3-8

「『ナーサティア』か。どうせならもう少し、我々のグループ名と紛らわしくない名前にしてもらいたかったが」

 平日の午後。芸能事務所名義で借りている都内の小さなワンルームで。

 約束より十五分遅れて現れた邦香に桂木の来訪とその用件を伝えると、邦香は愉快そうに笑った。

「ひょっとして故意に狙ってきたのかな。それならいっそ、こちらがまったく同じに改名するというのはどうだ? さぞメディアが混乱して」

「つまらない冗談をいってる場合じゃないぞ」

 俺は邦香の軽口をたしなめた。

「金と手間のかけ方からみても、間違いなく本気のアプリだ。ここで対応を間違えると、いよいよ『ラクシャス』は息の根を止められかねん」

「確かに。けれどチャンスでもある。それも起死回生の」

 あくまで楽観的な邦香の意見に、だが俺も頷くしかなかった。

「だから桂木とやらが現れたのだろう。これまで我々がいくら働きかけても、中央省庁はどこもつれない態度だったのにな。『ナーサティア』の対抗勢力としての『ラクシャス』の価値か。さすがにキャリア官僚は反応が早いな」

「奴らの真意はまだ判らん。一昔前だったら、『ナーサティア』の邪魔にならないよう開発を中止しろ、と言い出しかねないところだが」

「さすがにそこまで愚かではないだろう。トロンの二の舞は避けたい、と考える程度の知恵はついたんじゃないか?」

「Iトロンはデファクトスタンダードになったが?」

「混ぜっ返すなよ。判っているだろ。スーパー301条に潰された方だよ。あれは確かに窓が天下をとる一つの契機になった。今度の件はあれをはるかに上回る、歴史上の分岐点になると向こうもこっちも感づいたのさ。事の次第では、人類が滅びるその日までの政治形態が決まるかもしれないんだからな」

「何を大げさな、とは笑えないか」

 邦香の台詞は芝居じみていたが、決して間違ってはいなかった。

 一度、政治代行アプリが本格稼働してしまえば、致命的な失政によって民衆の大規模な暴動やサボタージュでも発生しない限り、他のソフトへの入れ替えという状況は発生しないだろう。プログラムの、政策の誤りを理解し修正する機能は強力だ。自らの能力を全面否定しソフトの変更を提言する、という判断をアプリが下す可能性は限りなく低い。

 そして、代行アプリに政治機能と行政への指示を任せて一世代が過ぎ、一度でも統治技術の継承が途絶えたら、もはや人類がそれを取り戻すのは不可能と断言してもいい。これほどまでに複雑に成熟した社会を自力で統治する能力を、人類が再び新たに獲得できる可能性は皆無だからだ。政治とは、コンピュータが行うのが絶対の常識となるだろう。

「確かに、今が歴史上の分岐点なのは間違いない。連中がそれを理解して行動していると信じたいが。奴隷根性、ってのはなかなか根深いらしいからな」

 政治代行アプリ『ラクシャス』を開発するにあたって、議論された課題の一つに、周辺諸国の反応がある。

 政治行為を全てプログラムに任せた場合、周辺諸国はどのように反応するか。

『すぐに攻めてきますよ、きっと。だってアプリがいつ、戦争だ!、って言い出すか判らなくて不安でしょ。外から見たら』

 結城さんの意見は一つの代表例だった。

 当然、対策は色々と考えた。その中の有力な一つが、同時期に周辺国へも『ラクシャス』を供与する、という案だった。

『でも、他所から渡された中身が不明のアプリを信じて政治を任せる国なんてありますか?』

『いきなり現実の政治を任せなくたって、色々な状況をシミュレーションさせて、どれほど国力に差があっても『ラクシャス』が戦争を始めないと確認するくらい出来るだろ』

『何度シミュレーションしたって、安心なんか出来ませんよ。私だったら信じません。それにもし『ラクシャス』に任せて上手くいっているようでしたら、自力で同様の、だけどもっと高性能なアプリを開発しようと考えます』

