3-12
「結局、しかるべき結論に落ちついた、というところか」
久方ぶりに、プロジェクトメンバーの集会へと顔をみせた土橋氏の一言には、やけに実感がこもっていた。
ジーンの唐突な来訪から、早や三年。
「かもしろない。だが、それもこれまで各々がたゆまぬ努力を続けたからこそ、だろう。途中、色々とあったが、皆には本当に感謝している」
都内、老舗ホテルのバンケットルームにて。
邦香は集まった面々を見回すと、手にしたグラスを軽く掲げた。
「このたび、来年度の概算請求に計上されていた『ラクシャス』関連経費が、無事財務省に認められた。これで、次の衆参両院の解散を待って、いよいよ本格稼働だ」
邦香の挨拶が始まるとすぐ、顔を揃えた『ラクシャス』プロジェクトの主要スタッフから、次々に突っ込みが入る。
「とはいえ、同時にこれから各地で違憲立法審査権に基づく審理が始まるんだろ。本当に祝って良いのは、それらを全てクリアしてからだけどな」
「訴訟準備を整え、手ぐすね引いて待ってる連中がいるもんなぁ」
「いえいえ、それ以前にまだ予算が成立したわけじゃないですけど」
もっとも、居合わせた面々の口が軽いのは、ひとえに念願が達成されたが故の高揚感からくるものだ。
「予算は通るだろ、普通に」
『ラクシャス』の全国一斉導入、及びそれに伴う地方選挙と国政選挙の全面廃止案は、昨期の通常国会において最終的に党議拘束を外した形で採決され、一度は圧倒的な反対多数で否決された。
にもかかわらずその後、導入の是非に関する住民投票の要求が多数起こり、それらは国政レベルでの住民投票制度の不在を理由に現政権に拒否され続けるも、何故か今期になって突然、他の先進国における政治アプリケーションの導入状況を理由に、閣議決定での導入が決まった。
方針が二転三転したあげく、曖昧な理由での不明瞭な導入経緯は、当然、大いに批判の的となった。だが、決定の経緯が世間一般から徹底的に叩かれる一方で、『ラクシャス』そのものに対する批判は、あくまでネット上やマスコミからに限られ、世論調査などでは相変わらず賛成の方が多かった。
「でも結局、民主主義的に正当性の感じられる導入劇とは言い難いよね」
「むしろそれでいいんだよ。体制変更の本質を象徴的に示してくれたじゃないか。現行憲法とて、旧憲法の規定を完全に無視して導入された。新体制が成立すると同時に、昨日までの全ては旧体制として否定される。それが革命だ」
「いや、そこまで極端じゃないだろ、『ラクシャス』導入の場合は。もっと曖昧な、ヌルッとした感じの、日常の延長のような感じで……」
「最高裁の結論、いつ頃でるのかなぁ」
紆余曲折を経て、全面導入へと至った『ラクシャス』だが、違憲審査の成りゆきだけは、ここにいる誰にもその結論が判らない。
国家統治権のうちの二つ、立法権、行政権に基づく業務を全て遂行可能な国政版『ラクシャス』だが、裁判権に属する機能だけは一切実装していなかった。
『アプリが、ある特定の事例の真偽を判断するのはさすがに無理だよ。現代の情報技術では』
事実認定より、膨大な量のデータ解析による情勢判断が主の行政訴訟ならばともかく、一般の民事・刑事訴訟を裁けるアプリを成立させるには、何らかの画期的な新発明によってもう一段階、情報処理技術が飛躍的に発達する必要がある。
『ラクシャス』に限らず、ジーンの『ナーサティア』をはじめ、他の主要国が採用した政治アプリでも裁判能力を備えたものは一つもなかった。
「内容が内容だからな。全ての審理が終わるにはおそらく、最低でも十年以上かかるんじゃないか?」
「それまで、乾杯を待つのはさすがに辛いな」
邦香の説明に対する村松氏の間の手に、軽い笑いが起きる。
