2-9
「長時間の電話対応、お疲れ様でした」
「ありがとうございます。ですが一進一退、やはり簡単には普及しませんね」
深夜、宿に戻るなり絞った熱い濡れタオルを差しだされる。年上の土橋氏に手ずから渡され恐縮しながら、俺はありがたくそれで顔全体を拭った。疲労で澱んでいた意識がやや覚醒する。気持ちいい。
今週末『ナーヴァニル』は大規模アイドルフェスでヘッドライナーを務めるために上京中だ。にもかかわらず村に残っている土橋氏は、最近ではすっかり『ラクシャス』プロジェクトのマネージャーと化していた。
「先週あたり、ダウンロード数のグラフが上向きはじめ時には、これで一気に弾みがついて、と期待したんですが。そう都合良くは進みませんでした」
公式に『ラクシャス』アプリ配布が始まって一ヶ月。
だが村民への普及は、事前の好評ぶりからは予想外なほど難航していた。
「このままだと、本格稼働に必要な最低限の端末数を突破するのに、まだ当分かかりそうです。というか万が一、今後普及率の上昇が鈍りでもしたら、最終的に稼働できない事態すらありえます。まぁ、それは大丈夫だと思いますけど」
俺は広げた濡れタオルを畳みながら、今日一日の業務を回想した。
インストール率の低迷に危機感を抱いて始まった『ラクシャス』インストール支援の電話サポートは、事前の想像以上に大仕事だった。IT系に強いオペレーターを急遽雇ったものの、類例の無いアプリだけに、込み入った話になると最終的には俺が対応せざるをえなくなる場合も多い。元来、俺は対人コミュニケーションのスキルが高くない。そもそもIT機器が苦手な高齢者に、電話口の指示でスマホを操作させるのは容易ではなかった。
「こんな状況になるのなら、余裕をもたせた稼働最低下限数にするんじゃなかったな。もっともアプリのリリースそのものは、当初の予定より早めでしたから、その意味ではまだ慌てる必要はないんですけど」
「確か、インストールされたスマホの数が少なくても稼働そのものは可能なんですよね。……ただ、それだと」
土橋氏が口ごもる。『ラクシャス』は政策判断の精度さえ無視すれば、スマホ一台ですら稼働は可能だ。現実的な村政能力を求めた場合でも、百台ほどあれば十二分だろう。それ以上の精度は誤差の範囲内だ。だが、
「ええ。現在の端末数でも、実用上はまったく支障なく運用できます。しかし、アプリのインストールが実質的に村民からの信任投票を兼ねると邦香がアナウンスしてしまった以上、最初に公表した稼働最低下限数、少なくとも村民の過半数以下で実運用を開始するわけにはいかないでしょうね」
俺は小さく溜息をついた。それは些か事前の想定とはズレた展開だった。
二期目の説明会を好評のうちに終了させ、いよいよ現村長の任期満了にあわせて村政の『ラクシャス』移行を、と至った時、ある一つの、だが大きな問題が発生した。
村政を『ラクシャス』へ委ねるにあたって、村民からの公式な同意を取りつける必要は存在するや否や。
導入賛成派の中でも、意見は二つに分かれた。村役場職員、および過半数の村議は制度変更の是非を問う信任投票を行うべきだと主張した。
「住民投票も何も無しに、村長も村議も廃止するなどあり得ません。第一、これほど大きな制度上の変更を自治省が黙って認めるはずがない。連中の差し出口を封じるために、最低限、村民の総意であるという証明は必要です」
一方、村長や一部の村議は無投票で構わないとの判断だった。
「これまで、村長を選挙で選んだこと自体、ほとんどありませんからな」
儂だって後継指名を受けて立候補し無投票の当選だった、と笑いながら、引退する村長は断言した。
「儂が後継として『ラクシャス』を選び、無投票で信任された。この村では、それで充分なのです」
明らかに肉体の衰えを隠しきれていない、背骨の曲がった老爺は、けれど双眸だけはまだ底光りするような生気に満ちていた。
「そもそも、これは断言しても良いが、住民投票で一〇〇%村民から支持されたとしても、自治省の奴らは我々の判断を決して認めやしませんな。ならば投票など最初から時間と手間の無駄でしかない」
「では、どうやって認めさせます?」
「地方自治法では、直接民主制を認めております。それで押し通せばよい」
老爺の、端的かつ的を射た指摘に、俺は思わず軽く唸った。
村民各々の持つスマートフォンによる分散コンピューティングを、直接民主制の議事と同様の行為として国に認めさせる、という理論武装は実のところ計画のかなり早い段階に生まれていた。だが、『ラクシャス』について概略を説明されたにすぎないITとは無縁な寒村の老爺が、独力でそのロジックにたどり着くとは愕きでしかなかった。
「少し強引すぎやしませんか?」
「そうかね」
老爺はなぜか意外そうに呟いた。
「どうやら、君は随分とお父上とは異なる質のようだな」
そして、興味ぶかそうにそう俺の顔をじっと見つめる。
えっ?
