2-6
会話の途切れるタイミングをうかがっていたのだろう。やがて、女将が次の料理と新たなビールを運んできたので、自然と仕切り直しになった。
「しかしまぁ、見方を変えるとこの国の政治は本当に笑えるだろ、君」
村松氏もビールに切り替え、気分を一新して豪快に笑う。
「なにしろ、共産主義を標榜する政党が減税を主張するんだぞ。まったく奴らは何を学んで居るんだ。そもそも所得税率一〇〇%が基本だろうが、共産主義は。リベラルを自認する連中にしても同じだ。なぜ大きな政府を主張に掲げない。格差の拡大が問題だと騒ぐなら、とにかくありとあらゆる手段で課税して、所得と富を再配分するしか原理的に是正の方法はない。消費税を五〇%にしてベーシックインカムを導入するなどだよ。にもかかわらず、政策の一番目に減税が入ってくる時点で、奴らは何一つわかっていない。歌を忘れたカナリヤだよ、まったく」
「いえいえ、武力革命を否定している時点で、そもそも彼らは共産主義者ではありませんから」
「保守を自称する輩だってそうだ。自分は伝統を大切にする人間なので保守政党を支持しています、だと? ……この国の歴史上には一度だって、お前らみたいな平民に、誰かを支持するとかしないとか、そんな意見を口にする権利があったためしはねーよ! 保守的ならパンピーがグチグチ政治に口なんか出さず、お上に従って黙って働いてろ。それがこの国の本当の伝統だっての」
「それもまた厳しいですね。確かに、政治思想の主張や言論の自由といった西洋的な個人の権利を行使している時点で、彼らは率先して保守的な価値観を破壊していますけど」
「とはいえ、右だの左だのって区分で語ってる時点で、ぼくも相当ヤキがまわっているけどな。きちんと勉強してみれば、イデオロギーなんざ言ってることはみんな同じだよ」
だいぶ酔ってきてるなぁ、大丈夫か、この人。
よほど日頃の鬱憤がたまっているのか、それとも俺の口が固いと信じているのか、村松氏の言動は次第に過激になっていった。
もっとも、その言動は全て本心からのようにも見えない。あくまで酒宴でのパフォーマンスとして成立する一線を守っているのは、政治家としてなかなか見事だった。
「ですが……なぜ、自分なんですかね?」
ひとしきり、村松氏が全ての政治勢力をこき下ろすのを聞き終えたあと、俺は軽い口調で、だが慎重に訊ねた。
「ん? なんだって?」
「いえ、今夜は幾つか興味深いご提案を拝聴させていただきましたが、それだけになんだか勿体なくて……お相手に呼ばれたのがどうして自分だっただろう、と」
村松氏から密かに、今度ぜひご一献を、とのお誘いがあった時、俺はてっきり、あくまでプロジェクトの窓口として選ばれたにすぎないのだろうと理解していた。密会相手として、一番目立たない立場だからだと、
しかし、いざ酒宴の席に着くと、村松氏は終始一貫、俺に対して直接的に語りかけてきた。仮に、誰かに伝えるようことさら念を押す必要などない、と彼が判断しているのだとしても、その態度はあまりに率直すぎた。どこにも、俺を単なる一スタッフと扱っているニュアンスを感じなかった。
「忌憚のない意見交換が出来たのは幸いでしたが、せっかくでしたらそれを責任者に直接お伝えいただきたかったです。そうすれば、もっと」
「はぁ、なに言っているんだ、君は」
今更何を、と言わんばかりに村松氏は真正面から俺を指さした。
「このプロジェクトの、最終的なまとめ役は君だろう」
え? ……どうして、俺?
