4-4
「帰国してたんだな」
「随分と場にそぐわない挨拶だが。相変わらずで安心したよ」
俺が声をかけると、拳銃を構えたまま、ゆっくりと邦香は歩み寄ってくる。
手にしているのは、鈍く銀色に光る、恐らく昔から愛用している護身用の小型拳銃だ。
「他にもう少し、建設的な疑問があるのではないかと推察するが」
「今更だな」
俺はその銃口を見つめながら、そっとグロッグを床に置いた。
熱心に訓練して居ない限り、小型拳銃は五mも離れるとなかなか当たらない。邦香が近寄ってきているのは、次は必ず、という決意の表れだ。
言葉で促されずとも、その気配だけで、邦香が本気なのは判る。
「もっと早く、気づいてしかるべきだった。改めて、己の愚かさが身に浸みるね」
俺は両手をそっと挙げながら自嘲した。
そうだ。
政治アプリを盲目的に信ぜず、俺やジーンの生命を狙うほどの実行力を兼ね備えた勢力。
もはや世界中が、全自動化された政治にその身を委ね、経済的な成功しか意識しなくなっている時代に。
邦香以外には、あり得ない。
「しかし確かに疑問はある。……お前は一体、この二年で何を見たんだ?」
「全てをさ」
俺が素直にグロッグを置いたのを見て、邦香は一つ、小さく息を吐く。表情から険しさが僅かに抜けた。
「誰にも告げずに出かけたが、当然知っているはずだな。『ラクシャス』の国政採用後、わたしが途上国へとその効果を確かめに出かけたのは」
「無論」
「本来ならもっと早く、国政版の開発途中にでも一度視察しておくべきだった。政治機構の未発達な途上国こそ、政治アプリの影響がより色濃く現れるのは予想がついていたのだから」
しかし、国政版の開発・採用を目指していた時期の海外渡航は現実的ではなかった。
旅券こそ発行されていたが、プロジェクトの主要メンバーに対して、その使用は事実上停止されていたからだ。
「案の定、『ラクシャス』か『ナーサティア』かそのノックダウンかの如何を問わず、いずれの国でもその影響は甚大だった。日常生活にはさしたる変化の現れていないこの国とは、景色が全く違った」
「想定の範囲内だ。途上国での政治アプリの導入はいわば、未発達な政治を唐突に西側先進国のそれに変更したに等しい。アプリの性能云々ではなく、緩衝期間を置かず移行した影響の方がずっと大きいはずだ。途上国の行政システムにはよく言えば冗長性が、有り体に言えば無駄が多い。それを大幅に効率化したのだから、変化も当然大きくなる」
「貴様の指摘は事実だろう。だが、それが免罪符になると本気で信じているのか?」
邦香は鋭い眼差しで、俺を見つめた。
「昔、高校を卒業直後、僅か二ヶ月ほどだが、わたしは世界を見て回った」
つきつけられた銃口が、わずかに揺れる。
「生憎と、バックパッカーのように気ままな旅ではなかったが、それでも様々な苦境に喘ぐ人々を目の当たりにした。だからこそ、『ラクシャス』への思いを一層強くした」
こいつに撃たれるなら、まぁ、諦めもつくか。
「そこに国政版へと至る動機があるのが、お前らしいな」
「当たり前だ。この国を良くするだけなら『ラクシャス』など必要ない。自分の属する社会を改善したい、なんてのはただの私利私欲にすぎん。自らに関係のない社会を改善してこそ、だろう」
――出会った頃みたいな妄言、口走ってるな。
この学校に通っていた頃の邦香は、毒舌家で偽悪的で、病んだ理想主義者だった。
アイドルとなって再び俺の前に現れて以降は、幾分かその病癖は和らいでいたが、再びあの当時へと戻っている。
「等しく全ての社会を改善する。それこそが『ラクシャス』の真の存在意義だ。確かに政治アプリ導入前と比べて、彼らの貧富の差は多少なりとも改善されただろう。独裁者に支配されていた人々の生活も幾分かは改善されただろう。けれど」
