2-5

「まぁ、実際の所はよくわかりますよ。『ラクシャス』チームの皆さんの言い分はね」

 飴色に光る、重厚な橡の一枚板のテーブルを前に、村松と名乗った若手村議は相づちをうった。

 そして、涼やかなガラス製のお銚子で自慢の冷や酒を勧めてくる。俺は慌ててお猪口を右手に持ち、左手を下に添えてそれを受けた。若手村議、とはいえ村松氏はすでに四十代だ。自分よりも親に近い歳の世代だった。

「説明会の場じゃ、ぼくもああ問わざるをえませんが。……ベースは機械学習でも、いずれはディープラーニング系の人工知能にアップデートするわけでしょう、『ラクシャス』も。この村での稼働はそのための事前サンプル収集が目的ですか?」

 八月。旧盆を前に『ラクシャス』説明会は佳境を迎えていた。

 そんな最中、懐疑派の有力議員である村松氏との会談は、はっきりとどちらかが誘ったわけではなく、双方なんとなくの阿吽の呼吸で実現した。

「いえ、最近の研究では、機械学習による関数データベースの事前構築は人工知能育成に際しては有害だという説が有力で、それは考えていないです」

 俺は思いの外、友好的に始まった秘密会談に動揺しながらそう答えた。村民説明会などでの、どちらかといえば粗暴で単純な言動と、目の前の村松氏の振る舞いは大違いだった。

「集めた過去の事例を詳しく検討してみると、実体政治において、非線形の命題は意外と少ない、いうか極めて希なんです。ですので、いわゆるAI《人工知能》系へは発展させず、このまま機械学習ベースの純粋な条件処理プログラムとして開発を進めて構わないと判断しています」

 もっとも、膨大な過去データを機械学習して関数データベースを自力で構築し、与えられた命題に回答するプログラムが、人工知能AIに分類されるかどうかは、研究者によって意見が分かれている。現在はどちらかといえばAIだとする勢力が優勢だが、俺は真の人工知能ではないとする立場だ。

 過去に世界のどこかで実績のある政策のバリエーション以外選び得ない、という機械学習の特性は、AIではないとした方が伝わるとも思う。

「処理命題の入力様式を多少、工夫する必要はありますけどね」

「本当に? それじゃ、政治の役割なんて所詮中学校の数学レベルの難易度ってことか……まぁ、利害関係者の調整以外では、確かにその程度の仕事しかしていないかもな」

 村松氏はあくまで知的な態度のまま、冷や酒を一息に飲み干してすぐさま手酌した。俺が注ぐ隙など与えてはくれなかった。

 ここは村から車で小一時間、県庁所在地の繁華街の片隅にひっそりとたたずむ小料理屋である。村松氏は常連で顔がきくらしく、俺は着くなり女将にまっすぐここに通された。当然のように個室だ。

 過疎地の村議にも、密談の場は必要らしい。

 浅沼さんは、自ら車に残ったので、俺は一人きりだった。

「その利害調整ですら、IT化されればさぞ楽になるでしょうね。……どうしてワシの家を壊して橋をかけるんだ。もっと西の……いやいや、すみませんね、コンピュータが一番村のためになる場所がここだとと指示していまして」

 後半の、これみよがしな小芝居に、俺はつい苦笑した。ありそうな話だった。

 田舎の年寄りに話を通す際には、効果的なやり口だろう。

「というわけで、まぁ本音では、ぼくは結構賛成なんですよ、『ラクシャス』導入は。あの終わってる村にとっては、有り難い話じゃないですか」

「ありがとうございます」

 どういうつもりだ?

