3-6
「で、俺の事情はともかく、これからどうするつもりだ。腹案はあるんだろ」
「そうだな」
やがて、どうにか笑い止むと、邦香は腰掛けたまま、細い形の良い脚を無造作に前に投げ出した。腕を振り上げて大きく一度、身体を伸ばす。
「一見順調に見える地方自治レベルでも、今後『ラクシャス』の普及が頭打ちになるのはほぼ間違いない。各地にシンパは増えつつあるんだが、彼らは根本的なところで誤解している」
邦香の指摘に俺は頷いた。
「そもそも『ラクシャス』は良い政治を目指すようには作られていない。本質的に、良い政治を危ないんだ。すぐに暴走して、戦争しようとする」
「確かにな。『細かい問題は依然種々存在するとはいえ、民主主義もそれなりに成熟したから、ここから先は前例踏襲の凡庸な政治さえあれば充分だ』。そんな君とわたしの共通認識がこのプロジェクトの出発点になっている。だから良くなる点など、実績のない完全な机上の空論を回避できるのと、政治家の親類縁者に便宜を図らなくなるくらいだ。もっとも、それだけでこの国の政治の問題点の、八割方は解消されるという意見もあるが」
邦香は疲れたように、大きく一つ溜息をついた。
「とにかく単に『ラクシャス』を導入したところで、政治は劇的に良くなどならない。過去に成功例のある政策のコピーを、政治家を選ぶ社会的コスト抜きで実行できるのが最大の利点なんだから。にもかかわらず最近は、これまでと変わらず選挙をして政治家を選び、その支配下で『ラクシャス』を使ってより良い政治を、などと頼みこんでくる輩ばかり押し寄せてくる。どうして連中はそんなに」
馬鹿なんだ、という一言を飲み込んで、邦香はそれきり黙りこんだ。
「まぁ、要するに宗教みたいなものだからなぁ」
苦り切った顔の邦香に、俺は端的に告げた。
「彼らが信じているのは、いわば『人による政治』教、だよ」
「宗教……なるほど、宗教ね」
数度、瞼を瞬かせた邦香は、やがて大きく頷いた。
「つまり我々に求められているのは、宗教改革か?」
「そうだ。今、『ラクシャス』を熱狂的に支持してくれているウチの連中の意識だって、この先は変えていく必要がある。人が多数決したものより、コンピュータが統計で導き出した政策が絶対的に優れている、ってか? そんなはずがないだろ」
『ラクシャス』には原理的に、過去に政治家たちが実行した政策の一部を、より効率化して採用する機能しかない。
理論上、その能力は最良の民主主義より必ず劣るのだ。
しかし、俺が幾度説明しても、その原理原則に耳を傾けてくれるメンバーはごく僅かだった。
「『ラクシャス』を拒絶するのも、熱狂するのも、その根は同じなんだ。つまり、政治を何か特別大切なものだと奴らは信じている。彼らの政治崇拝を止めさせて、そんなものは所詮富の再分配と治安維持や経済振興に必要な政策を実行する社会の一機能にすぎない、との認識に正す。それが『ラクシャス』を今以上に普及させるために最も大切なことじゃないのか」
「理屈は判る。だが……いや、そうだな」
「政治なぞ所詮は、サバンナのハイエナが、餌の取り分を巡って争うのと同じレベルの行為でしかない。もし人間に本当に知性が存在するというなら、そんな単純作業はコンピュータに任せて、もっと知的で非生産的な行為に労力を割くべきだ。ロックバンドを組んだり自作の漫画をアップしたり、意味もなく命がけで岩壁を登ったり」
根本的に無意味であり、単なる動物は決して行わないこと。それこそが人間を人たらしめる至高の要素だと、俺は主張した。
「『ラクシャス』の存在意義は、何よりそこにある。もっとも俺自身、開発を始めた当初はそこまで考えが至っていなかったけれどな」
フル兵装を担いでの山中行軍は、これまでの自らの行いについて思索を深めるよいきっかけになった。
「つまり『ラクシャス』の実行する政策の内容そのものは、ちっとも重要じゃないんだよ。にもかかわらず民主主義に取って代わるありがたい何かだと崇めるのは、本当に馬鹿げた真似だ」
「だとしたら、まず今のメンバーの意識改革の方が先じゃないか。……とはいえ、民主主義か『ラクシャス』か、問題を拝むご神体の選択にしてはいけない、という指摘は理解した」