一瞬、邦香はすがるような眼差しで俺を見た。
「その瞳の輝きがあの頃より鈍って感じられたのは、わたしの勘違いか」
「何を見た」
「経済的な苦境を脱し、政治的な弾圧から解放され……『ラクシャス』は、確かに彼らにささやかな喜びをもたらしたのだろう。だが、それで彼らが幸福な人生を歩んでいるようには、わたしには見えなかった」
「一方的な価値観の押しつけだろう、それは。幸せかどうかなど、通りすがりの他人が決めつけて良いものじゃない」
「生活に窮し、権力に抵抗し……けれどあの頃の彼らの眼差しは鋭く、溌剌としていた。人として美しかった。輝いて感じられた」
「困難が人を輝かせる瞬間は確かに存在する。だが、判ってるんだろう。見て見ぬふりをするんじゃない」
俺は邦香が言及しなかった事実を指摘した。
「お前がどれほど主張しようと、親を亡くした戦地の子供の目は虚ろだった。『ラクシャス』や『ナーサティア』の真価は、そういう極端な不幸を減らす能力にこそある」
「ならば貴様は政治をアプリに任せるのは全面的に正しかった、世の中は全てが良くなったと心底思っているのか」
邦香は鋭い声で俺を詰問した。
「確かに経済的な苦境からの自殺は大きく減った。だが反面、自らの不幸の原因として社会を非難できず、諦念からの自殺が生まれた。世の中を効率化して良くなった面は多いが、一向に変わらなかった悪習も少なくない。なのに」
「先に確認しておく」
俺は邦香の台詞を遮り、端的に告げた。
「なんだ」
「どれほど世界の歪みを正しても、お前が誰かを虐めた過去は消えて無くなったりなどしない」
ターン!
邦香は即座に、俺の足下の床を撃った。リノリウムの破片が太ももをかすめ、血しぶきが舞う。
「そのくらい、わからいでか」
「承知の上での行動なら失礼。なら、俺からの答えは昔も今も、一つしかない」
俺は小さく首をすくめて、邦香に告げた。
「『ラクシャス』はそもそも、政治を、世の中を改善するアプリじゃない。政治なんてくだらない行為から人を解放するためのソフトだ」
「確かに、一貫して貴様はそう主張していたな」
「ああ。だから、最初に確認したはずだ。……後悔するかもしれないぞ、と」
それはおそらく、初めて会った時からお互いに密かに承知していて、けれど目を逸らし続けてきた事実だった。
『ラクシャス』を普及させる意義、そのアプリに求めるものが、俺と邦香とでは微妙に、だが決定的に違う。
「けれどわたしはなにも、神様の政治を『ラクシャス』に求めているわけじゃない」
「俺もそんな事は言ってないさ。ただ『ラクシャス』の本質は、あくまで既存の政治の無駄を減らし、省力化するだけだ。本当にそれだけだ」
「しかし同時に政治家の恣意的な政策や、社会の一部を利するだけの政策は施行されなくなる。その分だけでも、世界は大いに改善される筈だ」
「その程度の成果なら、きちんと上げているじゃないか。どの国でもGDPは安定的に発達するようになったし、出生率も貧困率も改善した」
「確かに。にもかかわらず、それで人々が幸せになったようには見えない」
「幸せなんて知るか」
俺は吐き捨てるように告げると、邦香を睨みつけた。
「なんだと?」
「幸せの理由に、政治なんぞ関係ない、って言ってるんだ」
それからしばし、無言のまま互いに見つめ合う。
――くそっ、あと一体どれくらい……
「だがそれなら、今回のこの襲撃は、政治アプリ導入の効果が思惑通りでなかったその腹いせか」
別に邦香になら撃たれても構わない気もするが、今ここで、という訳にはいかない。
俺は時間を稼ごうと、少し話をずらして問いかけた。
「俺を始末して、それでお前の溜飲が下がるならその手にかかってやるのも吝かじゃない。だが、世の中の流れは何一つ変わらないぞ」
「わたしはそうは思わないね。……貴様とジーンを始末できさえすれば、まだ間に合うかもしれない」
