3-7
邦香の悲壮な決意を打ちあけられて以降、俺はなお一層、『ラクシャス』開発主旨の周知啓蒙に力を入れた。わずかな伝手を頼りにマスコミへとその意図を語り、すでに導入済みの村役場で、果たすべき役割と価値を世の中に訴える。
けれど当然、それらは全てまったくの徒労に終わった。
選挙を併用したハイブリッド版リリースの要求を頑として邦香がはね除け続けた結果、やがて世論は一転して、反『ラクシャス』の論調一色に染まっていった。ブームを作り、持ち上げて、墜とす。マスメディアにとって理想的な、とても予定調和に満ちた美しい筋書きだった。
わずか一年前、新たな政治の形だと絶賛していた評論家たちが、掌を返して民主主義の敵、主権を機械に売り渡す売国ソフトウェアと糾弾しはじめる。すでに導入済みの地方自治体からは、それまでの施政全てが順調であるにもかかわらず、アプリのアンインストール騒動が持ち上がりだす。
一方で、ハイブリッド版を求める要求は、ほとんど脅迫の域に達していた。
アプリを巡る何もかもが混沌とし、プロジェクトのメンバー内でさえ、大きく意見が割れた。そんな混沌とした状況の中、いよいよ、邦香が何やら動き出そうとした、その時。
この国では、いや、それは世界中どこでも比較的良くみられる現象ではあるのだが。
突然、風は外から吹いた。
「はじめまして。内務省地方局行政課情報支援室で補佐を務めてさせていただいております、桂木と申します」
都内有数の大型書店の地下にある、花の名を冠したかなり年期の入った喫茶店。その片隅で、おそらく三十代前半の男性は顔をあわせるなり、立ったままそう俺に名刺を差しだしてきた。
俺は沈み込むような分厚いクッションの椅子から慌てて腰を浮かすと、ぎこちなく両手を伸ばし、それを受けとる。
「すみません。自分は未だに名刺を持ち歩く習慣が身に付かなくて」
「いえ、勿論結構です。お名前はよくご承知申し上げております」
俺が申し訳なさそうに切り出すと、男は笑って手を振った。
「むしろ、こうして今日まで直接のご挨拶が遅れた事、誠に遺憾であり申し開きのしようもございません。なにとぞ、ご寛恕賜りますよう、切にお願い申し上げます」
また、丁寧なんだか他人を小馬鹿にしているんだか、判断に困る役人だな。
しかし、この年齢で本省の室長補佐ならば、間違いなく生粋のキャリア官僚である。一歩後に付き従っている秘書然とした男の方がはるかに年長だ。
俺は表面上は精一杯愛想よく、いえいえとんでもありません、と朗らかに答えつつ、対面のソファーを勧めた。
「ですが、お国の中枢で働いてらっしゃる方が、私どものような零細ソフトハウスに一体どのような御用で?」
『ラクシャス』プロジェクトチームは、表向きの顔としてソフトハウスの看板を掲げていた。従業員にはプロジェクト中枢の十数名が名を連ねている。代表取締役は邦香だ。
「これはまた、零細だなどとご謙遜を。今後百年、この国の地方自治を支えるといっても過言ではない『ラクシャス』本体の開発をなさっておられるのは御社でしょう」
微笑みながら、桂木氏は、では失礼します、と俺に断って対面のすり切れたソファーにに腰を下ろした。
もっとも、
「『ラクシャス』には私ども情報支援室でも、日頃から大層お世話になっております」
「お世話だなんて、滅相もありません」
これはまた、ぬけぬけと言ったものだね。
内務省地方局の行政課情報支援室については、俺もその存在をよく承知していた。
一言でいえば、地方自治体が『ラクシャス』を導入しようとした際、自治体の情報処理を支援すると称して、かなり強硬な行政指導を執拗に繰り返してきた、内務省内に存在する反政治代行アプリ勢力の中核的存在だ。
「早速ですが、本日は一体、どのようなご用件でしょう。内務省で『ラクシャス』導入を検討されるのであれば、もちろん喜んでお見積もりさせていただきますが」
「まあまあ、そう身構えないでいただけませんか。勿論、前任の者たちが『ラクシャス』をどのように扱ってきたかは重々承知しておりますので、警戒なされるお気持ちは充分に判りますが」
