3-11
二十歳を過ぎ、コケティッシュな魅力に満ちた少女は、魔性の女へと成長していた。
「まったくもう。あたしがわざわざホテルに誘ったのに、こんな無粋な部屋を押さえるのなんて、智成さんだけです」
とはいえ、椅子に座りこみ、バタバタと細い脚を揺らしながら文句を呟く姿には、出会った頃の面影が色濃く残っていた。無邪気で可愛らしい。
「そうか? いい部屋だろ。海が良く見える」
「だけど、せっかくの二人きりなのに……こんなに大きな窓に囲まれて、万が一、盗撮されたらどうするんです?」
「別に? 覗かれて困るような真似はしないさ」
蠱惑的な眼差しを、俺は軽く受け流す。湾岸沿いの再再開発地区に立てられた高級高層ホテルは、昼間のみの使用でも部屋をキープできる。中央にはキングサイズのベッド。
もっとも、三方を大きな窓で囲まれた最上階角部屋スイートルームの眺望は抜群だが、あまりにも開放的すぎて、真昼の情事には向かない。
「もぅ、つまんないなぁ……でも、本当にいいの? 狙撃対策は?」
だが、続けて結城さんに真顔で問われて、俺は言葉に詰まった。
しまった、そういう面での配慮も必要だったか。
「まぁ、大丈夫じゃないか?」
「何も考えていなかったでしょ。本当は」
確かに周囲には、このホテルに並ぶ高さのビルが幾つもある。自分の安全に無頓着なのは変わらないなぁ、との結城さんの指摘に、俺は愛想笑いを浮かべるしかなかった。
「だろうと思って、事前にウチのスタッフで一通り周囲のチェックは済ませたから」
懐柔策チームにだって、セキュリティを担当する部署はあるからね、と結城さんは誇らしげに胸を張る。
「自爆ドローンにでも突入されない限り、大丈夫」
「ありがとう。そりゃ心強い」
「だから、その豪華なベッドで心ゆくまで」
「まぁ、それも悪くはないけど……打ち合わせが終わったらじっくり、ね」
「えっ? 嘘、マジで?」
「そこでたじろぐくらいなら、つまらない冗談言うんじゃないって」
俺が軽く額を突くと、プーっと結城さんは頬を膨らませた。
「別にたじろいだ訳じゃないもん。ただ、邦香への言い訳について一瞬悩んだだけで」
「櫻井への釈明なんか必要ないだろ……さっさと始めようか」
俺はそう言うと、結城さんの向かいの椅子に腰掛けた。
脚の細い、モダンなガラステーブルに資料を広げる。
そして姿勢を正し、口調を改めてたずねた。
「先の話をする前に、チームの様子をもう一度確認させてもらっていいですか」
「
結城さんは悔しそうに言いながら、無造作にテーブルに肘をつく。
「SNSやマスコミを使って『ラクシャス』の好感度上げをして、地方をドサ周りして自治体に地道に売り込みをして……採用例は二桁を越えたし、これからも田舎の町村部ではポツポツと受け入れ先は増えていくと思う。だけど、人口比でみたらこの国の0.1%にも及ばないんだよね」
「政令指定都市、は高望みにしても、地方の中小都市にもまだ難しいですか」
「これまで普及に成功したのは全て、政治や行政に旨みがなくなった過疎地だから」
結城さんは、導入に至った自治体の共通項を丁寧に説明してくれた。
「どこも議員にフルタイムの報酬が支払えずパートタイム。公共事業や外郭団体を通して利益を得ようにも財政は真っ赤。たとえ首長になっても、もはや甘い汁は吸いようがなく、苦労だけが山積み。そんな自治体ばかりだもの。『ラクシャス』を導入しているのは」
そこと比べれば、市規模の都市はまだ旨みが残っているから政治家が断固反対で無理、と結城さんは断言した。
「『ラクシャス』デビューの時に、せっかく智成さんが追加してくれた口利きポイントシステムだけど、やっぱり様式美として受け入れがたいようなんだよね。議員や市長が懇意の業者に仕事を回すのは、あくまで非公式に労を執った、そういう形でないと、有難みがないみたいで」
「システムの表示形式なら修正可能だけど、そういう問題じゃないんだろうな」
「うん。要するにこれまでの成功例は、現状維持が限界に達した自治体が延命策として『ラクシャス』を選んでいるだけなんだもの。吸える蜜の量が増えるわけでもないのに、連中が権力を手放すわけがないよね」
「権力の甘い蜜、か」
「細かい理由なら他にもまだ色々あるけど、結局、現実はそういう事。どんな思想や主義主張を掲げた勢力も、儲からないならいいや、って政治を投げ出す。『ラクシャス』はその穴埋めをしてるだけなんだよ」
身も蓋もない説明に、俺と結城さんは互いに顔を見合わせ、溜息をついた。