地方裁判所から始まる今後の違憲審査の先行きは決して楽観視してよいものではなかったが、長いものには巻かれろ的なこの国の裁判官の判断は、最終的に『ラクシャス』を認めるだろう、と邦香は予想していた。
「裁判所の結論が出る前に、どれだけ実績をあげられるかが、一つのポイントじゃないかしら」
「もっともな意見だけど、かといって我々に出来る事なんて何一つないだろ」
何より、審判が下りる前に、『ラクシャス』抜きでは成り立たない社会が成立してしまったら、裁判所はもはや現状を追認するしかなくなる。
やがて皆が口々に語り初め、なんとなく音頭をとるタイミングを失った邦香は、苦笑いを浮かべながら、小さく乾杯、と発声すると手にしたビールを口にする。
「なんともまぁ、締まらない乾杯だが、これはこれで『ラクシャス』らしいのかもしれん。……わたしなりに覚悟を決めていたにもかかわらず、肩すかしをくらわされた感はあるが」
慌てて、皆もグラスを手にすると、続けてバラバラに乾杯する。そのまとまりの無さに、やがて穏やかな笑いが起きた。
『ラクシャス』の国政導入決定を喜ぶ、内輪だけの祝賀会は、そんなふうに和やかに始まった。
『ナーヴァニル』とスタッフの献身的な努力にもかかわらず、それまでごく一部の村部での採用に限られていた『ラクシャス』が、雪崩を打つかのように全国一斉導入へと至ったきっかけは、結局、
しかし、長い協議を経たあげく、最終的にはほぼジーンが予言したとおりの方向で標準化が決まった。そうと知って眺めると、各国代表の交わした激論も芝居じみて見えて仕方がない。無論、全てが根回しによって決まっていた訳ではなく、ジーンは議論の行方をかなり正確に見通してもいたのだろう。
予言と異なっていたのは、各国における『ナーサティア』の扱いだった。
先進国が望んだ方向で最終的に標準化は成立したが、大方の予想に反し、それは政治アプリにおける『ナーサティア』の独占的な地位を意味しなかった。
一年以上続いた議論の間に、次々と後発の政治アプリがローンチされていたからである。
インド産の『天涯』、メキシコ産の『アル・グロリア』、アラビア圏で開発された『タウサウウフ』、中華製の『選―十七』。
これは標準化の名の下に、『ナーサティア』の事実上のデファクトスタンダード化を目論んだ西欧先進国にとっては想定外の事態だった。ここで特権的な地位を確保できれば、ほぼ未来永劫に渡って政治的な優位が約束されたも同然だったからである。
しかし、その目論見は見事に覆された。
それは明らかに不自然な結果ではあった。『ラクシャス』や『ナーサティア』と同レベルの政治アプリが一年足らずで開発できる道理がない。
しかし自己進化型アプリだけに、もしひな形に使える思考ルーチンを何らかの手段で入手できれば、開発期間は大幅に短縮可能だ。ローンチ後の自己進化をあてにして、多少性能が劣ってもアプリをとりあえずリリースしてしまえばいい。
そんな肝心要の基本ソースを、各国へと秘密裏に提供したのはジーンに違いない、と俺は証拠はないが確信していた。なぜなら世界中で、彼以外にそれが可能な者は俺しか存在しないからである。
当然、これは公になれば大スキャンダルである。先進国の捜査機関も総力をあげて流出元を調査しているだろう。
そしてその状況で、格好の目くらましに使われたのが『ラクシャス』だった。
ジーンはソースの流出元が一見『ラクシャス』であるかのように偽装していた。経由さえごまかせればそれで充分だった。たたき台となったソースが本当はどちら由来か、完成した実行プログラムから第三者が見極めるのは事実上不可能だからである。
なるほど。これを最初から狙っていたのか。