 俺は深々と頭を下げながら、内心で村松氏の意図を訝しんだ。

 わざわざ、村人の目につかない場所でのだ。日頃口にしている、表向きの主張と異なる本音が聞けるのでは、とは予想していた。

 だが、最初から褒めちぎられるのは想定外だ。

「まだまだ改良の余地は残っていますが、アプリとして実用レベルには達しています。ですので、いますぐ導入しても、村にご迷惑をかける可能性は低いかと」

「なにしろ、とりあえず今の村議会よりマシな判断さえしてくれればいいわけだから。ハードルは低いでしょうね」

 豪快に笑う村松氏に、俺は警戒を緩めなかった。もっとも、どうやらその態度すら笑われているようだ。

 田舎村の議員でも、さすがに現役の政治家だ。俺の手に負える相手じゃないかもな。

 俺は事前の推測が浅はかだったと認めざるを得なかった。というより交渉事など、自分はそもそも素人以下なのだと痛感する。

 村松氏には、『ラクシャス』をまず否定して、その導入を認める代償として取引を、といった単純な駆け引きをするつもりはなさそうだった。

「そういうわけで、ぼくは状況さえ整えば、いずれ『ラクシャス』の導入を認める方向で村をまとめるつもりだ。次の村長を期待していた篠山さんたちには申し訳ないが、これも時代の流れと諦めてもらうほかはないね」

 だが一般的な交渉手法としては、どれほど態度が友好的でも、いずれどこかのタイミングで『ラクシャス』の欠点を指摘してくる筈である。そして何らかの要求をつきつけられるはずだ。

「……何故ですか?」

「ん?」

 その重圧に耐えきれずに、俺は自分からたずねていた。慣れない駆け引きを挑むより、率直に向きあった方がまだマシでは、という計算もあった。

「『ラクシャス』の性能に、自分は自信があります。しかし現役の政治家の皆さんにとってみれば、これは仕事を奪い、存在意義を否定するプログラムのはず。どうしてそこまで肯定的に評価してくださるのですか?」

「また随分とぶっちゃけてきたね、君は」

 俺の態度が豹変したのが予想外だったのか、一瞬、村松氏は驚いたように目を見開いたあと、嬉しそうに微笑んだ。

「前向きな理由ねえ……それならまず逆にたずねるけど、君は何故、政治代行アプリなんて開発しようと考えたんだい」

 邦香に頼まれたから、などと事実を素直に告げるのは悪手だ、という分別くらいは残っていた。

「深い理由はありませんけど……しいて動機をあげれば、端で眺めていて、政治家はどうしていつも効率の悪い方法ばかり選ぶのか、理解できなかったからですかね」

「ふぅん。その効率の悪い方法、って具体的にあげられる?」

「そうですね。一例としては――景気改善のために減税をする。さてどこの誰を減税すればいいのか――という命題で、少し考えれば答えは子供でもわかりますよね。景気が良い、とは消費が活発、という意味ですから、相手が個人か企業かに関わらず、基本的には貯蓄率の低い対象を減税するのがどう考えても合理的です。貯蓄率が高いほど、減税分が消費に廻る割合が低いわけですから」

「なるほど。大体わかった」

 村松氏は軽く頷きながら、残っていた冷酒を飲み干した。

「しかし、現実の政治家は貯金の唸っている金持ちを減税しては、景気が一向に改善しないと嘆く。こんな馬鹿どもに政治を任せておくくらいなら、プログラムに合理的な判断をさせた方がまだマシ、と考えたわけだ、君は」

「ええ、まぁそんな感じです」

 俺は頷きながら、すばやくお銚子に残っていた冷酒を村松氏の杯に注いだ。今度はうまくいった。

「なら一応、その端くれとして言い訳しておくが、その程度の理屈くらい大概の政治家は理解しているんだ。ぼくらはそこまで阿呆じゃない。もっとも最近は、例外も増えてきたが」

 最後、自嘲気味に呟くと、村松氏は表情を改めた。

「だが、理解しているのと、正しい政策を選べるのかはまったくの別問題だ。そのほうが効率的と承知でなお、ぼくらは決してそれを選択できない……つまりぼくが『ラクシャス』に対して肯定的なのも、そのあたりの事情が理由かな」

「判っているけど選べない、ですか?」

「そうさ。市民の代弁者たるのが民主主義政治での政治家の役割だ。……金持ちの減税は許しても、貧乏人の減税は認めない。これはこの国に限らず、近年の民主主義国家共通の傾向だからね。理由は想像がつくかい?」