所詮、腹芸で官僚に敵うはずもない。精一杯、穏やかに告げたつもりだったが、桂木氏は苦笑しながら朗らかに小さく手を振った。
近寄ってきたウェイトレスに、隣に座ったお供の分も含め、ホットコーヒーを二つ頼む。
「せっかくですから、何か甘い物でも食べられますか?」
「ありがとうございます。でも、あいにく昼食後なもので」
「残念ですね。なら、自分もひとまず控えましょうか。先日、今年度予算案の折衝にようやく目処がついたのですが、昼夜なく役所に詰めてばかりだと、ストレス発散のため甘い物に目がなくなってしまって」
おかげで腹回りがだらしなくなったと、妻がお冠で、と桂木は笑いながらメニューを閉じた。
やがてウェイトレスが立ち去ると、背もたれのないソファーに腰掛けたまま、桂木はやや姿勢を正した。
「では、本日ご足労いただいた用件ですが、実はさほど風変わりでもないごく一般的な内容でして……ここから先は些か言い訳じみていて大変恐縮なのですが、まずお伝えしておくべき事項があります。実は先日、我々支援室に関して大がかりな異動の内示がありました。これにより、従来地方自治体に対し行政情報処理ソフトに関する指導を主導してきた室員は、全員他の部署へと移ることになります」
「また、随分と季節外れな人事ですね」
「それだけ、急を要する重要な案件だと、上は考えているのでしょう」
桂木は、まだ公表されてはいないだろう人事情報を、平然と口にした。
「私ども新たな行政課情報支援室のメンバーは、これまで、地方自治行政において『ラクシャス』がどのような役割を果たしてきたか、その貢献度について重々承知しております。つきましては、担当者として皆様に改めてご挨拶を、と伺った次第です」
それから、流れるように自然に桂木は深々と頭を下げる。隣で、慌てておつきの男が続く。
「加えて、よろしければ何点か、御社の関わっておられる業界の最新動向について、ご教授を賜れればと」
「それはどうもご丁寧に。しかし、『ラクシャス』を評価してくださる内務省のキャリアさんがいらっしゃるなど、寡聞ながらこれまで耳にしたことがないのですが」
「説明が足りませんでしたが、確かに以前は程度の差はあれどちらかといえば懐疑的な姿勢の者が大多数でした。痛恨の極みですが、こればかりは否定のしようがございません」
懐疑的、ねぇ。物は言い様、という奴だな。
「頭の固い無能者だからこそ、役人など志すのだと嘲笑ってください」
「しかし笑って流すには、些かやり口が汚くないですかね」
俺はラクシャスを初めて導入した村の名をあげて、軽く桂木に問いただした。
導入終盤、普及率の上昇が一時期頭打ちになった状況の黒幕は行政課情報支援室だろう、と俺は確信していた。当時、土橋さん以下サポートチームが総力をあげて調査してもその正体は皆目掴めなかったが、この国には他にそれが可能な組織など存在しない。
「さすがに、独力で『ラクシャス』を開発されただけあって、聡明でいらっしゃる」
桂木氏は俺の指摘に同意しつつも、決して最後まで公式に認めはしなかった。ただただ、私ども世情に疎い不勉強な役人の不明を恥じるばかりです、とくり返し大きくお辞儀をして話を済ませる。無論この男は、頭なんぞなんぼ下げてもタダだ、という側の人間に決まっている。
「しかし、世の中は常に変化しております。内務省といたしましても、過ちに気づいたのであれば、早急にそれを正さねばなりません。ですので、組織を一新し、こうして恥を忍んでお伺いした次第でして」
「『ラクシャス』に関してなど、なにもわざわざ我々の下までいらっしゃらずとも、よくご承知でしょう」
俺の下に漏れ伝わってくる行政指導の内容は、まことに事細かく微に入り細を穿ったものだった。つまり開発者である俺を除けば、『ラクシャス』の実体についてもっとも理解が及んでいるのは、情報支援室の担当者で間違いない。