わざわざ訪日してまで完璧な偽装工作を施したジーンの意図を察してからは、俺も積極的にそのアシストをした。西側情報組織からの不正アクセスに対し、あらかじめ用意しておいたダミーデータを返して、『ラクシャス』ソース流出の可能性を暗示する。
主任開発者にも関わらず、ジーン個人は政治アプリを『ナーサティア』に統一しようとなどしていなかった。むしろ、より多種なアプリが密接に連結され、相互に監視しあう状況を理想としているようだった。
考えてみれば当然かもしれなかった。移民の子として苦労したジーンが、先進諸国にだけ都合の良い政治状況など、絶対に望むはずがない。
やがて、『ナーサティア』が絶対的地位を確保できないと悟った先進諸国は、明らかに想定外の状況に、一旦は政治アプリの導入そのものを撤回しようとした。一部のゴシップメディアによれば、周到に構築した筈のバックドアが何故か塞がれてしまっていたのも、その理由の一端らしい。
だが、もはや政治のオートマティック化の流れは誰にも押しとどめる事ができなかった。
先進国が導入せずとも、途上国はプログラム導入に踏み切る構えを崩さなかった。行政府の未発達な彼らの方がより切実に、統治プログラムを必要としていたからだ。そして政治アプリの省力化・効率化効果は行政組織の未成熟な途上国ほど大きく作用する。
それに対抗し、国際社会における現状の地位を守るためには、結局、先進国も率先して政治アプリを導入する以外に手は無かった。
「それにしても、悲壮な覚悟を固めていた数年前が嘘みたい」
乾杯のあと、皆が思い思いにこれまでの出来事を語り始めると、真っ先に歩み寄ってきたのは藤井さんだった。
グラスを手に、早くもうっすらと頬を染めた藤井さんは、柔らかな藤色をしたノースリーブのワンピース姿だった。ここ数年、野戦服、もしくは防弾ベストを着込んだパンツスーツ姿しか目にしてこなかったから、その色っぽさに思わず息をのむ。
「あの頃、本当はちょっとだけ、自棄になったりもしてたんですよ。このまま続けたって永遠に無理じゃないかしら、って。これ以上は、もうどんなに頑張っても……だけど智成さんの言うとおり、早まらなくて良かったなぁ、って本当に思います。どれだけ感謝してもし足りないくらい」
「いや、俺だって当時、こんな展開を予想してたわけじゃないよ。あの頃、成算なんてまったくなかった」
藤井さんが差しだしてくるグラスに軽くグラスをあわせ、二人で改めてささやかな乾杯をする。
「ただ、政治なぞ単なる作業なのだからコンピュータに任せよう、って主張してる俺たちが、その単なる作業のために悲壮感を漂わせてるのは滑稽じゃないか」
なんてことはない、ごく平凡なテーブルワインだったが、目標を達成して飲むそれはやはり格別な美味しさだった。
「実を言えば、俺も最初は必死だった。でも途中から、やるだけやって、それで駄目なら駄目で仕方がない、むやみに頑張る必要なんか無い、って開き直っていただけで」
「もちろん、私だって頭では判っていました。社会に対してそこまでの義理なんてないし、皆そんなに公平で効率的な政治が嫌なら好きにすればいいさ、って。でも、そのために『ナーヴァニル』を結成して、結果的にはすでに人生をかけてしまって……やっぱり、『ラクシャス』の成功しか考えられなくて」
藤井さんも、美味しそうにワインを飲み干すと身を乗りだしてくる。
「つまり、あの頃側に智成さんが居てくれなかったら今頃私は……だから、覚えておいてください」
俺の耳元に唇を寄せる藤井さんからは、微かに甘い香りがした。
「邦香に飽きたら、私はいつでも大丈夫ですから」
そう囁くと、身を離す。
「ひとまず、今の所はここまでで」
まだ宴は始まったばかりだ。強攻策チームのリーダーとして、挨拶しなければならない相手は多いのだろう。どこより先に顔を見せてくれただけでも感謝である。