 酔いが回りはじめたのか、村松氏は気安い態度でたずねてくる。

「いえ。感情論が主因だろうとは想像がつきますが、理由までは……富裕層の方が数が少ないからですか?」

「ぼくはね。京大時代は動物行動学を専攻していた。あそこは霊長類の研究では未だに世界でもトップクラスでね」

 突然、話を変えた村松氏に、俺は黙ってその続きを待った。

「家業を継ぐのがイヤで理系を選んだのに、結果的には、サルの社会性についてみっちり勉強したことが、その後の政治家生活で随分と役に立っている。たとえば、群を作るサルは大概、オスがその中での序列を争う。動機は、メスと交尾する機会をより多く獲得するため。大変素直で率直な動機だろう」

 あれほどの美女に毎日囲まれている君は、サル社会では間違いなく勝ち組だな、と村松氏は一瞬意味ありげに笑った。

「無論、我々はサルではない。だが、一夫一婦制の一般化によってたとえ動機は失われても、その行動原理は、今の人類にも脈々と受け継がれている。人間も所詮、サルの一種にすぎない、という証明だろうな」

「それは、現代社会においても人は集団内の序列を重要視する、という意味ですか?」

「ああ。そう解釈すると、納得のいく事例が世の中にはあまりにも多い」

 俺の確認に、村松氏は大きく頷いた。

「世の中の大多数にとって、金持ちの資産が五十億から百億に増えようと、自分の社会的序列にはなんの影響もない。だから彼らの減税に抵抗は少ないし、課税強化にもあまり関心を示さない。だが貧乏人に対する反応は正反対だ」

「ごく少数の富裕層に対する減税とは異なり、多数の貧困層に対し、的確な振興策がとられた場合、彼らが自分たちより豊かになり、相対的に自らの社会的序列が大きく低下する可能性がある。なにしろ今や貧困層のうち半数は、その能力が劣るからではなく、ただ貧困の固定化によりチャンスがなかっただけだから」

 俺は村松氏によるそれ以上の説明を待たず、続けた。

「よって、中間層の大多数は、貧困層への減税、生活保護の拡充などの格差是正策に強い拒否感を抱く」

「ご名答。金持ちを見上げて嫉妬するより、貧乏人を見下ろして優越感に浸る市民が大多数である以上、民主主義における政治家われわれは非効率と承知で金持ちの減税を景気振興策に選ばざるをえない」

 これは途上国への支援とか、中小企業対策にも応用できる基本的な人間社会の性質だと、村松氏は指摘した。

「現場で政治家をやってるとね、そういう、いかにも動物的な反応に日々直面させられる。だからいい加減嫌気がさしてきたのさ。いっそ全てをアプリに代行させられるなら、という気分にもなる」

 そこで一端村松氏は話を切ると、女将を呼んだ。冷酒の追加と、新たな料理を要求する。

 俺も、残っていた冷酒を飲み干し、今度は生ビールを頼んだ。今は少しでも度数の低い飲み物のほうが有り難い。

 女将が立ち去ると、村松氏は俺に失礼するよ、と断って姿勢を崩し、座布団の上で膝をたてた。

「ウチはね、室町時代から続く名主、いわゆる庄屋の家系だ。しかも江戸時代の半ばにこのあたりは沼津藩の飛び地になってね。遠すぎるから当然、藩主は直接施政などできない。名主の我が家が実質的に領主代行として飛び地を仕切って、決められた年貢を沼津に届け続けた。明治になってからは当たり前のように、大地主として村長や県議を務めた。戦後、農地解放で土地を失ってからは専業の政治家一族だ」

「すごいですね。なんだか自分とは縁がなさ過ぎて、想像もできませんが」

「当然、物心つく頃から、いずれおまえも政治家になるんだと決めつけられて育った。学生時代は抵抗したが結局、ぼくも戻ってきて家を継ぐしかなかった。……政治家のダメな部分、民主主義の欠点なら、それこそ君ら以上に熟知しているつもりだよ」

「『ラクシャス』にご期待いただける理由が、先生のそんな出自にあるとは想像だにできませんでした」

「なんだい、いまさら突然先生ってのは」

 返答にこまって、つい口をついて出た言葉を、すっかり酔った村松氏は鼻で笑った。

「こんな場所でくらいやめてくれ。先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし、だ。……民主主義の、少なくとも議院内閣制の一番の欠点は、主義主張やイデオロギーを理由とした政党をその基本単位としている点だよ」