「とんでもない。現場の解析チームからはまだまだ判らないことばかりだと報告が上がっております。差し支えなければぜひ一度、場を改めて担当の者に『ラクシャス』のアルゴリズムについてかみ砕いて解説してやってはくださいませんでしょうか」
桂木の要請に、俺は曖昧に笑った。なにしろ、差し支えは大いにある。
「しかしながら、自分はプログラミングなど大学の教養課程で通り一遍学んだだけの素人でして。今回、ご教授たまわりたい内容はまた別件になります」
桂木氏はそう言うと、落ちかけたメガネを少しなおした。穏和な、無害そうな外面がその一瞬だけ外れ、有能な官吏の本性が顕わになる。
「すでにご存じでいらっしゃるでしょうが、先日、米国のIT企業から、『ラクシャス』と恐らく同じ系統のプログラムが発表になりました」
「ああ。『ナーサティア』ですね」
やはり、その件か。
勿論、そのニュースは俺もチェックしていた。
これまでのリリースを読む限り、巨大IT企業が開発した行政支援プログラム『ナーサティア』は、事実上『ラクシャス』と同様の機能を備えていると予想される、政治代行アプリである。
実のところ、業界の動向、などと桂木が口にした時点で、粗方内容の予想はついていた。
「はい。政治行政を支援するアプリケーションを担当とする我々といたしましても、当然無関心ではいられません。しかしながら、『ラクシャス』同様、その動作原理と内容を真の意味で理解するのは熟練のSEにも決して容易くない、とうかがっています。つきましては、我が国では随一の専門家であられる先生に詳しく解説していただけないかとお願いにあがった次第です」
「先生は勘弁してください。とてもそんな立場じゃありません」
俺はまず真っ先に否定すると、軽口をたいた。
「『ナーサティア』は『ラクシャス』同様に、インド神話に登場する神の一体ですね。どうも、IT
だが、どうも受けなかったようだ。桂木氏は先を促すかのように無言でじっと俺を見つめ、隣の男は呆れたような表情を浮かべる。
俺はバツの悪さを押し隠して、話を続けた。
「その実体に関してなら、役所の皆さんと同程度にしか知りませんよ。確かキャッチコピーは『世界の分断を修正する』でしたかね。とはいえ、概念と基本仕様が公表されただけで、まだプログラム本体やそのソースについては未公開ですから」
「しかし、一説にはその基本アルゴリズムについてはすでに論文で発表済みとか。先生ならお読みになっていらっしゃるのでは?」
「だから先生はよしてください。……ええ、まぁ。行政情報をコンピュータでどう扱い処理すべきか、という基礎研究の論文でしたら自分もチェックしてはいます」
すでにそこまで把握しているのか、と俺は内心で舌を巻き、これは迂闊な返答はできないぞ、と己を戒めた。
件の論文は、『ナーサティア』開発チームの中心的存在と目される人物が、フランス、マルセイユへの留学時代に個人名で発表したものだ。『行政情報の電子的処理に関する基礎研究』と題されたその論文は、その地味なタイトルとは裏腹に、あらゆる行政情報の自動的な電子処理、つまり政治行政の完全なオートマティック化について、その概念と問題点が記された論文だった。
些細な誤謬が散見されたものの、内容は斬新かつ画期的だった。俺がその論文を目にした時、すでに『ラクシャス』の基本的な開発は終えていたが、それを参考にソースを何カ所か改良したほどだ。
しかし、今のところ世間ではまったく無名の論文だ。にもかかわらず、その存在を突き止め、その内容について俺に解説を求めているということは、本件に関する彼ら行政課情報支援室の関心の高さを表している。
色々と欠点は多いが、日本の高級官僚が基本的には有能なのもまた間違いのない、という証明でもあった。
「しかし、あそこで語られているのはあくまで概念に過ぎませんよ。実際の『ナーサティア』にどれほど反映されているかは不明です」
「無論、承知しています。しかし、基本的なソフトの姿勢というか、目指す先の姿は、件の論文で示されている内容とそう大きな違いはないと予想されます。少なくとも、どのような意図で、どのような世界を目指して作られたアプリケーションなのか、部外者が理解する一助になるのではないでしょうか」