「ありがとう。藤井さんも、何か困ったことがあったらいつでも頼ってください。もっとも、芸能活動に関してはなんの力にもなれませんけど」
「もぅ、女子に向かって気安くそんな台詞を口にすると、いつかきっと後悔しますよ」
困ったことがなくたって、頼りたくなっちゃうじゃないですか、と笑いながら、藤井さんは空になったグラスを手に次の相手へと向かった。
その後しばらく、入れ替わり立ち替わり現れるメンバーと乾杯を交わす。年上の幾人かには自分から歩み寄って、グラスにワインに注いだりもした。
やがて、軽く酔いが回ってきた頭で。主要な相手とは粗方挨拶し終えたな、と判断した俺は、バンケットルームを離れ、夜風にでも当たろうと前庭へと出た。
「また……どうして、こんな所に?」
「あれ、君も吸うんだっけ?」
「いえ、自分はちょっと酔い覚ましに抜けだしてきただけですけど」
都心とは思えないほど、見事に手入れされたイングリッシュガーデンの、だがその片隅には、身を潜めるように数名のホタル族がいた。
そこに予想外の姿を見つけ、おもわず声をかける。
「村松さんこそ、吸われる方だったんですか。知りませんでした」
「いや、なにしろこのご時世だ。昔、当選してからはずっと禁煙していたよ。だけどまぁ、今日くらいは大目に見てくれ」
喫煙者、というだけで世間から後ろ指さされる時代になって久しい。愛煙家との評判がたつようだと政治家や企業経営者などは務まらない。
「それより、ついに大仕事をやってのけてくれたな。今更だが、本当におめでとう」
「ありがとうございます、と答えたい所ですけど……大仕事をやってのけた、のは誰よりも村松さんじゃないですか」
差しだされた手を握りながら、俺はありがとうございます、と村松氏にくり返し頭を下げた。
国政レベルの普及を目指し始めた段階で、オブザーバーを自称して一線から身を引いていた村松氏だが、ジーンが現れてから後は、裏で政治家対策を一手に担っていた。
「一番の殊勲者が、真っ先に雲隠れなんて、一体どういうつもりです?」
メインメンバーとは一通り言葉を交わしたつもりだったが、思えば村松氏とは未だだった。会場で、姿を見かけた記憶もない。
態度と様子から察するに、邦香の挨拶が終わって早々に、ここへと逃げだしてきていたようだ。
「そりゃ、そんな風にからかわれるのが嫌だからに決まってるじゃないか」
「いや、だって事実ですから」
「だから、それが誤解なんだよ。ぼくは所詮、最後の一押しをしてまわったにすぎない」
村松氏は俺の手を離すと、ぞんざいに手を振った。
「ぼくが国会議員の事務所を回って、このプログラムは良いですから、って薦めたらそれだけであっさり採用が決まる訳がないだろう。考え違いも甚だしい。『ラクシャス』が我が国を治める政治プログラムに選ばれた功績は全て、これまで地道にその知名度をあげ、過疎地域で少しずつ実績を積み上げてきたスタッフのものだよ。なのに、君のように過剰に評価する者もいれば、逆に、最後に美味しいところだけかっさらって、と憤る者もいる。どっちも相手をするのが面倒だ」
「決して過剰なんかじゃないですよ。勿論、村松さん一人の功績だなんて考えていやしません。強攻策チームも懐柔策チームも本当によく頑張ってくれたし、それが無ければ全てはあり得なかった。でも、最後の一押しを行えたのが村松さん以外に居なかったのも事実ですから」
俺は力説した。
「とはいえ、確かにメンバーの中にはその功績をやっかむ奴らもいるでしょうね。これに関しては俺たちの指導力不足です。素直にすみません」
「確かに鬱陶しくて、うんざりするがね。連中もいい大人だ。君が謝る筋でもないだろう」