 村松は、新たに出されたお銚子を手に持ってヒラヒラと振った。

「君の、先ほどの景気対策論だがね。現実には川上と川下、どちらから攻めるべきなどまったく問題じゃない……賢い政治家が上手くやれば、金持ちから貯金を下ろさせて、減税額以上に消費を増やすことだってできる。一方で、愚かな政治家がいくら貧乏人を減税したって無駄だ。彼らは将来の為に僅かでも貯金を殖やそうとするだろうさ」

 今度の村松氏の理論は俺にもわかりやすかった。

「有能な政治家なら、金持ちと貧乏人、どちらを減税しても景気を上昇させられる。無能ならその逆だ。にも関わらず、そのどちらの政策手段を選ぶかだけを基準にして選択せざるをえない現在の政党制では、もっとも肝心な、有能な政治家を選ぶ手段が何一つない」

「政治家の主義主張と能力に、相関関係は存在しない、と」

「そうだ。今夜の夕食は、イタリアンがいいかフレンチか中華か居酒屋か、それだけを問われたって決められるわけがない。誰だって、なにより食べたいのは美味い料理なんだ。基本はイタリアンが好きだとしても、不味いパスタよりは美味い中華の方がずっと嬉しいに決まっている」

「我が国の政党政治は、パスタを出すレストランか中華料理屋か、という区分しかない玉石混合のグルメガイドですか」

「今はもう石石混合だな、どちらかといえば。政治離れが進むはずだよ」

 村松氏は豪快に笑った。俺は、あまり笑えない話なのでは、と率直に思った。

 それから村松氏は姿勢を少しだけ改め、俺へ向き直った。

「ぼくは本当なら、前の村議選には出ず、今頃は県議会にいる予定だった。衆院の斉藤先生は年齢からしておそらく来期限りだ。一期県議で過ごした後、先生の後釜を、県東部のグループが押してくる新人と争うよう、周囲から強く請われていてね」

「その予定を変更したのは『ラクシャス』《うち》の話があったからですか?」

「まぁ、それも一因ではある。だがここまでの話を聞いていれば君にも判っただろ。単に嫌気がさしてきていたんだよ、政治家家業に。小さな村でさえこれだ。国政選挙なんてまっぴらゴメンだと思っていた」

 村松氏はいつの間にか空になっていたお銚子を振ると、大声で女将を呼んだ。丁度現れた女将は、慣れた様子で、料理と共に新たなお銚子を置いていった。

「なぁ、よく選挙公報で『あなたの大切な一票を無駄にしないで』とか言ってるだろ。けれどもたとえば民主主義と社会主義と共産主義、どれが良いか選ぶのに、一体どれほど勉強すればいいと思う?」

 俺が、新たなお銚子を差しだすと、嬉しそうに村松氏は杯を手にした。それが毎度の注文なのだろう。今度は燗酒だった。

「共和主義と民主主義の選択でもいい。立憲君主制と民主共和制でもいい」

「それらの全てが、絶対王政の対抗概念ですからまとめて同一の主張としてしまっても差し支えないとも思いますけど……そうですね、基本的にはそれぞれ本の二、三〇冊は読みたいですね。できれば原書で」

「そうだろう。簡単に、楽に世の中を知る都合の良い方法なんて存在しないんだ。共産主義を理解したければロシア語とフランス語は必須だし、この国の保守思想が学びたければ旧かなから漢文まで文語が一通り読めなきゃ話にならん。口語版は結局、翻訳者のバイアスがかかるからな。さらに基礎知識として東西の専制君主制の歴史も判っておかなきゃいかんし、それぞれに関わる宗教問題も複雑だ。加えて、各主義のバックボーンとなる人種問題……それらを全部――最初に自分が好きだった主張だけじゃない、嫌いなのも、意に添わないのも全てだぞ――勉強して理解して自分なりに咀嚼して、はじめてどの主義を掲げる政党が望ましいか、比較検討が可能になり、ようやく最初の一歩が踏み出せる。……個別の政策の是非になると、さらにそのずっと先だ。確率や統計などの数学的な知識が不可欠だし、心理学や最近では情報工学系が一通り、それに問題となる個別政策の基礎教養」