「言うは易く行うは難し、だがね。これまでも、機会を見つけて俺なりに皆を説得してきたつもりだよ。結城さんや藤井さんあたりは聞く耳を持ってくれるんだけど……二人に限らず、そもそも皆、政治は特別に重要だ、って意識が『ラクシャス』に関わろうとした動機の根本にあるわけで、なかなか難しい」
初期メンバーや、すでに政治家としての経験が豊富だった村松氏などは、理屈では俺の説明にかなりの理解を示してくれる。
だが、それが本当の納得となり彼女ら彼らの行動の変化に結びつくかというと、事はそう簡単ではない。一度身体に染みついた宗教心は容易に消え去りはしない。
政治に関心の深い者ほど自己洗脳により脳の高次な機能を失っている、という土橋氏の指摘は、そのままプロジェクトの参加メンバーにも当てはまるのだ。
「いっそ政治なんてどうでもいいよ、って無関心な層ほど、説得は楽なんだろうが」
「そうだな。実際、『ラクシャス』に対する意識のアンケートでも、一番肯定的なのは当然のように選挙は棄権、というグループらしい。人であれコンピュータであれ、当たり前の政治を普通にやってくれれば、その中身は問わない、という訳だ」
「ある意味、もっとも自然で正しい政治との向き合い方だろうからね。何が当たり前で普通とはどんな政策かは、議論の余地が残るけど」
俺と邦香は、力なく笑いあった。
文化祭の喧噪は、相変わらず遠くから響いてくる。でも、今はなんだかそれがやけに現実感なく感じられた。
やがて、考えをまとめたのか、邦香はゆっくり顔をあげる。
「信仰の対象が民主主義から『ラクシャス』に変更されるだけでは意味がない。君の意見はまったくもっともだ。認める。だが、人々からその宗教心が薄れるにはどれほどの時間が必要だ?」
「おそらくは……一世代、二世代と社会の構成員が入れ替わるレベルか」
「だろうな。現実的にはそんなところだろう」
邦香は穏やかに語った。
「だがわたしに、それを待つ余裕はない。その気もない」
俺はその横顔をぼんやりと見つめた。
高校時代と変わらない、発散される熱意と清んだ意志。凛々しかったし、美しかった。
「ならばこの際、間違っていると承知のうえで、彼らの宗教的な情熱を利用して『ラクシャス』を普及させるべきだと思う」
「諦める、って選択肢もあるんじゃないか?」
決意を湛えた邦香に、俺は、ことさら軽く告げた。
「すでに過疎地域には、『ラクシャス』は必要不可欠な存在として普及しはじめている。今後百年、この国は過疎化し続けるだろう。ならば、いずれ全ての政治機構は『ラクシャス』へと置き換わる。どれほど人々が反対し続けようとも、だ」
「今は焦る必要などない、か。薫さんと同じ事を言うんだな、君は」
「理論的に考えれば自ずとそうなるからな。そもそも政治には、誰かが悲壮な決意を抱くほどの価値など存在しない、というのが俺の『ラクシャス』開発の動機だったのは説明したはずだぞ。お前が何故、自分だけは例外だ、と考えるのか判らんね」
俺の皮肉に、邦香は表情を歪めた。
「さっきはぼかしたがな、実のところ、政治を一番神聖視しているのはお前だよ、邦香」
「かもしれん。君同様、それなりの自覚はあるさ。しかしそれでも……いや、これはただの甘えかもしれないが」
歪んだ表情のまま、邦香は微笑んだ。
「せっかくだから、今度はしばらくわたしの昔話でも聞いてくれるか」
「なんだよ、改まって」
「どうしてこんな馬鹿げた真似を思いついたのか、という告白なんだから、多少は身構えもするさ。……わたしが民主主義、つまり多数決に関心、と同時に懐疑を抱いたのは、学校に上がるか上がらないかの頃だった」
やおら邦香は立ちあがると、フェンスの向こうの校庭を覗きこんだ。
「君が気づいていたかは知らないが、この見えてわたしは結構な貧困家庭で育った。明日の食事にも事欠く、という絶対的な貧困ではなかったが、周囲の家庭よりは明らかに貧しく、そしてそれを隠し、取り繕うために家族関係は殺伐としていた」
俺からは、その後ろ姿しか見えなくなる。
「そもそも滅茶滅茶貧乏、というわけではないのだからね。貧しくとも愛情溢れた家庭を築いてくくれれば、子供としてはそれで充分だったのだが。残念ながら両親とも自分たちが周囲より経済的に劣っている、という現実が認められないタチだった。そのストレスは判りやすく物理的に、暴力として発散された。誰より弱く、逆襲される危険のない存在、つまり自分の子供へのね」