普及が困難な時期に身を引いていた村松氏が最後になって復帰し、見事大役を果たした事実を嫉んでいる連中がいるのは俺も薄々察していた。まったく根拠のないうわさ話も幾つか耳にしている。
そもそも、村松氏は自らが議員を務めていた村に『ラクシャス』を導入し、その後プロジェクトへと関わるようになった、異色の存在だ。程度の差はあれ、政治家に嫌悪感を抱くメンバーが多数を占める中で、人望があったとは到底言い難い。それを自覚していたからこそのオブザーバー宣言でもあったのだろうけれど。
とはいえ、その功績は客観的に評価されるべきである。まして、元政治家だからという理由で誹謗中傷が許される筈などない。しかし、それらはどれも表だっての発言ではないから、俺や邦香にもなかなか止められなかった。
「それに、いまさら誰かに褒められたいほどの子供でもないよ。君たちが結果を出す、その一助になれたのならばそれで充分だ」
「申し訳ありません。それに、本当に助かりました。改めて言わせてください。村松さんの伝手で『ラクシャス』を売り込んでいただいて、ありがとうございました」
俺は火のついたタバコを手に笑う村松氏に、大きく頭を下げた。
「だけど正直、村松さんに説得してもらうだけで、こんなにもあっさりと議員の皆さんが持論を撤回して、『ラクシャス』を認めてくださるとは予想だにしていませんでした」
「いやいや。ぼくが顔を出すまでもなく、みな理性ではとっくに自覚していたんだよ。人が増え情報が増え価値観が増え、混沌とした社会を人の力だけで整理するのは、もはや限界だと。それが現実の、抗いがたい歴史の流れだとね。ぼくは、彼らの内に残っていた感情面でのしこりをケアしただけだ」
「俺たちにも、感情論が最後の障壁だという所までは判っていました。しかし、結局それをどうにも克服できなかった」
それは嘘偽りない、俺の実感だった。
「そもそも政治家の皆さんにとっては、結局、政治アプリ導入なんて自己否定のようなものじゃないですか」
「その通りだと思うよ。実際、
村松氏は、俺の指摘にあっさり同意した。
「しかしなぁ……世間はどう思っているか知らないが、政治家っていうのは、実態はけっこう微妙な生き物でね」
そして、苦笑いを浮かべる。
「もともと、政治家なんて職業は、実のところコスパの悪い人生選択なんだ。儲けたいなら、権力を得たいなら、それぞれずっと楽で効率の良い職業がいくらでも存在する。政治献金をかき集め巨額の裏金を作ったところで、有権者に集られて手元には結局一銭も残らない。万分の一の確率でその頂上まで上り詰めたところで、実際に振るえる権力などたかがしれている。昭和の時代ならまだしも、昨今はね。……なのに、一度きりの人生でどうしてそんな貧乏くじを自ら望んで引くのか。特に国政に関わると破産して一家離散も珍しくない、労多くして功少なしなのに……綺麗事は言わん。政治家を志す動機には、自己顕示欲に権力欲、金銭欲など様々なものがある。しかし皆同時に、保守や革新、政治信条の如何を問わず、心の内のどこかには、この世の中を良くしたい、という欲求を併せ持っている」
村松氏は、政治家への『ラクシャス』売り込みが何故成功したのか、その背景を説明してくれた。
「もちろん願わくば、自分自身の手で、なのだがね。一握りの、ひたすら自己顕示欲にのみ突き動かされて政治家になった者を除いては、自分の力で為しえたかどうかより、実際に世の中が良くなったどうかの結果が、最後には優先される。それくらいの気概がなければ、とてもじゃないが国会議員なんて割に合わない職業は選べん。君らは絶対に認めたくないだろうが、彼らの内面は、実のところ『ラクシャス』プロジェクトメンバーとよく似ているよ」
「議員の皆さんにはそういう覚悟があったからこそ、『ラクシャス』を認めることができたと」