 村松氏は、後は判るだろう、とばかりに軽く肩をすくめてみせた。

「つまり民主主義、ってのは共同体を構成する全員に、否応なしに最低限必要な学習を要求する。そしてその内容は、時代と共に増えることこそあれ、減ることはない。結果、それは二十一世紀に入り膨大なものとなった。政治が仕事の俺でさえ、完璧に理解するのはもはやとうてい不可能な量だ。一方で、今や国会にすら微積分が理解できない、まともに漢字の読めない議員が現れだした。……民主主義って、そもそも成立可能だと思うか?」

 村松氏は、さらに冗談めかして付け加える。

「比較して選択するためには、自分が最も否定したい主張を一番詳しく勉強して理解する必要がある。そこまでは理想論にしても……有権者が皆、各主張のそもそも最低限の基礎教養すら身につける気がないなら、いっそ専制君主制に戻した方がマシなのと違うか?」

 俺は答えられずにしばし黙りこんだ。

 そして、どうにか回答を絞りだす。

「確かに、我々が投票権を行使するために求められる能力は、民主主義が定着した一世紀前よりはるかに増大しています。……しかしそもそも、自分には理解ではきない、なので信頼のおける、諸問題の解決策を理解していそうな人を選んで託す、それが選挙制度なのでは?」

「理念はたしかにそうかもしれないな。……だが、自分には理解不可能な内容を相手が理解しているか、どうやって判断して選ぶんだ。根本的に矛盾してるだろう」

 そう告げる村松氏は、どこか苦しそうだった。その姿は昔、自分が信じていた理想を否定しなければならない苦悩にも見えた。

 似た表情を、俺はずっと昔に知っていた。

「人はサルを、完璧にとはいかずともある程度理解できる。だがサルは、おそらく人間について深くは理解できない。……生物は、基本的に己より賢い存在は理解できないんだ。理解が可能なのは、己より劣る存在についてだけだ」

「かもしれません。なにをもってして、劣る、と評価すべきなのかは難しいですけど」

「そうだな。本当に難しい……だが、選挙に関してなら簡単だ。それはただ、自分にもその発言が理解できる政治家、それだけだよ」

 そう告げたあと、村松氏は俺の表情に気づいて言い添えてくれた。

「判らないか? 要するに、政治家が選挙で選ばれるためには、大多数の人々にとって理解可能な存在でなければならない……つまり必然的に、皆より能力的に劣る存在でなければならないんだ。少なくとも、表向きは」

 村松氏の言い分は、今度はなんとなく理解できた。

「だから、今の政治家はみんな単純で短絡的な主張しかしないわけですか」

「でなければ当選できないからな。よって、自分には理解不可能なものを理解する賢い存在、が多数決で選ばれる日は決して訪れない」

 村松氏は疲れたように、運ばれていた刺身におざなりに箸をつけた。

「なにしろ家業だからな。幼い頃からずっと眺めていて、当然そんな現実くらい承知だった。……跡を継いでからも、それが政治家の宿命だと思って、精一杯演じてきたけどな。馬鹿のフリもそろそろいい加減飽きてきた」

 俺は村民説明会での村松氏を回想した。たしかに、あの場での村松氏はそういう存在だった。

「大半の人間はな、直接危害を加えられたのでもないかぎり、自分より本質的に劣ると直感してしまった存在に、本気で怒りを覚えることはない。否定し、軽蔑しても必ず心のどこかで許してしまう。生物として憐憫の情のようなものが湧くんだろうな。……人が心底敵視し、拒絶し、見下せるのは自分より賢く有能な存在に対してだけだ」

 結局、幾度か刺身を突いただけで、村松氏は口にしなかった。

「どうしてだか、もう判るな」

「理解不可能だから、ですね」

「そうだ。自分より賢い相手は理解不能だ。己を凌駕する、理解できない存在に生物は理屈を越えた恐怖を覚える。それは自己の安寧を脅かす可能性を知らせる、生存本能からのシグナルだからだ。激しい敵視や拒絶は、そのシグナルによって引き起こされた防衛反応というわけだ」