「……DVを受けた経験があるのかな、とは疑っていたよ。なぜならその、時折、反射的に身構えるだろ。無論、そうと意識しなければ気づけないレベルでだけど」
「やっぱり君には見抜かれていたか。まぁ、事実だから構わないが。……で、僅か数人しかいない家庭という社会でも、人間関係が成立する以上政治というのは存在してね」
邦香は何故か嬉しそうに小さく笑い声を上げた。
「この場合もっとも重要な政策課題は、誰が真っ先に殴られるべきか、という問題なんだが……大概は、極めて民主的に、多数決でわたしが選ばれたよ」
無論、全員で挙手して決めているわけじゃないぞ、と邦香は冗談めかして告げた。
なんとなく、家族内の暗黙の多数決で、自分が人身御供として差しだされるのだと。
「今になって思えば、後遺症が残るほどの暴力ではなかったし、レイプもされなかった。奴に残った僅かな理性が、暴行をあくまでストレス発散の範疇にとどめてくれていたのだろうが、殴られている最中の小学生にそんなもの、判るはずがない。なぜ兄弟の中でいつも自分だけがこんな目にあわなければならないのか。当然、心に強く誓ったさ、多数が決めたことなど、絶対に信じないと」
おそらくは、兄弟の中で邦香が容姿、能力共に最も優れていたのだろう。
それ故、一番に排除の対象として選ばれた。
「だから、あの時は余計にショックだった。自分が家庭で受けている行為を、気づかぬうちに学校でしでかしていたという現実が。少数を犠牲にして、残り多数が幸福を掴む。そんな民主主義の王道に、よりによって自分が荷担していた、という事実が」
邦香はふり向き、俺を見つめた。屠殺を待つ羊のような瞳で。
「死ねるものなら、死にたかったさ。ただ、勇気が足りなかった」
「気づかなかったんだろ。仕方がないさ」
俺は軽く肩をすくめた。
「自分が耐えられた行為なら、他人に行っても大丈夫と判断するのは子供として正常だ。大概は大人になってすらそう考える。ひいては自分が大丈夫でなかった真似すら我が子にしてしまう。だから、家庭内暴力の連鎖が生まれる」
「もし自分が加害者側だったら、君はそう自分を慰められるかね?」
なんだと?
邦香の詰問に対し、俺はとっさに返事できなかった。被害者だったら、と問われたならば、そう加害者を慰めることはできると即答したのだが。
「彼女は最後まで、わたしに何も言わなかった。わたしは何も気づけなかった。わたし一人がなした行為ではないが、わたしがその一員だったのも確かだ。人は愚かだ。すくなくともわたしは、本質的に愚かなんだ。だからあれ以来、わたしは人が多数決で決める何かを認めない。そう決めた。それが唯一、わたしに可能な贖罪だと」
なるほど。虐めか。
告白の内容は予想外だったが、その重さは、大体想像どおりだった。
「気持ちも動機もよくわかった。しかし、小学校五年で転校していったなら、それほど酷い状況にまでは至ってなかっただろ」
俺は思いつめた表情の邦香をなだめようと、口調を変えて語りかけた。
邦香の意気込みと決意は尊い。しかし、それで現在『ラクシャス』の抱えている問題が解決するわけでは、決してない。
「そこまで入れ込むほどのことか? 大概の虐めが本格化するのは中学に入ってからだしな。そもそも、一度も誰かの虐めに荷担した過去のない奴なんて存在しねーよ。案外今頃は、何もかもただの昔話になっていて、普通に幸せな結婚でもしているかもしれないだろ」
「確かにある意味では、幼い頃にありがちなありふれた出来事かもしれない。……しかし中学卒業を前に、わたしが恐る恐るもう一度連絡先を調べた際、彼女はもうこの世界に居なかった」
続く邦香の告白に、俺もさすがに絶句した。
「彼女を直接そこまで追い込んだのは絶対にわたしではない……けれど最初にあの子へ、虐められる子の匂いをつけてしまったのは、間違いなくわたしだ」
邦香は前髪をかきあげ、俺を見た。その瞳は僅かに潤んでいた。
「そのマーキングの凶悪さは、説明するまでもないだろう?」
「まぁ、確かにきついな、あの匂いは」