突然、亡き父の話を持ちだされ、俺はたじろいだ。
どうして、こんな所で突然、あの人のことが……
もう随分長い間、その存在を意識させられる事などなかった。
「……父を、ご存じで?」
「無論だ。この話が村に持ちこまれた当初、本当に馬鹿な真似を考えつく若い者がいるもんだ、と呆れたよ。正直、新手の詐欺かもと疑っていたから、真っ先に関係者の身元を一通り洗わせた。そうしたら、君がよりによってあの方の実子だというじゃないか。……そこではじめて、今度の話を真面目に検討してみる気になった」
俺は、予想だにしていなかった成りゆきを聞かされ、唖然として硬直した。
「わしらの世代の地方政治家で、君のお父上の名前を知らぬものはまずおらん。直接お目にかかって話したことも幾度かある。個性的で、毀誉褒貶相半ばする方だったがね。第三の再生、地方と都会の新たな関係から生まれる嬰児たち……お父上の掲げるスローガンに熱狂した者も多い。かくいう儂もその一人だ」
父は、目の前の老爺より確実に年下だった筈だ。
にもかかわらず、老爺の瞳にははっきりと憧憬の色が浮かんでいた。
「今度の計画の首謀者の一人があの方の息子であると知って、当時の興奮がよみがえった。だから、賭けてみよう、という気にもなったのだ。でなければ、こんな荒唐無稽な計画など検討すらしなかった」
老爺はしばし回想したあと、冷徹な現実家の眼差しへと戻った。
「この稼業は、私情を排し常に周囲の意見に耳を傾けるのが仕事だ。だが、決してそれが全てであってはならない。……君のお父上は時にあまりにも強引すぎて、無用な恨みまでかっていた。けれど政治家が何かを成すには、必ず強さが必要なのだ」
そして、値踏みするようにじっと俺の瞳を覗きこむ
「志高く聡明で、万民に公平なだけの者では政治家は務まらない。君には、お父上と同じだけの力強さが備わっているのかな?」
俺は政治家じゃない!
反論を押し殺し、俺はただ無言で一礼した。
一方、『ナーヴァニル』内部でも、意見は割れていた。正確には、約一名が村民投票に強硬に反対した。
「『ラクシャス』の理念にそもそも一致しません」
この件に関しては、日頃の穏和な態度が嘘のように、藤井さんは頑なだった。
「いいですか、人は多数決で正解を選ぶことなど出来ない。それが『ラクシャス』に政治を委ねる大前提だった筈です。なのにその導入の是非を村民の多数決で決めるなど、矛盾であり自己否定であり根本的な敗北です。絶対に許容できません」
バン! と勢いよく宿のテーブルを叩いて、藤井さんはプロジェクトの皆を睨めつけた。
「皆さんはいいんですか、それで」
「凜ちゃんはそういうけどさぁ、あたしは別にぃ、今はそんな理念はそこいらに放っておけばぁ、って思うんだけど」
激しい剣幕の藤井さんをなだめようとしてか、結城さんはヘラヘラと笑った。
「だって結果さえ望み通りなら、途中経過なんて全然関係ないじゃない。ご主人様が手ずから首輪を授けたか、それても自ら望んで首輪を巻いたか。どちらにしても、コンピュータの奴隷に違いはないでしょ」
偽悪的な笑みを浮かべながら、だがその声の響きは真剣だった。
「つまらない建前にこだわって、肝心の本質を見失う。それ、ってまるでどこかのリベラリストっぽくない?」
「確かに、この村での成否に限れば結果最優先でもいい。だが今後、より『ラクシャス』を普及させていく局面において、重要な前例となるだけに迂闊な判断はできん」
邦香は結城さんを軽くたしなめると、俺へと向き直った。
「智成の意見は?」
「村民の賛成多数を導入の口実にするのは俺も藤井さん同様に反対だ。そんな前例を残すと、それなら今度は多数決で反対が多ければ『ラクシャス』を廃止してもよい、って理屈になるからな。人々を出来るだけ多く幸せにする政治、というのは裏返せば全員が少しずつ不満を抱く政治でもある。これから先、世の中を良くしていけばいくほど、おそらく『ラクシャス』を恨む輩は増える。人生が満たされるほどに、人は残った不足を実感しはじめるからだ。最終的に、廃止を願う声が多数派になっても不思議じゃない」