 知性を公にした政治家や芸能人、スポーツ選手が、何故世間の一部から執拗に攻撃されるのか、その理由を村松氏は端的に指摘した。

「現象的には、右も左も、保守も革新も関係なく彼らは普遍的に存在している。なにしろ、動物の本能としては極めて自然な反応だからな。自己を保存するための、ヤクザにビビるのと同じ現象だ。愚かだとは思うが責めようもない」

 それから村松氏は、己の主義主張を合理的に判断できない、意見の内容ではなくそれを主張した存在を非難する、他よりマシという口実が好き、などそういった人々を見分ける方法を幾つか列挙した。

「自分と意見が異なる、と思いこんだ存在に対して攻撃的なのが彼らの最大の特徴だ。判断基準を一つ以上持つのは無理なんだ。声高に自分の主張だけをくり返し、相手の人権を無視したり、人種にかこつけて否定したり……連中に悪意が存在するのなら、いっそ救われると思うよ。彼らは百メートルを十秒で走れないように、フリップ-フロップ回路やカルビン-ベンソン回路が理解できないように、ただ単純に能力が不足していて、他者の意見が理解できないだけだからね」

 村松氏は、ハァ、と大きくため息をついた。

「本当に、彼らの気持ちはよくわかる。恥ずかしい話、ぼくも若い頃にそういう時期があった。意識的に政治からは距離をおいていたけど、いざその手の話になれば自分の正しさを信じて疑わず、異なる主張の勢力を躊躇わず攻撃していた。政治に関してなら子供の頃から誰より身近で学んできたと……でも、ある時ふとなんの気の迷いかな、それまでまったく顧みることの無かった主張を、突然勉強してみたくなった」

「本当は、なにかきっかけがあったんじゃないですか?」

 俺が水を向けると、村松氏は照れくさそうに笑った。

「まぁ、それを語っていたのが研究所の同期の女の子で、かなり好みのタイプだった、ってだけなんだけどね。とにかく、先入観をぬぐい去って彼女の意見にじっくり耳を傾けてみると、それはそれで相応の理があった。なんてことはない出来事だが、当時のぼくには目から鱗でね」

 つくづく青かったなぁ、あの頃は。と冷酒をちびちび飲みながら、村松氏は楽しそうに回想した。

「それまでてっきり正反対だと信じ込んでいたイデオロギーに、案外共通点があったし、なにより着眼点のまったく異なる思想は新鮮で興味深かった。一度、その面白さを知ってしまったら、もう盲目的にこれまでの自分の正義なんて信じられなくなる。右から左、保守からリベラルまで、片っ端から本を読みあさったよ。しまいにはアフリカやミクロネシアの部族論なんかに手をだして……研究課題としていた類人猿の社会論は、ほぼそのまま現代の政治論に適用出来ると気づいた時に、実家の家業を継ごうと決めたのさ」

「もしかして、その女性が今の奥様とか?」

「いや、残念ながらそういう甘酸っぱい展開は待っていなかった。彼女は確かノルウェーの研究者と結婚して、今はフランスに……」

 俺の冷やかしに、村松氏は一瞬かなり本気で残念そうに顔をしかめる。

「要は、カレーが大好きだからといって、寿司を憎む必要はどこにもない。食べてみればどんな料理も大抵それなりには美味いのさ。きちんと勉強すれば、政治上の大概のイデオロギーには、どれもまっとうな理屈と価値があるのだと理解できる。そりゃ、今どの選択がよりベストかの判断は、現状評価の違いと、単なる好みで別れるだろう。しかしだからといって他の主張を悪し様に罵る必要はない。それは単に愚かなだけだ」

「とはいっても、そうしなければ選挙では勝てない」

「そうだ。それが民主主義という奴の本質さ。道理を理解できない人々に対しては、ネガティブキャンペーンがもっとも効果的だ。そんな下品で無意味な非難の応酬に疲れたから、ぼくは『ラクシャス』導入に前向きというわけだ。……これが先ほどの質問に対する改めての答えになる。納得してもらえたかな」

「承知しました」

 俺は大きく頷いた。

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