「そんな訳があるか。俺たちが居なくなったところで、すぐに誰かが次のアプリを開発するだけだ」
「だろうとも。しかしそうなればまた全ては最初からだ。政治アプリを新規開発するのは一年、二年では無理だし、それだけの猶予が生じれば打てる手はいくらでもある」
「わざわざ新規に書きおろす必要などない。基本コードには『ラクシャス』や『ナーサティア』のソースを流用すればいい」
「『ラクシャス』のプログラムを解析されたとて、何も判らないと断言したのは貴様だぞ」
「それは今の運用環境がP2Pで、複数端末の間を実行コードが転送されまくっているからの話だよ」
「違うね。侮るなよ。プログラミングは素人だが、わたしだってそれなりには調べた」
邦香はふと周囲を見回した。
「全てはこの学校での、生徒会運営アプリ『デジタル執行部』が始まりだった。あれが『ラクシャス』の原型だ。……今は、わたしの手元にコピーが残るだけだが」
「……コピー?」
「オリジナルは学校統合の際に廃棄されている。だがそれ以前に、『ラクシャス』研究用に複製し保存しておいたのでね」
当然のように語る邦香に、俺は唖然とした。
「村政版以降の『ラクシャス』は、君の言うとおり容易にはソースが見えないらしいな。であれば原型である『デジタル執行部』を参考にすればいい。それで君のアプリの特徴と傾向が判るだろう。……にもかかわらず、依頼した専門家からは、解析不能、との答えが返ってきた」
「また、随分とレベルの低い所に出したな」
「彼ら曰く、逆アセンブルしても一部エラーが出るし、コードが追いきれないと。プログラムの規模からすると信じがたいが、開発者は恐らくマシン語を直接書いたのではないか、と最終レポートには記されていた。事実かね?」
「答える義理はないな」
「『ラクシャス』とはまったく異なる理由からだろうが、自己進化型の純AIとして膨大な規模のバイナリをもつ『ナーサティア』も、やはりどんなに解析してもソースが見えないアプリらしい。つまるところ」
邦香は、拳銃を握りなおした。
「万一の際の安全弁として、君以外を直接アプリ開発に関わらせなかったのはまさに正解だった」
「いざとなったら、俺一人始末すれば全てなかった事に出来る、ってか」
「そうだ。不本意か?」
「奇遇だな。俺も最後まで自分以外の手を借りなかったのは、まったく同じ事を考えていたからだよ。もっとも、不正防止が主眼だったが」
政治アプリにバックドアを設ければ、未来永劫美味い汁を吸える、というのは誰だってすぐに考えつくだろう。
それを防ぐもっとも単純で確実な策は、自分以外の誰にも、ソースコードに触らせない事だ。
間違いなく、ジーンも同様の結論に至って、彼一人きりで『ナーサティア』を仕上げたのだろう。
「途中からお前がやけに協力的で妙だな、と思っていたが、そういう思惑だったとはね」
また予想外の事態に陥って、アプリを強引に葬る必要が生まれた際にも、自分しかソースを知らないのは都合が良い。そんな計算も無論あった。
まさか自分の命ごと始末されるとは予想していなかったが。
「しかし残念ながら、全てのプログラムの肝はアイディアだ。何をプログラミングしてどんな処理をさせるか、その目的さえ確かなら、どれほど規模が大きくても複雑でも、後は単なる作業にすぎない。俺やジーンが一人で書いたら年単位でも、優秀なプログラマがチームを組み、人海戦術で取り組めばアッという間に仕上がるぞ」
「だからさせんさ。そんな真似は」
邦香は銃口をわずかに上げ、慎重に俺に照準をあわせてくる。
「……恨むな、とは言わない。本来なら、『ラクシャス』が成功して死ぬのはわたしの役目だった。けれど世の中はままならないものだな」
「どういう意味だ?」
――死ぬのが役目?