「なるほど。だが諒子の意見にも一理はある。そもそも『ラクシャス』による政治を現実に成立させなければ全てが無意味だ。前例踏襲しか考えていないお役人ばかりのこの国で、この村と出逢えて、ここまでたどり着けた現状自体が奇跡に近いんだ。我々三人が今後、どれほど枕営業に励んだところで、これほどの好条件には二度と巡り会えないと覚悟してくれ。将来の禍根を恐れて肝心の導入に失敗したら本末転倒でしかない」
俺と邦香は互いに視線を交わし、様子をうかがった。だが、この議論の落としどころはすでになんとなく見えていた。別に、事前に示し合わせて小芝居を演じているわけではない。ただ、邦香とであれば判るのだ。
「なら、どうする」
「自治省に対する建前は、前村長の主張したとおりだ。つまり、この村は村長と村議会を廃止し、地方自治法に明記された直接民主制を選択したことにする。村民各人の意見はスマホにインストールされた『ラクシャス』を通して集約され、施策として実施される。必然的に、村に政治家は存在しなくなる」
『ラクシャス』に村政への提言機能を搭載したのは、その建前を成立させるためでもあった。
「直接民主制を選ぶ是非を住民投票で問うのは、屋下に屋を架す行為だともいえる。であれば村長の判断で充分だ……とはいっても、この建前で押し通すなら、最低でも過半数の村民の端末に『ラクシャス』がインストール済みでなければならない」
「要するに、『ラクシャス』を用いた直接民主制への移行そのものは首長の権限によっておこなわれ、住民投票は行わない。ただし、意見集約のための『ラクシャス』インストール率が、結果的に新制度の信任投票的に働く、って理屈だな」
俺が確認すると、邦香は大きく頷いた。
「凜は不本意かもしれないが、双方の顔をたて、自治省の横槍を大義名分で押し返し、不都合な前例を残さずに反対派をなだめる。それにはこのあたりが妥当じゃないかね」
邦香はその場の全員を見回した。
皆、微妙に不服そうな表情を浮かべていた。だが、反対意見はなかった。
その反応こそが、まさに『ラクシャス』の施策的だなと、俺はなんとなく思った。
「でも、実際どうなんですか? アプリのインストール率、期日内に達しそうですか?」
俺が一息つくと、土橋氏は改めてそう尋ねてきた。
「進展状況について、やはり事務所も気になってるようで。本当に難しいようなら早めに次の手を打つ必要もありますし」
「今の、アプリインストールキャンペーン以外に何か良い方法がありますか?」
俺が問いかえすと、土橋氏は気まずげに視線をわずかに逸らした。
「事務所の上の方では、スマホの普及率が七割台の村で、村民の過半数のインストールは事実上不可能だろうと。……話を嗅ぎつけて一枚噛みたがっている広告代理店が、無料配布用スマホを提供してもいいと申し出ているようです」
「……つまり『ラクシャス』をプリインストールしたスマホをタダで配ってしまえ、と」
提案の真意を理解するには、しばしの間が必要だった。
芸能事務所主導ではじまった『ラクシャス』プロジェクトの存在を知り、複数の広告代理店・人材派遣会社などが計画に加わりたがっている、という話はすでに邦香からも知らされていた。
仮に村民全員分を用意しても、格安スマホなら一千万もあれば足りるだろう。確かに彼らにとっては、予算の範囲内かもしれない。だが、
「ですが、さすがにそれでは『ラクシャス』に村民の賛意が得られた、とは言い難いでしょう」
「スマホを受けとった者は賛成したと見なしても、という見解のようです」
いかにも連中らしいやり口だな、と俺は思った。公然の買収だ。
しかし、はいそうですか、と提案を受け入れるわけには無論いかない。
「それが有効な対策の一つであるのは認めます。でも、そこまでしてもらっても、本格稼働をはじめた『ラクシャス』が広告代理店に業務を発注する状況、というのはちょっと想像がつきませんけど。彼らは承知なんですかね」