「もちろん、君らの組織の形態や、その中での立場については知らないがね。名目はどうあれ、この政治代行アプリのキーパーソンは、君しかありえない」
まとめ役……キーパーソンって、それは邦香が……
断言する村松氏に、俺が言葉もなく固まったその時、
「さすが、一頃は海堀派のプリンスとして、将来を嘱望された先生は違いますね」
突然、
背後から聞き慣れた声がした。
「それでこそ、政治家たるに相応しい見事な見識でいらっしゃいます。まことに、お見それいたしました」
「これはこれは、千両役者の登場だね。いや、太夫か花魁かな」
「とんでもございません。むしろ、礼儀を知らない茶屋の小娘の類で」
俺が慌ててふり向くと、いつの間にか、そこには浅黄の紬を小粋に着こなした邦香がいた。髪を軽やかに結い上げ、臙脂の細帯で華奢な腰を美しく絞っている。
楚々とした風情で座敷の襖を閉めると、邦香は膝を揃えて畳に手をつき、優雅に一礼した。
「改めまして、村松様。ご歓談中に失礼いたします。ナーヴァニルの櫻井邦香と申します」
「これはこれはご丁寧に。……見かけ通りのお嬢様でないとは承知していましたが、想像以上に油断のならないお方のようだ」
「なんだ、村松さんもお人が悪い。自分は前座、本命として呼ばれたのは櫻井さんだったんですね」
唐突な邦香の登場に、だがこれで、村松氏との一対一の濃い会話から解放されると、俺は密かに安堵した。
けれど、
「とんでもない。ぼくは彼女に声をかけてなどいないよ。酒宴の席に、今が旬の現役アイドルなど呼びつけてはマスコミに痛くない腹を探られかねないからね」
……なんだって?
「そもそも、貴女は今夜、東京で歌い踊っている最中じゃないのかな」
「おかげさまで初の武道館公演は大成功でした。舞台衣装そのままで新幹線に飛び乗ったのはさすがに初めての経験です。……ご承知でいながら今日を指定されるとは、村松様もまたお戯れがお好きでいらっしゃる」
共ににこやかに微笑みながら、村松氏と邦香は互いにじっと見つめ合っている。まるで、野良猫のごとく先に目をそらした方が負けだと言わんばかりに。
「確かに、時間的にはこんなものか。やれやれ、この店とは父の代からの付き合いで、結構信頼していたんだが。なのに、こうもあっさり貴女を通すとは。たとえ君から店の名前を伝え聞いたにしても……当てが外れたな」
「いえ、女将さんは責めずにお願いします。案内してくださる筈がありませんので、最初からお声をかけていません。私がこの席にたどり着けたのは」
邦香は軽く膝立ちになると、俺のジャケットの襟奥に手を伸ばす。
ハッと気づいて、首の後、違和感を感じたあたりに指を当てた。
「……俺はいつもこんなものをつけられていたのか?」
「まさか。スマホアプリだと部屋までは判らないので、今夜だけ薫さんに頼みました」
襟の間に挟み込まれていたのは、厚さ一ミリ強の金属片だった。発信器だろう。
「なるほど。これはまた君、ずいぶんと彼女に見込まれたものだな。一歩間違えばストーカーだが」
村松氏は膝を崩し、身をのけぞらして手を叩いくと、陽気に笑った。それをきっかけに、張りつめていた空気が多少なりとも緩む。
邦香はもう一度軽く頭を下げたあと、俺の脇に並んで座り直した。
「どうせストーカー呼ばわりされるのなら、愛されたものだな、と仰っていただきたいのですけど」
「いや、悪い悪い。また随分と愛されたものだなぁ、君」
わざとらしく拗ねてみせる邦香に、村松氏が可笑しそうに言い直す。
俺は黙って肩をすくめた。
「となれば、他の客からは従業員に見間違われようと謀ってだろうが、トップアイドルの着物姿は眼福というより他ないな」
紬は本来、地味な普段着としての着物だ。無論、邦香が身に纏った場合には違ったが。
「ありがとうございます。……どこか不自然なところはありませんか?」
かすかに頬を染めた邦香は、独力での着付けなんてデビュー前に一通りの礼儀作法を習った時以来で、と言い訳しながら自分の着物姿を見下ろす。
「いやいや、よく似合っているよ。とても可憐でお美しい。……ほら、こういう時は君も褒めなきゃダメだろうが」
「馬子にも衣装とは、ほんとうに昔の人は賢いですね」
「最初から彼には期待していません」