「そういう訳で、今後『ラクシャス』の普及が劇的に進むのは難しいと思う。リーマン級の経済危機と世界規模の大規模災害が同時に起きて、全国の自治体がバタバタと破綻するような展開になれば話は別だけど……」
「それを望むようじゃ、本末転倒だろ」
『ラクシャス』普及のために、危機を演出する案は以前にも検討された。だが無論、意味のない策だとして皆から却下されている。
「だよね。……でも、『ナーサティア』の噂はこっちでも聞いてるよ」
結城さんは顔を上げ、興味深げに瞳を輝かせた。
「かなり凄いプログラムだって? 『ラクシャス』の良いライバルになりそうなんでしょ? ……この国の人って、舶来物に弱いし、そのくせ国産に妙に肩入れしたがる性質もあるから、いい刺激になりそうじゃない」
結城さんたち懐柔策チームでも、『ナーサティア』の登場は今、一番のトピックスらしい。
「これまでは『ラクシャス』の孤軍奮闘状態で、比較対象がなかったし、そもそもアプリに政治を任せるなんて、って拒否反応ばかりだった。でも、『ナーサティア』が現れるなり反応が劇的に変わったもの。みんな興味津々。自分たちが先頭にたって世の中を変えるなんてまっぴらご免だけど、周囲の変化には乗り遅れたくない、って人たちがどれほど多いか、改めて実感しちゃった」
「『ナーサティア』の評判はどんな感じです」
「ウチみたいなベンチャーと違って、世界最大手のIT企業からのリリースだからね。やっぱり安心感はあるみたい。将来世界標準になるであろうアプリを導入した方が確実じゃないか、って勢力と、まだそうなると決まったわけじゃないし、国産の方が絶対に安全だ、って勢力は互角かな」
結城さんによれば、今のところは『ラクシャス』の方が先行していた分だけ、実績という面でやや分があるけど、うかうかしていたらすぐ抜かされるよ、との分析だった。
「後出しジャンケンは、昔はこの国の十八番だったけど、今は
「ああ。恐らく数年以内に欧米で『ナーサティア』の採用が始まるだろう。続けて各大陸向けのローカル版が出てくる。それまでが勝負所だな」
「こっちの、ASEAN版の『ラクシャス』はどうなってるの? 開発はしてたよね?」
「開発そのものは大体終わってる。基本構造はそのままで、UIの変更と細かいローカル用アジャスト機能の追加だけで、たいした手間じゃないから。でもな」
『ラクシャス』普及策の一環として、まだ行政機構の未発達なアジア・アフリカ向けのアプリをローンチして、海外での採用実績を作ろう、というのは国政版の開発と同時に始まったプロジェクトだった。
「現状では、内務省から輸出の許可が下りていないんだ。そもそも論として、軍隊はあくまで行政組織の一部だし、ASEAN圏じゃ治安維持組織と軍隊の境目が曖昧な国も少なくない。必然的に、『ラクシャス』も軍のコントロール機能を備える事になる。だが、奴らはそれだとワッセナー協定に引っかかる、というんだ」
ワッセナー協定は、解散したココムの後継として、旧共産圏への軍事物質の輸出を規制しようという主に西側諸国の間で結ばれた紳士協定だ。今では、発展著しい新興国の一部もその対象に含まれている。
「まぁ、役人の本音としては、この国で冷遇しておきながら、他国への輸出に成功して、あまつさえその国を繁栄させられたらたまらない、って所だろう。が、『ラクシャス』は一部にセンシティブな内容を含んでいるのも確かだ。主に軍事面に関してな。アプリの導き出したデータを一部抽出して、恣意的に加工すれば、開戦の最適なタイミング、最大限の成果が見込める講和方法、などを探り出すのも不可能じゃない」
不可能ではない、というだけで、決して容易ではないし、その内容はあくまで確率的に勝算が一番高い、というだけで結果に保証などないけれどな、と俺は言い添えた。
「それに、本気で輸出して採用させるなら、少なくとも俺はしばらくの間対象国に移住してその調整に専念するくらいの覚悟が必要だ。でも今のところ、その余裕はないだろ?」
「この土壇場で智成さんに抜けられるくらいなら、凜ちゃんに撃って貰うから。後から」
結城さんは、あながち冗談ともいえない口調で宣言する。
「そんなのだめ、絶対。判ってるでしょ」
「勿論。だからこうして、結城さんと密会しているんじゃないか」
「だから、せっかくの密会ならもっと色気のある場所で……じゃなくて」
結城さんは脱線したかけた口調を自分で直し、真顔で俺を見つめる。