「直接的なリターンを期待しての提案ではないでしょうね。彼らは怖いんですよ、おそらく」
俺が念を押すと、土橋氏は苦笑いを浮かべた。
「
「スマホ代を肩代わりして、それが伝手になるんでしょうか」
「智成さんに判らないことが、僕に判るわけがありません。しかしながら、彼らには他に今からこのプロジェクトに関わる手段が見いだせないのでしょう。プログラムは全自動で動いても、それを配布するのはあくまで人間です。将来的なビジョンとしては、『ナーヴァニル』《わたしたち》がこの村から去った後に『ラクシャス』の大規模アップデートを仕切りたい、といった願望があるようです」
「大規模アップデート、ってそんなのあり得ないんですが」
『ラクシャス』は自己学習型のプログラムだ。常時自力でコードを改善し続けるから、一度インストールさえしてしまえば、従来のアプリのような大規模なアップデートという概念は存在しない。性能が上昇したハードウェアへの漸次更新にも自動対応できる。我々が本格稼働後には村から撤退する予定でいるのもそのためだ。
万が一、人力によるサポートが必要になるとしたら、まったくの新アーキテクチャのスマホに全村民が一斉に乗りかえる場合くらいだろう。その場合はまたアプリも一から構築し直すしかない。
「セキュリティ対策も兼ねて、実行コードを自動生成する分散コンピューティングのアプリですからね。そもそも稼働開始後は、人が外から手を加えられるような設計思想にはなっていません」
そんな土橋氏への説明は、内容を大幅に簡略化したもので、実際のプログラムはもっと複雑な構造になっている。
『ラクシャス』は動作時、実行コードと収集データを混在させたまま、P2Pで参加スマホの間を移動し続ける。そのベースソースは解読を少しでも避けるため、高級言語を極力介さず、ダンプリストを睨みながら直接マシン語ベースで仕上げてある。
そもそも自動収集したデータをもとに判断を下す基本機能そのものは、生徒会運営版『ラクシャス』の頃にすでに技術的には完成している。プログラムのレベルとしては決して高くない、むしろ古典的な機械学習のソフトだ。今では標準となった深層学習系の技術や基盤ソフトは一切採用していない。産業系ソフトには必至な判断の速さを『ラクシャス』は必要としないからだ。
ならば以降の改良内容はというと、直接コーディングによる逆アセンブル対策を始め、ハードウェアリソースの共有とシステム冗長性向上を兼ねたP2P化、そしてデータと実行コードをシームレスに混在させるためのアルゴリズム開発など、実用化に向けたセキュリティ強化のための改良がほぼ全てだった。
「それなのに、無理にコーディングに直接関与したりしたら、思わぬバックドアを作りかねませんけど」
「むしろ、それこそが最大の狙いかと。無料配布したスマホで不具合が発生したら、その修正を配布者が申し出ても不自然じゃないですよね」
土橋氏の指摘に、俺は唖然とした。
常時新たなコードが生み出され続けている膨大なソースを人の手で修正したところで、それが正常動作することはまずあり得ない。エラーコードの自動校正機能によって削除、消去されるのがオチだろう。だが万が一、セキュリティホールが発生し、稼働中の『ラクシャス』内部情報にアクセス・改変が可能になったら、その効果は絶大だ。理論上は政治的などのような不正も可能になる。
ささいな不具合を口実にアプリを改変し、その結果を自在に操る魔法の鍵を手に入れる。成功すれば彼らにとって確かに最高の筋書きだろう。だが、
「しかし、だからといって彼らの期待に添わねばならぬ義理はありません」
土橋氏の言葉に俺は頷いた。アプリをハックされる危険性は開発当初からの最重要課題だ。だから効率が悪く一度動作をはじめれば事実上メンテナンスが不可能だと承知で、コードとデータを混ぜた構造を選んだ。オレンジとリンゴからミックスジュースを作るのは容易だが、そこからリンゴジュースだけを飲むことは困難なように。