あからさまに不愉快そうに呟いたあと、邦香はすぐさま、どこからともなく取りだしたお銚子を手に、村松氏へとにじり寄った。とろけたような笑みを浮かべて酌をする邦香に、これはこれは、と村松氏は頬をにやけさせながら杯を受ける。
「しかし、先ほどはなんといったかね」
「先ほど、とは?」
「状況次第では国政挑戦の話もあったが、今のところは一介の村議にすぎないよ。海堀派のプリンス、なんて大仰な呼ばれ方をするはずがないだろう。誰かと人違いしているんじゃないかな」
まんざらでもなさそうな顔で注がれた酒を飲みながら、やんわりと、だが明確に村松氏は邦香の前言を訂正した。
「本当ならとても君のような、飛ぶ鳥を落とす勢いの人気者から酌など受けられぬ立場だ」
「またまた、ご謙遜を」
これみよがしに恐縮する村松氏に、邦香は意味深な笑みを向けた。
「菱倉先生の秘書を務められた後、お父様の地盤を継いで最初から国会議員として立候補するプランもあったとお聞きしています。にもかかわらず、先生はあの村を選ばれた。秘書時代、同じ政策勉強会で議論されていた世襲候補の方々は、みなとっくに国会議員になっていらっしゃるというのに」
なんだよそれ。
先ほど、村松氏からは語られなかった裏事情を改めて聞かされ、俺は小さく身震いした。
迂闊な内容を口走らなくて良かった。この村議、そんな大物だったのか。
「無論、一度手放された選挙区を、簡単に取り戻せない事情は判ります。とはいえ、今でも比例にまわって国会に戻る力はお持ちでいらっしゃいますよね」
「斉藤先生は少々お金に汚いが、そう悪い方じゃないよ。だからあの時、無理にぼくが地盤を守る必要は感じなかった。もっとも、その次はいろいろと問題がありそうだから、どうにかしてくれ、って泣きつかれて、一時期迷っていたんだけど……やっぱり、柄じゃないと思いなおしてね」
酒量がすぎたからと、一時はビールに切り替えていたのに、村松氏は邦香に二度三度と冷酒の注がれた杯を全て平然と飲み干した。その態度は、見事に政治家だった。
「だが、今はぼくの立場などどうでもいいじゃないか。……先ほどの彼に対する評価からして、自分の頭越しに話が進むのが不満で、乗りこんできたわけじゃなさそうだが」
「智成くんがこのプロジェクトの要である、との認識はまことに卓見で、先生のご要望は彼に直接伝えてくださればそれでよいのですが」
邦香はアイドル然とした笑みを崩さず頷いた。
「先生のお力や立場を、まだ智成くんには詳しく説明していなかったのを思いだしまして」
「なるほど、智成くん、ね」
村松氏は意味ありげに呟くと、ククッと笑う。
邦香が微かに狼狽した。見事に、脱げかけた猫を指摘されたからだろう。
「いや失礼。それで?」
「先生に粗相がないよう彼に注意を、また何か助言ができれば、と。無論、呼ばれもせずに押しかけた非礼は重ねてお詫びいたします」
「あれだね、芸能界の定番じゃ、度を超した無礼の代償は身体で、っていうのは本当かい?」
「もしも先生がお望みでしたら、よろこんで」
おもわずギョッとする俺の横で、邦香が平然と微笑む。
「なんだい。そこは慌てたり恥じらってみせるのが男に対する礼儀だろう」
村松氏自身は下卑た表情を浮かべているつもりのようだったが、些か育ちが上等すぎた。
「冗談と見抜かれているにしても、興ざめだな」
「とんでもない。内心はバクバクしています」
胸に手をあて、慌てて言い訳する邦香の前で、肘をついてふて腐れる村松氏の姿は少年じみていて、どこか可愛らしかった。
「だがまぁ、君が自分で何もかも仕切らずには気が済まないタイプではないと確認できたのは幸いだ。でなけりゃ先の見込みはないからな。……ここまでの発言が残らず本心なら、だが」
「当然ですが将来、全ての中心人物として矢面にたつ覚悟はあります」
頬杖をついたまま見あげてくる村松氏の前で、邦香は居住まいを正した。
「それがアイドル《わたし》の役割ですので。言い換えれば、真の中心は他に存在するのが当然ですし、でなければ大願の成就はみこめません。……なにより、わたしはもしも智成くんと出会っていなかったら、政治をアプリに任せよう、なんて野望を抱きはしなかったでしょうから」
その一言で、邦香と村松氏の視線が集中する。
え、俺? 俺なのか?
