第31話 その後の二人<ディミトラの憂い>

「元々私はニキアスの婚約者ではなかったんだ」

突然の話題に、アリシアは驚いたものの顔には出さなかった。


「ニキアスの最初の婚約者は侯爵家のご令嬢だった。小柄で可憐で可愛らしい感じの、言ってみれば私とは正反対のご令嬢だったよ」


ディミトラはどこか遠くを眺めながら続ける。


「婚約したのはニキアスが15歳の頃だ。彼女は13歳だった」


現在の皇太子妃がディミトラであり、ご令嬢の話が過去として語られるからにはその方は婚約破棄したのかすでにいないのか。


「私はニキアスの幼馴染のようなものだったから彼女ともよくお茶をしたよ」

そこまで話すとディミトラは一口お茶を飲む。


「ニキアスは彼女を大事にしていたし、このまま二人は仲の良い夫婦になっていくのだろうと思われていた」

そこまで言うと、ディミトラはアリシアに視線を戻す。


「でも二人の仲睦まじい時期は長く続かなかった。彼女が15歳の時、暴漢に襲われてその命を奪われてしまったから」


過去のこととして語られていても、ディミトラの中では今でもその事件は過去になっていないのかもしれない。

ディミトラの辛そうな表情にアリシアは無意識に伸ばした両手で彼女の手を包む。

その手はとても冷たく冷えていた。


「ニキアスはひどく落ち込んで、しばらく悲しみから立ち直ることができなかった。しかも犯人を見つけることもできず、ニキアスも私も自分たちの無力さに愕然としたものだよ」


今でも無力なことに変わりはないのかもしれないけどな。

そう呟いて、ディミトラはアリシアを見つめる。

(そうね。ニキアス様をかばって命を落としたニコラオス様を襲った犯人も、結局見つかっていない。背後に大物貴族がいるのではないかと言われているけれど、そうであればあるほど簡単に探れないのが難しいところだわ)


「しかしいつまでもニキアスの婚約者の座を空席にしておくわけにもいかず、そこで白羽の矢が立ったのが私だった。私は軍部に属する侯爵家の娘。身分的にも武術に関する実力的にも、その時選べる中では一番適任だったのはたしかだ」


貴族の結婚の多くが政略的なものだ。

特に王族ともなれば個人の感情よりも政治的なことが重要視される。


ディミトラが選ばれたのは、身分的に問題がなく、ニキアスとも親しく、何と言っても暴漢に襲われるようなことがあってもある程度は自身で撃退できるからだったのかもしれない。


(でも、きっとディミトラ様は…)


「アリシア夫人、私は幼い頃からずっとニキアスのことが好きだったんだ。でも皇太子妃には別のご令嬢が選ばれた。ならば二人をずっと支えようと思っていたのに、その座が突然転がり込んできてしまった」


きっとディミトラは単純には喜べなかったに違いない。


「それでも、また別の誰かがニキアスの隣に立つのを見なくてすむ、そう思ったらほっとしたよ。自分の気持ちを伝える気はなかったけれど、周りの思惑もあって婚約者となり、そしてそのまま結婚した」


「ニキアス様はその…ディミトラ様のお気持ちをご存知なのでしょうか?」

「どうだろうね。あいつは人の心の機微に聡いから気づいているかもしれないし、近しい相手に対しては案外鈍いところもあるから気づいていないかもしれない」


それにしても…とディミトラが続ける。


「今になってまさか懐妊するとは思わなかったよ。結婚してすぐの頃は周りからの期待もあったし私自身も子どもを望んでいたけれど、一年経ち二年経ち、時間が経てば経つほど期待することを諦めたんだ。一瞬でも…一瞬でも婚約者の彼女を羨ましいと思ってしまったから授からないのかもしれないとも思った」


アリシアの手から離れたディミトラの手が茶菓子のクッキーに触れる。


「だから、側室を迎えなければならないのであれば受け入れようと思っていた。ところがまさかの事態だ。アリシア夫人、私は怖いんだよ。子どもが産まれることによってニキアスとの関係性が変わってしまいそうで」


「私はニキアスにとって皇太子妃ではあるが、それ以上に幼馴染で、政治の話も剣術の話もできる男友だちのようなもののはずなのに」


ああこれが。

ニキアスでは聞き出すことができないディミトラの本音。


皇太子と皇太子妃としてそこに男女の関係があったとしても、二人の間には昔からの幼馴染の関係が根底にある。


凛としていてちょっとやそっとのことではめげそうにないディミトラであっても好きな相手の前ではこんなにも脆いのだ。


(妊娠によるホルモンの変化が影響している面もあるかもしれないけれど…。これを機に皇太子妃殿下の憂いが晴れるといい)


「ディミトラ皇太子妃殿下。お話を伺っての私の意見は必要でしょうか?」


必要であれば返答を。

不要であれば道端の花としての役割を。


「ああ。だからこそのこのお茶会なのだよ」


ディミトラの答えを聞いて、アリシアはその口を開いた。

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