「智成さんがおっしゃるとおり、『ラクシャス』が本当に、一度稼働をはじめれば人の手によるメンテナンスの必要がまったくなく、エラーの自己修正能力があり、アップデートなど不要なアプリなら、ここはスマホ提供の申し出を受け入れるのも一つの方法ではないでしょうか」
少なくとも、まだ未所持の村民へ無料配布できるのは大きな利点のはずです、と土橋氏は言い添えた。
清濁併せ呑め、か。
邦香の助言が脳裏をよぎる。確かに土橋氏の意見にも一理はある。スマホの提供を受けたからといって連中の期待に添う義理はない。これまでスマホの必要を感じてこなかった高齢者に、身銭を切ってスマホを買わせ、アプリをインストールさせる、というのはかなりハードルの高い行為だ。けれど、
俺は、自分のスマホを取りだして操作しながら答えた。
「確かに、いよいよ、となったらそれも有りだとは思います。でも、今はもう少し従来の手法のまま、アプリの普及を進めていきたいんです」
「理由をお伺いしても? 手を打つなら、早いほうが良いのは確かですが」
「アプリの普及状況は当の『ラクシャス』によってモニタリングしています。その普及速度が近頃どうも妙なんです」
「妙、とは?」
俺は画面を切り替えたスマホを、困惑する土橋氏へと差しだした。
「見てください。赤の破線がこの村の状況を踏まえたうえでの、『ラクシャス』自身による普及シミュレーションです。黒の実線が現実の普及状況になります。……黒の図形が途中から妙に歪んでいますよね」
スマホに描かれた黒のグラフは、当初赤の破線とほぼ一致しているのに、ある時期から潰されたかのようにその伸張が弱まっていた。
「前例のない、そして直接的な利便性の少ないアプリですから、初期に普及が低迷するのはある意味当然です。電子マネー登場時などと同様の、馴染みのないサービスに対する抵抗感とみるべきでしょう。しかし、普及予想のモデルにはそれらも当然織り込み済みで、実際、当初の状況は『ラクシャス』の予想したとおりです。なのに、途中から突然その予想図から外れていくのは不自然すぎる」
「どこかで、何者かによって意図的な妨害工作がおこなわれている、と?」
「はい。そう考えるのが合理的です。『ラクシャス』もそう推測しています」
俺はスマホの画面を消した。
「仮に、スマホの無料提供を開始するのであれば、その正体をつきとめてからにすべきです」
「多少の反対意見など放置して、数の力で押し切ってしまう手もあると思いますが」
「無論、最終的に行き詰まった時にはそうせざるをえないでょう。ですが、今ならその正体をあぶり出せる可能性がある。現実にどんな勢力がどのような方法で反対してくるのか。早めに確認しておくのは今後のためにも悪いことじゃない」
「了解しました。では事務所には上手く伝えておきます」
俺が強く主張すると、土橋氏はあっさりと引き下がった。
実際に村のお年寄りの家に出むいて、アプリの説明などをしている村の職員からは、一切妨害工作に関する報告は上げられていない。俺自身にも、心当たりはない。
誰にも気取られぬうちに、しかし確実に、『ラクシャス』の普及を妨げているのは誰なのか。
邦香は信用しているようだが、もし今のメンバーの中で情報を漏らしたり、外部からの指示でサボタージュをする者があらわれるとしたら、もっとも可能性が高いのはこの土橋氏だろうな、と俺は予想していた。
元医者で挫折を経験しているから、というのがプロジェクトに協力している理由らしいが、その挫折の内容は誰も知らないらしい。事務所、もしくはそれ以外の勢力から、プロジェクトの内偵を指示されていてもまったく不思議じゃない。
だが、これまで接してきた中で、穏やかな物腰に反してとても感覚の鋭利な優秀な方だ、とも実感していた。もし仮に何か事を起こすとしたら、ここ一番、本当にプロジェクトの息の根を止められるようなタイミングでだろう。だから、日々の振る舞いは信用していい。少なくとも今の妨害工作の主は、この人ではない筈だ。