「個人的事情から興味を抱き、初めて政治の真似事に接して、そこで人の欲深さと愚かさを知って。どうにかしなければ、という幼い危機意識こそ抱いていても、具体的な解決策がわたしには皆目検討もつきませんでした」
いつの間に、話題が俺へと巡ってきたのだろう。
「なのにこの人は、ダメ元のわたしの一言を真に受けて、何の躊躇もなく平然とアプリを作った。つまり智成くんが、今回の『ソフトウェアに政治を任せよう』という企画のそもそもの発端です。先生が見抜かれたとおり、彼がこのプロジェクトのキーパーソンになります」
「ちょっと待ってくれよ。いや、だって……確かに全てのコードを書いてるのは俺だけどな。プログラムに政治的な課題を処理させた場合、完璧を目指せば先が長いけど、人の判断よりはマシ、なら意外と簡単そうに思えたんだ。だから政治そのものには特に関心があったわけじゃなくて」
「彼女が問題にしているのはおそらく、技術面より精神面なんだと思うよ。彼女はつまり、君だけが政治をコンピュータに任せる際の心理的な障壁を乗り越えることができた、って指摘しているんだ」
「ですが、発端となったのは高校時代の彼女の提案で。俺はそれを形にしただけで」
「『最近夫が冷たいから、今すぐわたしを助け出して』って女の人に迫られたら、彼女の短慮をたしなめたり仲直りするよう説得したりせず、一緒にあっさり逃避行しちゃうタイプなんです、この人」
邦香は悪戯っぽく、俺の脇を指先でつつく。
「ひどい男だと思いません? まだ小娘だったわたしが誤解したって仕方がないですよね?」
なんだその例えは。おまえがそんな殊勝な態度だった時期など、一瞬だってないだろうが!
「なるほど。いや実際、あらためて説明を聞いてみると、アイディアとしては単純で古くさくさえ感じる程だ。だが普通なら染みついた常識が真っ先にそれを否定する。そんな民主主義という神話になんら囚われず、プログラムを開発できたのが彼だけだったわけだ」
「ええ。先生の仰るとおり、賢しい小娘のおもいつきでしたけど、相談した他の方からは、物を知らない小娘だと、嘲笑われたり説教されたり、みな散々な態度でした」
「無理もない。ぼくだって最初に話を聞いた時は憤ったさ。政治に対するなんたる冒涜かとね。ウチの村に勧誘しようとまで至るには、結構な意識改革が必要だった」
村松氏は大まじめで頷いた。
「実際、固定概念って奴は恐ろしいね。君はそれを打ち破って、悪びれることなくこのアプリを作った。IT技術者としての実力はぼくには判断ではきないが、その精神的な強靱さはもっと誇って良いと思うよ」
「そんな大げさな話じゃありませんよ。確かに、幼い頃から政治家を崇める意識は自分には無縁でしたが……きっかけは、あくまでも単なる知的好奇心です。技術的には可能そうだからコードを書いてみたい、ってだけで。ある程度勉強したプログラマーになら誰でも書けるレベルの」
反射的に言い返してから、俺は自分の返答に意味がないと気づいた。
「えーと、ひょっとしてつまりこれまでのは、俺が誰よりも鈍感だという話ですかね」
「端的にまとめてしまえばそうなるのかな」
戸惑う俺に、村松氏は苦笑いを浮かべた。
「ぼくは一応、褒めているつもりだったんだが」
「でも技術的には本当に、リアルタイムの処理が必要ない分、車の自動運転よりよほど簡単なんですよ。だったら政治はコンピュータに任せた方が、労力も少なければ間違いも減る。無駄な仕事に振り回される人も時間も無くなって、その分、皆ずっと幸せになれる、ってただそれだけで」
「けれど、一昔前なら運転は立派な大人の誇り高い職業だったし、今でも人の判断が大切な行為だと信じている人は少なくない。なにより、運転という作業そのものが楽しみな人にとっては、自動運転はやはり歓迎しがたい技術革新でしょうね」
俺の説明に、横から邦香は淡々と言葉を重ねた。
「結局、最後に問題となるのは、車は安全に目的地につけばいいのか。それともその過程も重要なのか、ということ。……政治をプログラム化する場合も、たぶん一番最後まで争点として残るんじゃないかしら」
「だろうね。政治代行アプリの導入は効率的だろうが、少なくとも、政治そのものが好きで生き甲斐の人々からは、さぞ憎まれると覚悟した方がいい」