俺は同意せざるをえなかった。俺にも多少の経験がないわけではない。
腕を伸ばし、邦香の髪をグシャグシャとかき混ぜる。
「しかし、判ってんだろ。死んじまったのなら余計、お前は何をしても許されない。許されちゃいけない。だからそれを都合良く自分の行動する理由に使うなよ」
「命がけで『ラクシャス』をこの国に導入し、貧富の差を埋め、自殺率を下げる。それでもダメかな? 許されないかな?」
俺の手になされるがままで、邦香は呟いた。
「これはそもそも最初から、君に声をかけた時点から判っていたんだ。理性を残して革命など絶対に成し遂げられない。世界を変革するのに必要なのはインテリジェンスではなくエモーションなんだ。情熱は知性に勝る」
「それは、そうかもしれないが」
「誰がどれほど理と正しさを説いても、『ラクシャス』が人々から自発的に選ばれる日など訪れない。それくらい初めから想定済みだ。人々がそれほど賢く理性的ならば、そもそも『ラクシャス』など必要ないのだからな」
邦香の口調は皮肉げというよりは、やや哀愁を帯びていた。
「硬直した現状を突き崩す力は、どれほどバラ色の未来が訪れるかではなく、今この瞬間がどれほど苦しいかによってのみ生まれる、とはマネージャーの指摘だったな。だったらわたしはどうすればいい。……どうすれば、その壁を越えられる?」
邦香は自問するかのように呟いた。
「現状をもっともっと悪くする? それも確かに一つの方法だ。だが」
「世の中を良くするために悪くする。本末転倒だな」
「ああ。それに手頃な方法が見あたらない。だとしたら残る方法は、わたしには一つしか思いつけない」
邦香は顔をあげ、俺を見てうっすらと笑った。
「君が指摘したとおり、根本的に間違っていると承知で、大衆から宗教的な支持を集めて勢いで押し通す。民衆を熱狂させるには流血の事態が必須で……そもそも、その為の決起部隊編成だ」
俺は静かに邦香を見つめた。
「だから、このあたりが丁度潮時だ。君はそろそろ下りたまえ。プログラムが完成しているなら、これ以上の愚行につきあう必要はない。君は他のメンバーのような、政治の狂信者ではないのだから」
「アプリは粗方仕上がっているが、微調整はまだまだ必要だ。結局、肝になる部分のソースに触ってるのは俺だけだからな。もしここで俺が下りたら『ラクシャス』は永遠に完成しないぞ」
「完璧にならない、の間違いだろう? だがそこまでの完成度は必要ない。すでに国政を任せても差し支えないレベルに達しているのは確認済みだ。能力が多少劣っていたとしても誤差の範囲にすぎない。そもそも、自己刷新できるプログラムに真の意味での完成など存在しない筈だ」
「ある意味正しいが、間違ってもいる。国政版『ラクシャス』はまだ一度も実稼働していない。果たしてローンチして問題なく動作するか。そればかりは誰にも保証できない。そして不具合が存在した場合、修正できるのは俺だけだ」
俺は強く言い返すと、口調を変えてたずねた。
「そもそも、宗教的な情熱を集めて押し切る、って具体的にはどうするんだよ。有象無象が何人か死んだところで世の中は動かないし、お前が多少美人だとしても、そう簡単に神様のようにあがめ奉ってはもらえないぞ。決起部隊は力不足だし」
「馬鹿にするな。なんのためにアイドルになったと思って居るんだ」
「いや、だから可愛かったり綺麗だからって」
「アイドル、とはそもそも宗教用語だぞ」
俺の反論を、邦香は短く遮った。
アイドル――偶像、それも宗教的な崇拝対象。
「ならば、わたしがその名にふさわしい存在になればいい。単純な理屈だ」
「だから、どうやって。今時、アイドルなんざ掃いて捨てるほど居るっていうのに」
「確かに容易ではないが、それでも方法はあるさ。……都合の良いことに、先日、わたしもようやく二七になった」
二七歳? そりゃ俺と同い年だからそうだろうが……まさか!?
「なぁ。悪くないだろう……なかなか、暗示的な歳じゃないか」
突如、とある有名なエピソードに思い当たり、おもわず腰を浮かした俺の隣で、邦香はもう一度笑んだ。
俺に向かって。
実にアイドルらしい、完璧な表情で。
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