「肝心の話、どうなの『ナーサティア』は? 本当に『ラクシャス』の対抗馬になりそうなの? その性能は?」
矢継ぎ早に、結城さんは訊ねてくる。
懐柔策チームのトップ、結城さんが密会を求めてきた主な理由は、やはり新たに現れた『ナーサティア』への対応についてだった。
「先に断っておくけど、あたし個人としては、『ナーサティア』の方が本当に優れているなら、『ラクシャス』に固執するのは愚かだと思ってるの。これまで苦労して作ってくれた智成さんには悪いけど」
結城さんは、後ろめたそうに俺からわずかに視線を逸らしながら、しかしきっぱりと断言した。
「たとえごく僅かでも、統治プログラムの絶対性能に差が存在したら、それが長期間にわたって積み重なったとき取り返しのつかない違いになる。そうでしょ?」
だから個人的な思い入れだけで『ラクシャス』を選べない、と結城さんは訴えた。
「間違ってはいないね。俺もそういう意味で『ラクシャス』にこだわるつもりはないよ。自分の作ったアプリだから、という理由ではね」
とは言えだ、と俺は続けた。
「政治アプリの性能が、簡単に比較できたら苦労はない。判るだろ」
「まあね。想像はつくけど」
行政支援プログラムは、ゲームソフト等とは根本的に性格が違う。
何が正解か簡単には判らない、結果論でしか評価できないアプリの政治能力を比較するのはまったく容易ではない。
「政治政党の能力の比較だって、現実には不可能だもの。だからみんな、単なる広告イメージに頼って選んできたわけで」
「そのとおり。政治アプリの性能は、単純な演算能力や分岐能力を比較しても意味がない。導き出された将来予測とその対処策が正しかったかどうかが全てだからな。その検証には膨大な時間がかかる」
しかも、政策の真の評価は理論的には不可能に近い。数十年に渡る不景気は破滅的な戦争を回避した結果かもしれないし、空前の好景気はその後の破綻の引き金になるかもしれない。永遠に、検証は終わらない。
「結局、どちらのアプリが優れているかは事実上、水掛け論にしかならないんだ」
「だったら、何を参考に選べばいいのよ」
俺の説明を聞いて、困惑したように結城さんは顔をしかめた。
「肝心のそれが知りたくて、わざわざ会いに来たのに」
「性能差を見極めるのは難しい。だが、ジーンはアプリ選びの指標となる情報はくれたよ。まぁ、ギブアンドテイクだけどな」
ジーンは『ナーサティア』の開発思想について惜しげもなく語っていった。否応なしに、俺も応じざるを得なかった。
「『ナーサティア』の開発主任ジーン・マクドネルは本人いわく中東難民の二世らしい。おそらく事実だろう。幼い頃から現実の政治に翻弄され続け。その経験から『ナーサティア』を作ったそうだ」
「まぁ、いかにもありそうな話よね」
「それ故、彼のアプリは過去の政治から何一つ学んでいないそうだ」
「えっ? 本当に?」
驚いたように、結城さんは目を見開いた。
「現実の政治の結果なんて失敗ばかりだし、意味ない、って感じるのは理解できるけど、極端すぎない? それで、まともに動作する政治プログラムが作れるの?」
「ああ。計算機のリソースを膨大に消費するが、不可能か可能か、といえば可能だ」
俺は囲碁ソフトの例をあげて説明した。
「初期の囲碁ソフトは、プログラムに定石とされた戦術を教え込ませて戦わせた。中期にはプロ棋士の棋譜を大量に読みこませ、一手ごとの優劣を評価する関数を作らせた」
囲碁ソフト開発の歴史は、同時にAI開発の歴史にも近い。
「しかしこの方式では、プロに迫る能力は得られても越えることは難しいと考えられた。そこで最終的に最強とされた、プロより強いソフトへと至った手法はこうだ。プログラムには純粋に囲碁のルールだけを教え、その後、ひたすらコンピュータ同士に戦わせる。最初は、ただランダムに石を置くことしかできないが、それぞれ、自分と相手の選んだ手を評価し、自力で思考ルーチンを進化させていく」
「まったく、人の力を借りずに?」
「そうだ。ソフトが人から学んだのはルールだけだ。しかし数千回数万回……スーパーコンピュータを使えば、これまで人類が打った囲碁の総局数よりも多く、コンピュータは対局を重ねる事が出来る。そしてそれを全て記憶し、最善の一手への教材へと生かせる。プロ棋士でも歯が立たない囲碁ソフトは、そうやって生み出されたんだ」
俺の説明を聞き、結城さん恐る恐る、という感じでたずねてくる。
「そして『ナーサティア』も、同様の手法で開発された、と?」
「恐らくね」