「情報化が進んで人々の価値観が多様化し、世の中からは普遍的な社会像が消滅しつつある。そんな現代における政治の閉塞感やその限界なぞ、マスコミや素人評論家に指摘されるまでもなく、
村松氏は苦しそうに声を振り絞る。
「昔とは、昭和の頃とは違う。膨張し複雑化した現代社会を理解し、コントロールするのは、もはや我々がどれほど人知の限りを尽くしても不可能なんだ。……一〇〇メートルを6秒で走れと要求されているのと同じようなものだよ。それはもはや努力で到達可能な範囲を越えている。生き物として不可能なんだ。だけど陸上のタイムと違ってその限界は判りやすく目に見えない。……その限界を『ラクシャス』なら突破可能だというなら、たとえ自らの存在意義が否定されようとも、任せるのはアリだろうよ」
そりゃ、多少の手練手管は駆使したがね、と村松氏は言い訳のように付け足した。
「自らの代で『ラクシャス』の導入を決めれば、自身は選挙で選ばれた最後の国会議員になれる。この生涯色あせることのない経歴は大変、魅力的だよ。評論家やコメンテイターを目指すことだって可能だ。もう落選に怯えず、国民の代表面して好きなことが言えるんだからね。そうでなくても、国民から選ばれた存在、という定冠詞はもはや二度と手に入らぬ、最上級の名誉となった。……心動かされない政治家はいないさ」
村議を引退してもう何年も経つというのに、そう断言する村松氏の顔つきは、明らかに現役のそれだった。
「つまり、政治家本人を説得するのは言うほど難しくはなかった。……始めから、強く抵抗していたのはその周囲だからな」
「周囲?」
「この国に、政治に寄生して生きてる人間が一体どれだけいると思ってるんだ?」
「そりゃ、たとえば選挙とか、色々と人手が必要で、産業としてそれなりの規模だとは理解していますが」
「秘書や事務員など、直接政治から仕事を得ている者だけで全国では十数万人規模になる。周辺を加えればその経済規模はもっと大きい。そして何より……『ラクシャス』は殊更何かを改革などしないが、行政が効率化されれば必然的に、これまで政治が生み出してきた無用な公共事業などは消滅するだろう。加えて、政治がなによりの商品であるマスメディア……そういう連中の方が、政治家よりよほど政治アプリの導入に否定的だ。奴らは世の中がマシになる事よりも、自分の懐の方が大切だからな」
村松氏の指摘するとおり、国会で合意され、世論調査でも賛成多数でありながら、マスメディアは『ラクシャス』導入に対して未だ反対の論調がほぼ全てだった。政治ネタが消滅するのは企業として死活問題だからだ。また一部の保守系新聞社などは、政党と政府の広報広告が無くなるだけで潰れかねない。
「だからできるだけ、議員と二人きりで会って口説き落とした。ボスがそう決めてしまえば、大っぴらに反対できる秘書はさすがにそれほど居ない」
それに、『ラクシャス』など現れずとも、議員が落選すれば即失職の可能性がある議員秘書は、ある意味覚悟が座っているからまだマシだと、村松氏は断言した。
「それだって、仕事がなくなるからと反対している連中はいずれどうにかなる。経済的な苦境が理由なら、『ラクシャス』を全面的に導入すれば社会の非効率的だった部分が改善され、必然的に景気は良くなるだろうからな。かわりの仕事が見つかるようになれば奴らの文句も消えるさ」
「じゃ、今の反対運動もいずれ下火になりますか」
「いや、残念ながら最大の抵抗勢力はそこじゃない。『ラクシャス』が効率的な政治を実現した場合、誰より困るのは左右問わず、ネット等で政治家に文句つけては自尊心を満たしている連中だよ」
各種一般の世論調査では、導入に七割近くが賛成にも関わらず、ネットでの参加型世論調査になると、『ラクシャス』導入賛成は僅か一割強にすぎない。
