第43話 怒り

これで糸を切れということなのだろう。

小さな剣なのに、エルシャの手にはずしりと重かった。そっと剣を抜くと、刃には緊張した自分の顔が映った。


意識をすると、薬指から黄金の糸が伸びてくる。エルシャは糸にそっと刃先を添えた。


(これを切れば、薬が手に入る――)


どく、どく、と心臓が激しく鼓動を始める。


元よりエルシャにとっては伴侶の糸など大したものではなかった。伴侶だと言われても未だにピンと来ないし、これを切ったところで命を失うわけでもない。

オズヴァルドの命には代えられないはずだ。


(やるのよ、エルシャ)


ぐっと指先に力を込める。

鋭利な刃だ。軽く触れるだけでこの糸はぷつりと切れるはずだ。

それなのに。


……それなのに、手が動かないのは何故だろう。


「――――」


その理由に気付いたとき、震える手から力が抜けていく。

ナイフが手のひらから滑り落ち、カラン、と音を立てて床を跳ねる。黄金の糸はふっと掻き消えた。


「何の真似だ」

「…………できないわ」

「何?」

「糸は……切れない」


糸を切ろうとした瞬間、脳裏に浮かんだのは黄金の糸を愛おしげに眺めるオズヴァルドの姿だった。


たった一言の『嫌い』という言葉にあれほど傷ついた彼だ。もしもこの糸を失うことがあれば、彼はどれほど苦しむのだろうか。

彼の辛そうな顔は見たくない。そう思えば、この糸を切ることなどとてもできなかった。


「……ふうん」


アンブローズはすっかり興ざめした様子だった。

躊躇いなく小瓶を床に落とすと瓶は粉々に砕け散る。そこに追い討ちをかけるように靴底で踏み付けた。


「――!」

「貴女が貴重な機会を潰したんだ。愚かな伴侶のせいであいつは死ぬ。オズヴァルドも可哀想に」


アンブローズはそっと足を離す。

そこにはガラスの破片が飛び散り、青の液体が床を汚していた。

それを目の当たりにした途端、言い表しようのない不安がエルシャを襲った。


(私……選択を誤ったのかしら……?)


「そうだ。今、一つ思い出したんだが、貴女の父君を殺したのはこの私だ」

「……え……」


あまりにもさらりと語られた言葉に、一瞬、何を言われたのかわからなかった。


(殺した? この人が? ……父を?)


サアッと血の気が引いていく。

言葉の意味はわかっても頭が、感情が追いつかない。それなのに言葉が勝手に口をついで出た。


「貴方にとっては叔父……なんでしょう。それなのに、殺した……?」

「血族で殺し合いなどありふれた話だろう。貴女は随分平和な世界で生きてきたんだな」

「……理由を……教えて頂けますか」

「エルマン様はリンステッド侯爵家の次期当主。魔法も剣術も優秀で、敵も多いがそれと同じくらい人気もある。後ろ盾として申し分ない方だった。……当然、甥である私を支持してくれるものだと思っていた」


アンブローズはふぅと息を吐く。その整った顔に翳りが差した。


「それなのにまさか何の後ろ盾もない末の子供につくとは……とんだ誤算だった」


世間話をするような気安さでそう語り、綺麗な所作でステーキを切り分けていく。


「その上苦労してエルマン様を殺しても、エルマン様の入れ知恵もあってオズヴァルドは予想外にしぶとく生き残った。おかげで私は死にかけ、今日まで身を潜めて暮らす羽目になったんだ。はぁ。ここまで本当に長かったなぁ」


思い出話でもするかのような口調で、食事のついでのようにオズヴァルドは語る。

全てがアンマッチで、異様だった。


「それにしてもエルマン様の最期はつまらなかったよ。オズヴァルドを捕まえたから助けたければ一人で来いって言ったら本当にノコノコ現れるんだから。周到に仕掛けた罠だとは知らずにさ」


何かに気付いたようにアンブローズは唇の端を吊り上げる。


「待てよ。……ってことは、オズヴァルドがエルマン様を殺したってことになるのかな? 恩師の命と引き換えに生き残るのってどんな気持ちなんだろう。よくもまあ平然とその娘の前に立てるよな。きっと面の皮が厚いんだろうな。あはははっ!」


笑い声がダイニングルームに響く。

エルシャは黙り込んだまま、神妙な表情でアンブローズを見つめていた。


(この人のせいで、父と母は会えないまま亡くなったの……?)


ようやく理解が追い付いて、初めに湧いた感情は怒りだった。

ぶるぶると震える手のひらを握り締めて平静を保とうとしたが、とてもできそうにはなかった。


「そう睨むな。美しい顔が台無しだ」

「……私のことも殺す気ですか」

「そうだなぁ。貴女を私の妻にするといのも趣向として悪くないな」

「なに、言って……従兄妹なんでしょう」

「従兄妹同士の婚姻などそう珍しくもないさ」


穏やかな声で話していても、彼の言葉には悪意が滲んでいる。この男と少しでも同じ血が流れているかと思うと、とてつもなく嫌悪感を覚えた。


「間もなく私は王太子となり、やがて国王となる。そして貴女は王妃となるんだ。そしたらあいつはどんな顔をするだろうか。想像するだけで愉快だろう?」


アンブローズは綺麗に微笑む。


……もう、我慢の限界だった。


エルシャはテーブルに両手を付いて勢いよく立ち上がった。


「貴方、どれだけ人を侮辱すれば気が済むの……!」


ふつふつと湧き上がる怒りに呼応するように、エルシャの周囲でパチパチと電流が爆ぜる。


「いい加減にして!!」


その瞬間、周囲は光に包まれる。

雷撃がテーブルの上の料理を吹き飛ばしながらアンブローズに襲いかかった。


「……っ!」


凄まじい雷撃にアンブローズの視界が明滅し、全身を激しい痛みが襲う。

……しかし、それだけだった。

アンブローズはその攻撃を受け止めると、にやりと笑った。


「なかなかやるな。お返しだ」


その宣言とともにエルシャの視界が白に染まる。

次の瞬間エルシャの身体は地面に崩れ落ち、エルシャは気を失った。


「まさか私を攻撃するとは」


ガラス片で切ったのだろう。アンブローズの頬からつ、と血が垂れる。

アンブローズは横たわる娘に冷めた視線を送った。

娘の手は床に落ちた短剣に伸びかかっていた。気絶しなければあの短剣で反撃するつもりだったのだろう。……馬鹿な女だ。


「大人しくするならば従兄妹のよしみで優しく扱ってやるつもりだったが……残念だ」


アンブローズは外に待機していた騎士に指示を出す。


「この女を牢へ連れて行け」

「はっ!」


騎士達は気を失ったエルシャを運び出していく。

垂れた血を手の甲で乱暴に拭うと、アンブローズは唇を吊り上げた。


「……待っていろ、オズヴァルド」

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