俺は頷いた。貧乏プログラマーの俺には、理屈は理解できても実行は不可能だ。しかし、世界トップのIT企業に務めるジーンにはそれが可能な環境がある。
「まず人としての特性を備えた、最小限の個体を設定する。それを数千、数万、数十万~数百億まで、様々な規模で存在する世界を想定し、それぞれの世界の興亡をシミュレートする」
「人としての特性、って簡単にいうけど、それを抽出して要素化なんて実現可能なの? それぞれ個性や性差があるし、そもそも意識が……しかもそれが膨大に存在して、その関係性をシミュレートって、絶対無理ゲーじゃない?」
「勿論、人の全ての要素を備えた個体を想定してシミュレーションするなんて不可能だよ。でもこの場合は、数が膨大な分、人の個性の差は打ち消しあうと考えても差し支えない。人の基本欲求はわずか三つで、意識はそこに従属する存在にすぎない。他のほ乳類と同様の手法で、要素の抽出は可能だ」
「でも、少しの違いが大きな差になる場合だって」
「勿論、バタフライエフェクトは生じる。でもシミュレートする回数を膨大にすれば、やっぱりそれも誤差として吸収される。統計学的な処理さえきちんと間違えなければ、プログラムを構成するのに必要なデータは得られるはずだ」
俺は丁寧に、『ナーサティア』が成立する理由を説明した。
「小集団から世界の総人口の数百倍まで、様々な規模の社会を仮定する。構成する個体の要素も同様だ。増えやすい、喧嘩っ早い、などあらゆる特性の個体を設定して、その割合を毎度ランダムで変える。そうして作られた架空人類社会の統治に際して、パラメータ毎に結果を集積し、状況に応じた最適な統治の方法を導き出す。パソコンの黎明期に流行ったライフゲームの超大型版みたいなものだ」
「そうすれば、最強の政治手法が見つけ出せると?」
「単純に、一つの正しい統治方法が存在するわけじゃないよ。あらゆる状況に対して、その状況の分だけ無数に回答がある。場合によってはパラーメータが僅かに異なるだけで、まったく正反対の政策が指示される場合もあるだろう。まあ、これは『ラクシャス』も同じだけどね」
俺は『ナーサティア』が行うであろう処理の理屈について、予想がつく限り説明した。
しばらく例をあげながら解説すると、やがて結城さんはおもむろに立ちあがった。
「色々説明れさて理解できた、ような気がするけど……やっぱり判らない」
そのままばったりと、ベッドの上に倒れ込む。
「要するに、『ナーサティア』は電子上に架空社会を無数に作って、そこでのシミュレーション結果で得られた教訓を元に現実の政治を判断するんだよね? でも理屈はともかく、それの何が問題で、実際は『ラクシャス』とどう違うのかが判らない」
「ああ、そういう疑問か」
俺は微かに視線を逸らしながら答えた。ベッドに寝転がった結城さんの短めなフレアスカートは、かなりきわどく乱れていた。
プリント生地のスカートは柔らかそうで、裏地が艶やかに輝いている。
「俺が見るところ、『ナーサティア』最大のウィークポイントはまさにその開発手法そのものにある。『ナーサティア』はゼロから世界を構築して、その興亡をシミュレーションする。……だとしたら、そもそも、その世界の目指すべき姿は?」
しかし、『ナーサティア』のアキレス腱に感づくあたり、結城さんはさすがに鋭い。
「どんな世界を目標とするか、理想とすべき社会はどのようなものか、それらを設定をしなければそもそもシミュレーション自体が成立しないだろう?」
「目指すべき社会の姿が必要なら、普通に、平和で豊かな世の中が目標じゃダメなの? みんなが幸せに、楽しく暮らせる社会で」
「平和で豊か、って具体的には? トータルはかなり豊かだけど貧富の差が激しい社会と、そこそこの豊かさだけど貧富の差が少ない社会はどちらが理想? たまに戦争するけど平均寿命の長い社会と、戦争はしないけど犯罪が多く寿命の短い社会、どちらの世界で暮らすのが幸せか、どうやって判断したらいい?」
俺は単純に判断できない状況を、幾つか具体的な例としてあげた。
「判断の難しさは、幸せの定義だけに限らない。極論、道義的な善悪は全て……例えば、人口一億人の平和で豊かな大国の隣に、人口一〇〇万人の貧しくて独裁者に支配された小国があったとする。その独裁者は民衆が選んだんだ。その小国は国際法に一切違反していない。……大国は戦争をしてでも小国を開放するべきだろうか?」
「それは……確かに、簡単には選べないけど」