そう内心で値踏みする俺に向かって、土橋氏は穏やかな笑顔で告げた。
「大丈夫ですよ。アプリの普及は多少停滞していますが、そこに至る過程は順調すぎるほどでしたからね。全体的に見れば、全然焦る必要はないと思います。事務所も理解しているでしょう」
「確かに。アイドルって奴を侮ってましたよ、俺は」
明るく力づけてくれる土橋氏に、軽い罪悪感を抱きながら俺は頷いた。
事実、それは俺にとってまったく想像以上の力だった。
可愛い女の子でありさえすれば、誰もがアイドルになれるわけではない。簡単な真実だが、俺は理解していなかった。邦香たちは本当に凄い。それが実感だった。
『ラクシャス』は原理・現象としては単純なアプリだが、実際の処理には自然言語の認識と現実の数理モデル化に関する知識が必要になり、ある程度以上になると説明がひどく難しい。もしそれらについて執拗に追求されていたら、アプリの配布に至るにはもっと長くて険しい道のりが存在していただろう。
『ラクシャス』に限らず、効果的な政策のほとんどは前提としての知識が必要であり内容の理解が難しい。だから政治家は村松氏の言うように道化を演じてでも、単純なスローガンを建前として掲げたりする。
けれど、『ラクシャス』はそれらの諸問題を全て、『ナーヴァニル』のアイドルとしての魅力で乗り越えている。
「多少のプログラミング知識があれば、政治をアプリに代行させれば楽なんじゃないか、くらいのことは簡単に思いつける。でも、それを実現させるには無数の高いハードルが存在している。以前邦香は、俺がこのプロジェクトの中心だと言っていましたけど、ソースを書けるだけの人間なんか世の中にいくらでもいるんです。けれど、『ナーヴァニル』が居なかったら話は一歩も先に進まない。順調なのは全て邦香たちの手柄です。だから俺自身はあまり胸を張る気分にはなりませんけどね」
傍らで見ているだけでも痺れるような、その一挙手一投足にあつまる視線と熱気。周囲を塗り替える圧倒的なオーラ。目の当たりにすると吐き気を催すほどの女性的魅力。
武道館で単独公演をするほどに人気が沸騰したのは、つい最近らしいけれど、知ってしまえば納得だった。
たとえ、説明会で『ラクシャス』の内容には何も触れず、笑って歌って、愛嬌を振りまいているだけだったとしても、ここまで順調だった手柄は全て彼女たちのものだ。
「そうですね。しかし彼女たちは、他人より容姿に秀でていたから、無条件でその力を手に入れたわけではありません。相応の動機と覚悟があり、目に見えない努力を重ね、人知れず代償を支払っている」
村松氏はマネージャーとして、そして医者として、彼女たちの密やかな献身を一番よく承知している存在だろう。
「だから智成さんが彼女たちの貢献を理解してくださっているのなら、なおさら、一刻でも早く、『ラクシャス』の普及を完了させていただきたい、というのが担当マネージャーとしての嘘偽りのない本音です。この村の立て直しが、智成さんの最終目標でないのならなおさらです」
村松氏は最後、やや声を潜め、力をこめた。
「確かにアプリは当初のタイムスケジュールを前倒ししてのリリースでした。その影響が出ているのかもしれないし、だから慌てる必要はないのかもしれない。でも、普及が早くて悪いことは何一つありません。いや、たかが千人に手こずるようでは、この先はおぼつかない。……アイドルの真の旬は、皆さんが想像するより遙かに短いのです。こんなところで『ナーヴァニル』を使い潰すわけにはいきません」
「承知しました」
確かに、村松氏の言うとおりだ。
週滅寸前の村一つを口説き落とすのに、彼女たちのアイドルとしての魅力を、これ以上浪費するわけにはいかない。
「早急に『ラクシャス』普及の妨害を排除し、目標の達成を目指します」
「よろしくお願いいたします」
俺が即答すると、村松氏は相変わらずの慇懃さで、深々と一礼した。
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