桂木の指摘に、俺は苦笑した。
「まったく仰るとおりです。ですが、そこまで件の論文を読みこんでいらっしゃるなら、それこそ自分の解説など不要かと」
「とんでもない。一読こそしましたが、難解すぎて内容はまったく理解できませんでした。だからお伺いにまいったのです。……端的にいって、『ナーサティア』とはどのような社会を目指したアプリケーションなのでしょう」
「必要な情報だけを過不足なくまとめたものが良い論文です。ですので、内容をあれ以上に要約するのはなかなか難しいですね」
俺が笑うと、桂木は苦笑しながら頷いた。
「確かに。これは先走った事をお願いしました。お恥ずかしい」
「当然、我が社でも『ナーサティア』の動向には注視しています。しかしながら、まだプレスリリースのみの状況では、判ることなどさほど多くありません」
「では、ひとまず判明していることだけでも」
「登記上、『ナーサティア』の開発企業は米IT大手の子会社ですが、実体は多少異なるようです。開発の原資となっているのはダミー法人を経由して流入した国務省など米政府系の資金です。それ以外にも複数、我々には正体の掴めなかったスポンサーがいるようなのですが」
「キリスト教福音派のフロント企業と、カナダ、イスラエル、ニュージーランド行政府からの資金流入は裏がとれています。主立ったスポンサーとしては以上ですね」
恐らくは最上級の機密情報を、桂木は躊躇う様子もなく口にした。
「さすがにお詳しい。釈迦に説法でしたか」
「我々として意外だったのは、欧州系の資金がほぼ見あたらない点です。出資元の企業でも、在欧の株主とは距離を置いているとか。開発の主導者は、仏のグランゼコール出身です。当然、欧州系財閥の後押しもあってしかるべきですが、何か事情があるんでしょうね」
開発の背景について、桂木は俺以上に調べ尽くしていた。
「そこまでご承知なら、自分の方こそ色々教え頂きたいくらいで」
「こんな情報でよろしければいくらでも。背景を探ることは我々にお任せ下さい。しかし、プログラムそのものの正体を解き明かすには、先生のお力が必要です」
「だから、先生なんて呼ばれる立場では……アプリケーションの内容は、ソースコードを解析するよりその開発背景を探る方がよほど深く、正確に理解できます。誰がどのような意図で『ナーサティア』を生み出したのか。そちらの方がずっと簡単で確実です」
「もちろん、我々もそれを意図して鋭意調査は行っています。しかし、やはりプログラムそのものも理解したいのです。どうか我々にお力添え願えませんでしょうか」
桂木はそう言うと、改めて俺に向かって頭を下げた。
「勿論、相応の謝礼はお約束します」
「本省のエリート直々のお申し出は光栄ですが、あいにくと、贅沢には興味がなくて」
「ご安心下さい。金銭で報いる予定はございません。……『ナーサティア』の開発意図と今後の状況次第ではありますが、先ほど申し上げたとおり、我々にはこの国での『ラクシャス』の扱いを変更する用意があります」
即座に拒否した俺に対して、桂木は、判っていますよとばかりに口角をつり上げた。
「『ナーヴァニル』のお三方もご活躍でいらっしゃいますが、そろそろお疲れではありませんか? 支持者の皆様も、思いがけず頑張っておられるが……これ以上はあまり、お目立ちになられない方がよろしいかと」
瞬間、清んだ双眸から微かに冷気が漂う。
しかしすぐに笑顔に戻り、桂木は勢いよく立ちあがった。
「いずれに致しましても、すぐにお答えを頂戴できない類の相談なのは承知のうえです。皆様とご検討のうえ、色よいお返事をお待ちしています」
そう告げると、俺の返事を待たずに、桂木は表れた時同様、鮮やかに立ち去る。
慌てて追いかける、お付きの中年男性の後ろ姿がどこかユーモラスだった。
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