「結局、完全に零から社会をシミュレーションする場合、プログラマーがあらかじめ何らかの価値基準、もしくは目標とする姿をプリセットする必要があるんだ」
「その基準自体も、アプリに探させるんじゃないの?」
「確かに、それもまるっきり不可能ではない。しかしプログラムの自立的な目標設定に全てを任せた場合、極論では、人類は滅亡するのが地球にとっての正解で、だから早く全面核戦争をすべきだ、なんてのが統治アプリの導き出した答えになる可能性もあり得る。そこまで極端ではなくとも、殺人を禁忌とせず弱肉強食を絶対の正義として、無政府状態であり続ける方が良い、人は高度な文明など築くべきではない、という結論になる可能性なら決して少なくない。人類が滅亡する可能性の大半は、文明が進歩したが故に生じているからね。エコだのSDGsだのいっても、畢竟あと二、三百年程度で人類は滅びる可能性が高い。保って千年というところか。しかし言語など持たず原始的な狩猟・採集生活を続けていたら、滅びるまではまだ数十万年単位で余裕があるだろう。純粋に一つの生物種と捉えたら、後者のほうが正解になる。つまり政治アプリによる、社会と文明、それを育んだ知性の否定だな」
政治を含めた人類の文化・文明は、人類が短期間で効率よく繁栄するために身につけた種の特性と考えられる。
しかしそれは、表裏一体で、文明社会こそがホモ・サピエンスの滅亡を早める最大要因になっているとも言える。
この発展を阻止するのは、人類の永続的な発展を主目的と考えた政治アプリにとっては間違いなく正義になるだろう。
俺は『ナーサティア』が逃れ得ないであろう、根本的な問題を説明した。
「自己進化形の人工知能による政治アプリで、AIの暴走、みたいな結末を避けようとしたら結局、目標とする社会、もしくはなんらかの価値観・倫理観を事前に設定する以外、他に方法はない筈だ」
「目標を自力で探させるのが危険なら、目標設定そのものを禁止すれば?」
「それこそ不可能だ。目指す社会像がなければ、アプリが様々な政策について、是非をそもそも判断のしようがない。かといって全てが成り行き任せで、社会がどうなっても構わないなら、政治自体が必要なくなるだろ。明日、世界が崩壊してもOKなら」
そもそも、何らかの目指すべき社会の姿があるからこそ、政治は成立するのである。
「そして、どれほどジーンが自制的であったとしても、その目標像には彼の宗教観・個性が否応なしに影響するだろう」
「実際、どんな人だったの? 智成さんは会ったんでしょ」
「たったの一度きりだけどな。それで充分だった。ジーンは個性的だが、まっとうな倫理観を備えた、十二分に理知的で穏健な好人物だと感じたよ。誰だって彼とは友達になりたいと望むだろう。おそらく女にも猛烈にモテる。……しかし、どれほど彼が素晴らしく非の打ち所のない人格の持ち主だったとしても、問題はそこではないんだ」
俺は説明した。
「囲碁ソフトなら、勝負に勝つ、という簡潔で明快な目標がある。だから完全な自己学習型のプログラムでなんら問題がない。しかし、人類社会は違う。目指すべき理想社会は千差万別だし、そもそもそんなものはない、という人も多いだろう。宗教観が大きく反映される場合だってあるはずだ」
「だからこそ、どんなに人格者であっても、ただひとりの価値観が反映された社会にするのは間違いだと?」
「繰り返すがジーンは人格者だ。彼は個人的な価値観をアプリに設定したりは決してすまい。だがそれでも、人類に普遍的な価値観だ、と彼もしはく彼の開発グループが信じている内容は、反映されている可能性がきわめて高い」
「人を殺してはいけません、とか、物を盗んではいけません、みたいなレベルでも駄目?」
「ダメだ。殺人を絶対の禁忌にしたら、戦争で反撃はできない。盗む、の定義はもっと大変だ。金融商品や株式投資は、理論的には窃盗と同じだとする宗派もあるんだぞ」
「そのへんは適当に良い案配で……なんて融通は利かないか」
「プログラムの構成次第だが、自己進化形AIの場合、設定した倫理観なり社会目標なりが、矛盾を回避するために真逆に解釈される可能性だってあり得る。殺人事件を防ぐ究極的な方法は、人類を絶滅させることだ。加害者も被害者も消滅すれば、殺人事件は起こりえない」
まぁ、これは極論だが、倫理観を矛盾なくプログラムに設定する、というのは言葉ほど簡単な作業ではない。