 藤井さんの意見が、大方の同意する結論だった。つまり『ラクシャス』が上手くいったら、他国も対抗策として同様のアプリを開発するだろう、と。

『そう考えると結構怖いですよね。『ラクシャス』はそうでなくても、勝てると判断したら簡単に戦争を選ぶアプリが登場しないとは限らないんですから』

『国が栄えるのを基本条件として、経済原理さえまともにロジックに導入されていれば、戦争を選択するアプリなどほぼ現れない筈だぞ。十九世紀以降、採算のとれた戦争なぞ存在しない。長期的視点でみれば、世界中から富を奪いまくった大英帝国ですら、黒字化できていいるか怪しいくらいだ』

『経済性より民族の誇りが大切だとか、妙な理屈をこじつけて戦争したがるアプリが生まれる可能性は?』

『そこまでウチで面倒みなきゃいけないのか!?』

 その時の議論は結局、とりあえずは様子見、という無難な結論になったが、当時から対抗ソフトの登場そのものはかなりの確率で予想されていた。

 ただ、その開発元が自他共に認める民主主義の総本山、というのは完全に想定外だった。

「それにしても、触発されたアジアの周辺国が同類のソフトを作ったなら、政府が『ラクシャス』推しに転換するだろう、とは期待していたが、まさか二番手が米国産とは」

「世界に冠たるIT大国なんだから、ある意味当然じゃないのかね」

「インドや中国が作ったのなら別に驚かないさ。そもそも技術的にはさほど難しくないんだ。でも、キリスト教文化にどっぷり染まった民主主義と、プログラム任せの政治はどう考えたって相性が悪い。ちょっとイメージが出来ない」

「確かに。連中は自他共に認めるデモクラシーの守護者だからな。つまり、完全に任せきりにはしないのだろうさ。少なくとも名目的には」

 俺が疑問を呈すると、邦香は嘲るように笑った。

「仮に全ての政策を提案したのがコンピュータでも、それを認めてサインしたのが大統領であれば民主主義の面子は保たれる。これまで『ラクシャス』に要求され続けていたのも、まさにその役割じゃないか」

 なるほど。

 俺は納得すると同時に、まずい展開になったな、と顔をしかめた。

「だとすると、我々がいつまでも政治家の関与など一切認めない、と突っぱねていると『ナーサティア』に乗り換えられる恐れもあるな」

「まぁ、国産より欧米からの舶来物が好きな国民性だからな。可能性はある。しかし、仕様変更は認めないぞ」

「そこを譲らないのは判っていたが、なら実際どう対応するんだ? その時は」

「決まってるだろ。何のために、これまで凜に苦労させてきたと思っているんだ」

 邦香は暗にクーデターの実行を示唆する。俺は唖然とした。

「いや、無理筋だってそれは。とっくに結論出たろ」

「状況が変われば判らないぞ。米国産ソフトに支配されるとなれば、我々を支持していくる人々だって増えるに違いない」

「そういう台詞を軽々しく口にするな。『ラクシャス』は人々を支配してるわけじゃない。言動には気をつけてくれ」

「智成と二人きりだからに決まってるだろ」

「だとしてもだ。そういう油断に足をすくわれるんだ。それに、『ナーサティア』よりは『ラクシャス』の方がマシだと考えたとしても、民衆が実力行使に手を貸してくれるとは限らん。というか絶対に大半は傍観するだけだろう。そんな連中をアテにして藤井さんたちを死地になど送り込めない」

「世知辛い世の中だな」

 無念そうに、邦香は軽く溜息をついた。

「しかし、そうなると本当に打てる手は限られてくるな。……やはりある程度、覚悟は決めておくべきか」

「なに考えているか知らんが、早まった真似はするなよ。まだ何も決まったわけじゃないんだ。それに桂木たちが『ラクシャス』に肩入れしてくれる可能性は高い」

 俺がそう釘を刺すと、邦香はそうだな、と頷いた。

 実際、『ナーサティア』の登場によって状況は劇的に変わりつつある。邦香もそれを実感しているのだろう。以前、母校で極秘に打ちあわせをした時に感じた、張りつめた気配は幾分か和らいでいる。

「俺はとりあえず『ナーサティア』の情報収集に力を入れる。邦香の方でも、新たな情報を掴んだら教えてくれ」

「承知した。皆にもそう伝えよう。智成の方からも状況が変わったら即座に連絡して欲しい。私の都合を気にかける必要はない」

「了解。まずは向こうの状況に詳しい知り合いにあたってみるよ」

「頼む」

 俺に小さく頭を下げると、現れた時同様に、邦香は忙しげに部屋を出て行った。

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