないよ!!まるで僕の薬を金もうけかなにかにしか見ていないじゃないか!こんな事があっていいはずが」
「つかさ!!!」
…気持ちを高ぶらせる僕を、やや大きな声を出してはやとは制した。
「…つかさ、今日はもう帰れ」
「か、帰れって、それはどういう」
「そんな頭に血が上ってたら、うまい飯もうまくなくなる。今日は帰って…寝ろ」
「……」
はやとの言葉に対し、僕は反射的に言葉を返したくなる。…けれど、彼の表情を見ればそんな気はさーっと収まった。
”さやかの事を思うなら、冷静になれ”
彼の目はそう言っていた。僕は彼の思いを素直に受け取り、この場から引き上げることにしたのだった。
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