「たとえば、アプリに政治を任せて社会が極めて合理的に進歩したとする。その結果、国民全員が一〇〇%満足して幸せで、しかしそれ故非婚と少子化が進んで、五〇年後には人類が絶滅すると予想された。その時、プログラムは誰かを不幸にしてでも無理やり子供を産ませるべきか、それとも皆が幸福だからと納得して人類が滅びるのを見守るべきか。……アプリどころか、人間にだって返事に困る問いだが、『ナーサティア』を導入する場合は、その判断をAIに委ねて構わない、っていう覚悟が必要だ」
「彼らは、それを理解して納得して、『ナーサティア』を開発してるの?」
「理解はしているはずだ。そのうえでリスクを許容している理由の一つは恐らく、シンプルに破綻へと至る確率そのものが相当に低いからだ。加えて、東西冷戦の時代だって、全面核戦争によって人類が絶滅する可能性は存在した。キューバ危機など世界の破滅まであと一歩だった、という人もいる。ならば、今後も人が政治を続けて世界を破滅させる可能性より、『ナーサティア』が理想を追いすぎて世界を破滅させる可能性の方が低いなら、理論上『ナーサティア』を選択する方が正しい」
可能性だけを論じるなら、人類を絶滅させうる核戦力は、現在も世界に存在している。そのボタンを握っているのはただの人間だ。政治アプリの信頼性は、それら政治家の信頼度より高ければ問題ない、という考え方もできる。
「もう一つ、大きな理由としては、西欧の政治に対する意識の根底には王権神授説があるからか。神から人に与えられた世界、その世界を統治する義務を神から授かった王。この感覚は百年や二百年、民主主義を経験したところで消え去りはしない」
原始の政治は、宗教と不可分だった。特に一神教の教義は権力者の統治に最大限利用されてきた。
不可侵で絶対な神の立場と、理解不能で手出し無用の政治アプリは、ある意味よく似ている。
「理屈ではなく、感覚的な部分で、『ナーサティア』はその成り立ちと性格から、そこら辺が西欧人の意識に綺麗に嵌るんだよ、きっと」
「ちなみに、『ラクシャス』はそういう判断に困る難題に直面した場合、どう対処するんです?」
「知ってのとおり『ラクシャス』は自身の倫理観に基づく判断をしない」
ベッドに寝転がったまま訊ねてきた結城さんに、俺は答えた。
「例えば、出生率はあくまで無数にある関数の一つにすぎない。ただ関数同士の相関係数から、社会において比較的重要な値の一つだと判断して、その数値が一定の範囲内になる政策を選ぶだろう。結果的に人類が絶滅するような政策は避ける。単にそれだけだ」
「なら住人の幸せとかは、まったく配慮しないんですね?」
「しない。漠然とした幸せは、関数として評価できないからな。ただ、収入に労働時間に持ち家率に不登校の児童数に精神科の受診率に飼い猫の数に、つまりありとあらゆる社会的な数値は関数としてアプリに取り込まれている。その内容に意味は見いださず、ただ過去の数値を参照し、個々の関数に対しこれまでの政治が目指していたであろう傾向を予測し、世界中で実施された政策の中から最適な一つを選ぶ」
「なるほどね。『過去に実施された政策の中から』ってのがこの場合の肝なんだ」
結城さんはさすがに理解が早かった。
『ラクシャス』は世界中の過去の政策を機械学習し、現状の対策として最適な内容をその中から選ぶ。つまり、自律的に新しい政策を編み出す機能は実装していない。
「『ラクシャス』のセーフティ、になってるのね。それが」
「ああ。つまりは開発コンセプトがまったく異なる、としか言いようがない。『ナーサティア』が一神教の王権神授説的存在なら、動物にも草にも石にも、何もかもに神様が宿る東洋精霊信仰的な意識に似ているのが『ラクシャス』だ。過去の知恵は誰のものでも、選り好みせずに使う」
俺は頷いた。
「ジーンに問われたよ。どうして過去の政治に対してそこまで肯定的なのか、と。移民出身故に苦労した彼にとっては納得できないんだろうな。過去の政策からの引き写しだけで、政治を回していく、っていう発想は。気持ちは理解できる」
「本当ですよね。何故なんです? 智成さんは色々いっても基本、体制派ですよね。実はお父様大好きとか」
「体制派はやめてくれ。親父も関係ない。ただ、個々の政治家はともかく、その集合知は最大限活用すべきだと考えてるだけで」
冷やかすような結城さんに、俺は無造作に手を振った。
「なにより、俺とジーン最大の差異は政治の力をどこまで評価しているかだよ。ジーンは政治が人類社会でもっとも重要なポイントだと考えている。だからこそ、政治が最大限の力を発揮するであろうプログラムを組んでる」