「何であれ、自分が上手く行かないのは全て政治のせいだ、そう自尊心を慰めている人々にとってこそ『ラクシャス』は最悪の存在だ。彼らの保守や革新といった政治信条は、それ自体が目的であり、自らを守る鎧でもある。要は世の中のどこが悪いと、難癖をつけるのが彼らにとって唯一の生きがいなんだ。だから万が一、世界が本当に良くなったら彼らは自己の存在意義が否定されたと感じるだろう。連中もそれを自覚しているから、導入反対は死にものぐるいだ」
「社会問題が解決されると同時に、当人も、消滅してくれたら有り難いのですけどね」
「違いない」
俺と村松氏は互いに顔を見合わせて笑った。
「政治家に決断を迫って『ラクシャス』を導入させた。仕事が理由でからんでくる連中も時間がいずれ解決してくれる。しかし、協力できるのはここまでだ。その先の問題となると、申し訳ないが一介の村議あがりのぼくにはどうにもできない」
「充分すぎるほどです。そこから先は、俺や邦香の領域ですよ」
「すまんね。そう言ってもらえると助かる」
すまんね、と口にしながらも、村松氏の態度には少しも悪びれた様子がなかった。
むしろ、美味そうに煙草を吸い込む姿は、一仕事を終えた、という充実感に満ちて見えた。
「もっとも、今回の一件で、実家の連中からは随分と恨まれた。君の指摘したとおり、政治家、という職業の息の根を止めたも同然だから、無理もないがね。勘当を宣言されたよ。今後はぼくだけでなく嫁と孫、誰一人本家の敷居はまたがせんとさ」
「政治家が家業のような旧家でしたっけ」
「ああ。室町まで遡れる庄屋の家系で……ぼくは本当に嫌だったよ、跡を継ぐのが」
村松氏は、皮肉そうに笑った。
「資金管理団体をフル活用して、所得隠しから相続税逃れまでしていながら、自分たちは善良な政治家一族だと信じて疑っていなくてね。国政しか知らないようでは良い政治家になれないと、村議を一期、県議を一期務めてから国会議員になるのが我が家のしきたりだった。ぼくがその慣習を破って、村議に居座り続けた時には随分な言われようだったさ。……子供の頃は、風景画家になりたかったんだけどね」
まぁ、絵で食っていけるような才能はなかっただろうけど、目指すくらいいいだろ、と村松氏は俺に同意を求めてくる。
「政治家にはどんな状況でも、
君たちが現れたのは、ちょうどぼくが子育てに悩んでいた所だったんだ、と村松氏は笑った。
「『ラクシャス』に賛同してくださった裏には、そんな家庭の事情があったんですね」
「アプリが、我が家に続く連鎖から子供たちを解き放ってくれるなら大賛成だ。それに」
村松氏はいったん言葉を切ると、頭上を見あげて、煙草の煙をゆっくりと吐いた。
「ぼくたちが何もせずとも、結局、ジーンとやらは現れただろ?」
「彼は『ラクシャス』がきっかけになったような事は言ってました。でも、時間の問題にすぎなかったでしょうね」
俺は頷いた。
「仰るとおり、ジーンならいずれ作ってましたよ」
「つまりいずれにしろ、うちの家業は廃れざるをえなかった。なら、せめて自らの手で幕を引いた方がマシだろう。それに」
松村氏は、自慢げに胸を反らした。
「政治家一族などと自慢しても、所詮は田舎で当選回数を重ねて幾人か大臣を出したにすぎない、これといった政治的な功績など何もない家だ。『ラクシャス』導入は、我が家がこの国に対して為しえた最後かつ最大の奉公とでもいうべき成果なんだ。ご先祖様だって、きっと認めてくださるだろうよ」
村松氏はそう満足そうに呟くと、再び美味しそうに、ゆっくりと煙草をふかした。
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