第1話
ここは高層マンションのベランダ。
その手すりの上に座り、
今、彼女はここから飛び降り、この世から消えてしまおうと考えていたのだ。
「パパ、ごめんね...私、幸せになれなかったよ」
望は幼い頃、母を早くに亡くし、病気がちだが優しい父との二人で幸せな日々を送っていた。
当時、望は父に買ってもらったフルダイブ型のVRでするMMORPGが大好きだった。
そこでした冒険を父に話すことも大好きだった。
そして、中学生になった頃に父が再婚し、新しい母が家庭にやってきた。
父は一人で娘を育てることに対する後ろめたさや、自身の病気による不安から再婚を決意した。
彼は娘にとっても新しい母親が家庭に加わることで、彼女の幸せを願っていた。
しかし、望が高校に入った頃に父の病状が悪化、ほんの数日で帰らぬ人ととなってしまったのだ。
そこから新しい母の態度が一変した。
すぐに新しい男を連れ込み、望の事を虐待するようになった。
母は父の遺産が目当てだったのだ。
更に悲しみは続く。望は高校でいじめのターゲットにされたのだ。
きっかけはいじめられている生徒を望が助けようとしたことだ。
これは亡くなった父の口癖である『困っている人がいたら助けてあげなさい』という教えの通りに行動したからだ。
しかし、それがいじめっ子達の気に障ったのか、いじめのターゲットは望へと変わった。
家にも学校にも居場所がなくなった望は、これまで以上にゲームの世界へとのめり込んだ。
そんななか、漸く望にとって嬉しい出来事が起こる。
彼女がプレイしているMMORPG『スターワールドオンライン』は半年に一度、全プレイヤーを巻き込んだ大規模なイベントが行われる。
その時のイベントはソロでのPvP(プレイヤー同士の対戦)トーナメント。
望はその大会に向けて猛特訓をし、なんと見事優勝することができたのだ。
女神をテーマにしたその大会では、優勝者に女神の装備一式と、称号『女神』が贈られる。
その二つがアイテムボックスに届いた時、望は人生で初めて誇れることができたと感じた。
しかし、喜びも束の間。次の日に望が学校から帰ると、家にあるはずの家財道具が全てなくなっていた。
「うそ...なにこれ...」
望は慌ててリビングやキッチンに行くが、まるで最初から誰も住んでいなかったかのように何もない。
新しい母親が望に黙って引っ越したのだ。
「そんな...あっVR!!」
望は父から貰ったVRを思い出し、自分の部屋へ向かうと、そのドアを勢い良く開けた。
しかし、そこには何もない空っぽな空間が広がっているだけだった。
望は膝から崩れ落ちる。
「......ゴミ捨て場!!」
望はマンションの下に急いで降りてゴミ置き場に行くが、そこには無残にも破壊されたVRとPC、そして、望の私物が乱雑に捨てられていた。
「......どうして」
望は家具ひとつない家へと戻る。
その瞬間、望は全てがどうでも良くなった。
望はマンションのベランダへと向かう。
ここは28階。身を投げ出せば確実に死ねるだろう。
望は手すりに上ると、足を外側に向けて座る。
(こんなことして、パパがいたらすっごい怒るだろうな...)
望は最愛の父を思い出す。
『望がパパの娘で本当に幸せだった。望、幸せに生きるんだぞ』
これが父の最後の言葉だった。
望は強く吹く風を浴びながら、地面を力なく眺める。
「パパ、ごめんね...私、幸せになれなかったよ」
望は飛び降りようとする。しかし、父の言葉、そして、その時に見せた優しい表情が頭から離れない。
『望、幸せに生きるんだぞ』
そう言って父はこの世を去ったのだ。
望はベランダへそっと足を下ろす。
(......パパのためにも幸せに生きなきゃ)
そう思い、落ちるはずだった地面を見下ろしたその時、マンションの敷地内で何やら黒いフードを被った男が、スーツを着た男性に暴行を加えているのが目に入った。
スーツの男性がうずくまっている所を、フードの男が執拗に蹴りを入れているのが小さく見える。
「助けなきゃ!! 」
望は携帯を取り出して警察に通報しつつ、急いでエレベーターで下へと降りる。
「大丈夫ですか!? 今救急車を――」
望が近づくと、スーツの男性が必死に守っていた鞄をフードの男が奪い取り、逃げ去るところだった。
スーツの男性は地面に倒れ、口は切れて血が滲んでいる。そんな状態で、彼は這いつくばって男を追いかけようとする。
「そんな...娘の治療費が入った鞄が...」
小さくなっていくフードの男の背中を掴もうとして、彼の伸ばした手は空を切った。
(困っている人がいたら助けなきゃ!!)
「大丈夫です! 私が追いかけます」
望は地面を勢いよく蹴り、犯人の男を追いかけた。
「はぁ...はぁ...待て!!」
息は荒く、心臓が激しく鼓動する。しかし、父の言葉が胸に響き、望の決意は揺るがなかった。
前を走るフードの男も望の声に気付いたのか、振り返った顔は焦燥感に満ちていた。
いつもはチラホラと人がいる住宅街も、今日は人気がなくてなんだか不気味だ。
やがて、犯人は今は使われていない、廃墟となったビルへと入っていった。
望はその不気味な雰囲気に思わず足を止める。
「どうしよう...でも、助けなきゃ!!」
望は深呼吸をして、再び走り出した。
荒廃した建物の中は薄暗く、不気味な雰囲気が漂っている。
そして、前を走っていた男がようやく足を止めた。
行き止まりになっていたのだ。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!! 金が必要だったんだ!! 用意できないと俺は殺されちまう!! 頼む。見逃してくれ!!」
男は望の方に振り返ると、狂気に満ちた目で訴えかけてきた。
その必死な様子に望は一瞬戸惑う。
「なぁ、頼むよ。お願いだ!!」
男はフラフラと望に近づき、懇願する。
「...そ、それはできません!! 今警察にこの場所を――」
望が携帯を取り出そうとしたその時、腹部に尋常ではない熱を感じる。
「う...そ...」
望が視線を下すと、男の手に握られた包丁が、自分のお腹に殆ど入り込んでいた。
「し、仕方がなかったんだ!!」
膝をついた望を置いて、男の足音が遠のいてゆく。
「いっ......」
息をする度にお腹が焼ける。しかし、どんどん息は荒くなっていき、やがて冷や汗が滝のように全身から溢れ出る。
(パパの為にも幸せになるって決めたのに...生きてみようって思えたのに...)
望はその場に倒れ込むと、今度は逆に全身が冷たくなっていくのを感じる。
ひんやりとした地面に頬をつき、流れ出る血は温かい。
望は自分の人生を悔いていた。
(ああ、こんな感じで終わっちゃうんだ...美味しい物食べて、一人くらいお友達を作って、綺麗な場所に行って、誰かの役に立って...幸せになろうって決めたのに)
(パパ、ごめんなさい...幸せになれなくてごめんなさい)
その時、望はもう自分は長くないことを感覚で悟った。
(パパ...今、行くからね)
目を開けておく力すらなくなり、望はゆっくりとその瞼を下ろしたのだった。
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