ジーンと直接会い、感じた違いを俺は説明した。
「俺は違う。政治はあくまで社会を構成する様々な要素の一つでしかない。その中でも、人々の営みをベースとした経済活動、様々な文化活動、それらと比べたら重要度は一段低いと感じるほどだ。最低限、社会の潤滑剤として機能さえすればそれで問題ない、とね。だから過去の政治の良いところをつまみ食いして、七十点の政治が成立すればそれで充分とする立場だ」
「だったら、政治アプリとしての絶対性能は『ナーサティア』の方が上じゃないの?」
「おそらくはそうだ。そもそもプログラムとしてのレベルでは、比較にならないほど向こうが上等だからな。外部の情報を用いず自己進化できるプログラムは正しくAI《人工知能》を名乗るに相応しいが、ネットを介して収集した政治情報を継ぎ接ぎして用いるだけのアプリは恥ずかしくてとてもAI《人工知能》など名乗れない。しかし『ナーサティア』は純AIであるが故に、その特性上、人類の絶滅に繋がるようなとてつもない大ポカをやらかす可能性は永遠に消えない。加えて、おそらくキリスト教的価値観がありとあらゆる社会のベースになる。もちろん表面的な文化の多様性は守られる。しかしその根底をなす価値観は一神教のそれとなるだろう」
「なら『ラクシャス』に欠点はないの?」
「基本的にピーク性能より信頼性を重視した思考ルーチンになってる。なおかつ、過去の政治を参照する以上、人種差別も男尊女卑も、薄まりこそしても決して消えて無くなりはしない」
俺は素直に懺悔した。
「人の性は愚かで邪悪だ。そして『ラクシャス』は、その悪癖を人類が滅びる最後まで保存する」
「なるほどね。そりゃ、移民で苦労した人からすれば、恵まれた環境で育った日本人の作るアプリは脳天気すぎる! って気持ちになるかも」
納得したように頷きながら、結城さんがベッドで身を起こす。
「だけどその説明を聞いたら、仮にどれほど性能が優れていても、単純に『ナーサティア』を、とは言えなくなっちゃうなぁ」
「性能と安全性がトレードオフの関係になってしまうのは、アプリの特性上やむを得ない。それに、事の本質は結局のところ文化衝突だからな」
俺は起きあがった結城さんに近づくと、その手を引いて立たせた。
僅かに残念そうな表情を浮かべながら、それでも傍らの椅子におとなしく座りこむ。
「専制君主制崩壊後、西欧諸国がその後の世界をリードした理由の一端は、いち早く民主主義、というフォーマットを確立した事にある。工業規格もOSも、デファクトスタンダードを握り、その内容を決める側に回ることが何より肝心だ」
「詰まるところ、アプリが政治を司る時代になっても、弱肉強食な国際社会の本質は変わらないってわけなのね」
「例えば、政党を事実上二つに限定し、双方が政治資金に上限を設けず票を買いあさる。アジアであれば到底認められないが、民主主義を定義する側でならば、それも正しいと許される。実質は重要じゃない、正しいか正しくないかを定義する側に回ることが肝要なんだ。こればかりは政治アプリでも同様だ」
そのため近年では、西欧諸国の難癖を避けるため、たとえ多数決で意志決定をしていても、制度として民主主義を名乗らない途上国も増え始めている。
「『ラクシャス』ASEAN版の開発が、滞ってる理由の一端でもある。こちらがいくらよかれと考えたところで、政治的侵略と警戒されるのは避けられない」
「だとしたら、性能以前に『ナーサティア』採用の目はないかぁ。確かに、知らないうちに中身を弄られても対応できないんじゃ、危なすぎるもんね」
「周囲はともかく、ジーン個人は本気で『ナーサティア』の売り込みに来た訳じゃなさそうだったしな。むしろ内心では『ラクシャス』の存在を喜んでいる節すらあった」
「どういう事? ライバル宣言しに現れたんじゃないの?」
「そんな薄っぺらい人間じゃないよ。『ナーサティア』の欠点は、開発者であるジーンが誰より一番良く承知しているさ。その危険性もな。だからこそ『ラクシャス』開発者である俺に会って、その本質を見極めようとしに来たんだろ」
小さなメモ帳に、今日の話の内容をまとめようとしていた結城さんは、手を止めて俺の顔を見た。
先を促すかのように、軽く頷く。
その表情は、ベッドを上でこれみよがしに俺を誘っていた時とは大違いで、恐ろしいほど真剣だった。
「つまり、奴は奴で『ラクシャス』を利用するつもりなんだ。それもよりによって、自分のアプリの、安全装置としてな」