俺が訝しむと、邦香は苦笑した。
「なんだ。そこには気づいていなかったのか。……時代の節目節目には、人身御供がつきものさ。誰が何のために『アイドル』など目指したと思っている」
アイドル――偶像、か。
「社会構造を効率化し、政治という既得権益を人々から取りあげる。当然、不満を抱く者共は現れる。彼らが溜飲を下げ新たな時代を受け入れる代償として、誰かがアイコンとしてそれを引きうけ、斃れなければ本当の意味では時代は変われないだろう。それこそがわたしたちが『ナーヴァニル』を結成した理由だ」
『ラクシャス』の広告塔として派手に活動し、その象徴として死ぬ。
その為に結成されたのだと、事も無げに邦香は告白した。
「にもかかわらず、我々の予想を上回って、貴様は中途半端に上手にやりすぎた」
「心外だな。他にも打てる手はあったと、反省している最中だったんだが」
「我々は人が政治をアプリに委ねる決意を固めるにはもっと時間が必要で、その過程で多くの犠牲が生じると予想していた。それが必要だと踏んでいたんだ。こんなに順調に、こんなに血を見ず終わるとは誰も予想すらしていなかった」
「つまるところ、血が足りなかった、と?」
「……いや、そうじゃない。多分」
俺が問いただすと、邦香は苦しそうに首をよこに振った。
「判らない。どれほど考えても判らないんだ。一体我々のどこが間違っていたのか。政治を効率化し、依怙贔屓をなくして公正にする。貧富の差を減らし理想的な範囲の格差を残し、コントロール可能なヘイトを各グループ間で相互に交わさせる。『ラクシャス』は私の期待以上に理想的な社会を生み出した。過去の成功した政治のパッチワークにすぎないと君は謙遜するが、その成果には心から感謝している。……にもかかわらず、その社会で暮らす人々より、『ラクシャス』以前の世界の人々の方が美しい」
邦香の握った手に、力がこもる。
いつの間にか、階下から聞こえる銃声は途絶えていた。
――来た……
「だから君には甚だ申し訳ないが……わたしは決断せざるを得ない。もう一度、最初から全てをやり直してみるべきだと」
だが同時に、俺は窓の外から、待ち望んだ音が聞こえてくるのに気づいていた。
「なるほど。別に恨みはしないが……些か短絡的すぎる結論のような気はするが……痛てて……」
俺はそう言いつつ、身体を少しかがめて、肌が裂けて血の滲む太ももに手をあてる下手な芝居をした。つられたように、邦香の視線もわずかに下がる。
「なっ!」
次の瞬間、俺はポケットに手を突っ込み、予備の拳銃弾を数発、邦香の顔めがけて投げつけた。
そして身を翻し、全力で階段を駆け上がる。
「待て!」
ターン!
背後から一発だけ小さな銃声が聞こえたが、勿論当たりはしなかった。
ありったけの力を振り絞り、一段飛ばしで階段を駆け上がると、屋上へのドアに飛びつく。
南無三。
祈りながらドアノブを回すと、そこは奇跡的に施錠されていなかった。ドアを引き屋上へと飛びだす。ふり向き、再びドアを閉じて、そのドアノブを両手で握りしめる。
護身用の小型拳銃に、スチールドアを貫通するほどの威力はない。すぐに階下を制圧した邦香の援軍も上ってくるだろうが、ヘリコプターが屋上に着陸するまでのわずかな時間さえ稼げれば、それでいい。
――間に合ってくれ、頼む!
そう祈りながら、俺は全身をドアに押しつけつつ、頭上を見あげた。
……嘘だろ。
そこに、ヘリコプターは確かに存在していた。けれど、
それは期待していた海兵隊の軍用ヘリではなく、小さな民間航空のヘリコプターだった。
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