村松氏は、邦香の指摘を全面的に肯定した。
「政治家や、その周辺の人々にとっての本音は、選挙に代表される民主主義のプロセスこそが大切で、人生をかけるに足る崇高な生き甲斐なのさ」
「ですけど、やっぱり政治は結果がなにより重要じゃないですか。沢山の人が幸福になるか不幸になるか、影響が大きいですし」
「そんなことはない。そもそも結果が最優先なら、プログラムに任せるまでもなく、誰より賢い人に全てをゆだねる専制君主制を選べばそれで済む。馬鹿が集まって馬鹿を選ぶ、結果よりプロセスに価値を見いだすのが民主主義の本質だよ」
「実際、歴史上重要で評価の高い決断をしている政権の在任時は大概支持率が低いもの。また、支持率が低ければ良いわけではないけど、戦時下を除いて高支持率の政治家がめぼしい成果を残していないのも事実。民意が求めているのは結果ではない証明でしょ」
二人からよってたかって指摘され、俺は軽くへんだ。
「なんですか。実はお二人とも政治代行アプリの実用化に本当は反対なんですか?」
「とんでもない。これらの政治的常識を無視して、見事なプログラムを開発してくれた智成くんには感謝しかないわ」
邦香はパタパタと手を振る。着物の裾がコミカルに舞った。
「あんまりにも見事なので、現実の政治を本当に変えちゃおう、なんて決意したんだから」
「ぼくが感心したのは、プログラムが本当に過去の実績から学ぶことのみに専念していて、妙な色づけが一切なされていない点だね」
村松氏は手にしたビール瓶を差しだしてくる。
「説明を聞いてもなかなか信じられなかった。何かしらの、君なりの政治に対する主義主張がどこかでプログラムに反映されているんじゃないかとね」
「そんなトラップ、忍ばせていませんよ。そもそも、政治そのものにはあまり関心がありません」
「それが本心かどうかはともかく、プログラミングに独自の味付けをしていないのは事実みたいだな。無意識の結果にせよ、根本的なルーチンに君個人の政治観が影響しているんじゃないかと疑っていたんだが。……すまないね、この仕事をしていると、そういう意味では他人をまったく信じなくなるんだ」
それから村松氏は、実は先行して提供してもらったサンプルアプリを、信頼できる複数の筋に精査してもらった結果が出たんだ、と告白した。
「どこも口を揃えて保証してくれたよ。実ソースコードは自己学習による進化を繰り返した結果として、もはや開発者以外には手に負えないほど複雑化しているけれど、その基本的な構造はとてもシンプルで偏向的な意図が入りこむ余地はどこにもなく、サンプルの収集アルゴリズムも公平だ、とね」
その結果が届いたから、こうして話をしようと決心したんだよ、と村松氏は俺のグラスにビールを注ぎながらいった。
「なんだかんだいって、ぼくたちは民主主義が絶対の価値観だとすり込まれて育っている。右も左もなにかと意見したがるのは、主張する行為そのもののが目的だからだ。どんな思想も現実的にはさしたる価値がない、と認めるのは結構勇気がいる」
「けれども……大概の人が運転する車より、自動運転は安全に確実に私たちを目的地に連れて行ってくれる」
邦香の念を押すような一言に、村松氏は大きく一つ息をついた。
「……そうだな。君たちの作った政治代行アプリにはこれまでぼくらが大切にしてきた主義主張も理念も一切存在しないが、大多数の政治家よりは無難で正しい施政を行うだろう。それがもっとも多くの人々を確実に幸せにする方法なら、ぼくは一人の政治家としてそれを認めなきゃならない」
そこまで聞かされて、鈍感な俺はようやく気づいた。村松氏がこの小宴を開いた本当の目的は、自身が最後の覚悟を決めるためだ、と。
「今後は、『ラクシャス』を導入する方向で話をまとめよう」
やがて、村松氏の口から、穏やかな、だが気持ちのこもった一言が発せられる。
俺と邦香は揃って頭を下げた。
「「ありがとうございます」」
期せずして声が揃い、二人揃ってつい、微妙な表情になる。
「もっとも、労せずとも手に入る効率的な政治が、果たして人の世を良い方向に変えるのか、一抹の不安は残るがね」
そんな俺たちを眺めながら、村松氏は一人、手を叩いて大笑いした。
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