「それって……『ラクシャス』のロジックを一部でも『ナーサティア』に組み込もうとしてる、って事?」
「まさか。そんな面倒くさい真似をする必要はない。もし『ナーサティア』と『ラクシャス』のどちらもがそれぞれの開発国に採用されたら、国際関係の問題を処理するために、両者は相互に接続せざるを得ない。共通のプロトコルを設定し、情報交流をして……ジーンはこいつを上手く使うつもりなんだろうな」
ことさら情報参照プログラムを設定する必要すらないのかもしれない。洗練された自立型のアプリであれば、接続先からもたらされた情報を最大限活用しようとするだろう。
「『ラクシャス』の選んだ政策内容を吟味し、自らの政策と極端に違うと判断した場合は、その理由を再考する。それだけでも、アプリが暴走する危険性は著しく低下する」
「えーっ! それ、かなり虫が良くない?」
結城さんは憤慨してペンを振り回す。
「自分たちは性能最優先の政治アプリを作っておきながら、安全策には『ラクシャス』を頼ろうだなんて」
「構わないさ。というか、いずれはお互い様になるからな」
「どういう事?」
「プロトコルで情報を参照できるのは『ラクシャス』だって同じだ。『ナーサティア』が実施した政策について、世界中のどこより先に『ラクシャス』はその結果共々学習する。現実に施行された政策なわけだからな。『ラクシャス』の評価系は近年の結果ほど重要視する傾斜配分のシステムになってるから、『ナーサティア』が上手いことやった政策は、すぐにパクって真似するはずだ。つまり結果として、二つのアプリに決定的な差がつく心配はあまり必要ない」
「パクって真似する、って随分な言い方じゃない。でも、そうなんだ」
「多少のタイムラグは避けられないけどな。効果的でなかった政策を避けられる分、トータルとしてはウチの方が得かもしれないくらいだ」
将来、二つのアプリの間に発生するであろう相互依存の関係について、俺が予測を説明すると、結城さんは納得したような、でもどこか釈然としないような、複雑な表情を浮かべた。
「それじゃ『ナーサティア』に乗り換えようか、悩むのも時間の無駄ってことだよね」
「民主主義も共和主義も社会主義も共産主義も、効率を追い求めて洗練されると結局同じ政策にたどり着く。同じように、その理念とプログラム構造が真逆だったとしても、実際に施行される政策にはさほど大きな違いは生じないと思うよ」
俺は結城さんに頷いた。
「勿論、お題目は大事だけどな」
「ん。じゃ、チームのみんなにもそう伝えるね。あ、でも」
結城さんは何かを思いだしたように、メモをとる手を止める。
「そういえば『ナーサティア』との比較検討をしてるメンバーから、ある意見が上がってきてたんだけど」
そういうと、結城さんはメモ帳をペラペラと捲った。
「絶対性能とか、アプリの理念とか、そういうレベルとは全然別で……『ラクシャス』は実際の使い勝手が少し劣るんじゃないか、って」
「ああ。ユーザーインターフェイスの差か。それは確かに早急に改善する必要があるな」
アプリの操作性は、そのプログラムの印象を大きく左右する最重要ポイントである。
政治プログラムは一般ユーザーが常用するタイプのアプリでは決してないが、その性質上、万人が容易に操作できる必要がある。使用頻度は低いけれど、極めて多岐に渡る機能を実装する必要があるため、使いやすいインターフェイスを構築するのは容易ではない。
「さすがにIT系の最大手だけあって、『ナーサティア』はそのあたりは上手いんだよな。画面チームも頑張ってくれてはいるんだが、インターフェイスの開発は結局、どれだけ人手がかけられるかの勝負だしな」
「だけど結局アプリなんて、使いやすいとか、画面が判りやすいとか、そういうのが一番の評価ポイントだから」
二つの政治アプリの構造的な差異とその特徴、理念の違いなどを再度俺に確認、整理してメモに列記しながら、結城さんが忠告してくれる。
「選ばれたければ、理屈や理念、性能よりはまずルックス。恋愛と一緒」
「確かに」
俺は苦笑せざるをえなかった。確かに『ナーサティア』の先進的でありながら直感的に理解しやすい画面に対して、『ラクシャス』は一段劣る。インターフェイスの再デザインは急務だろう。
理念だのアプリの危険性だのと、そんなものは開発者側の一方的な思いこみだと指摘されたようで気恥ずかしかった。
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