第33話 来訪者1

ノックのあとに執務室の扉が開く。

オズヴァルドは書き物をする手を止め、顔を上げた。


「殿下。お元気でしたか」

「……ハワードか」


そこに現れたのは眼鏡の男だった。年齢は三十代前半だろうか。『人が良さそう』という言葉がしっくりくる、穏やかな雰囲気のある人だ。

男の姿を認めると、無表情に近かったオズヴァルドの表情が少しだけ緩んだ。


「会うのは半年ぶりか。身体は……前より良くなったみたいだな」

「ええ。お陰様で」


オズヴァルドはハワードの足元に視線を向ける。その手には杖が握られていた。


この男、ハワード・オルコットはオズヴァルドが王太子の座に就いた頃からオズヴァルドの補佐官を務めてきた人物だ。

しかし半年前に事故に遭い、身体に障害が残り、補佐官の座を退くこととなったのだ。


「……なんだ、思ったよりも元気そうじゃないか。王宮にいた頃よりもイキイキして見えるぞ。私の補佐をするのがよほどストレスだったと見える」

「ははははは。まさかそんな。殿下をお支えできなくて本当に残念に思っておりますよ」

「白々しいな」

「いやいや本心ですよ」


そう言いつつもハワードは笑みを隠し切れていない。この半年間、悠々自適な生活を送ってきたのは間違いなさそうだ。


「全く……。……とりあえず、座れ」


ハワードは応接用の机に杖を立て掛け、椅子に座る。オズヴァルドも向かいの席に座った。


「殿下、そういえば聞きましたよ。『伴侶』を見つけたそうですね。おめでとうございます! 殿下を長年見守ってきた身としては、いつご結婚なさるかとやきもきしていたのですが……」


ハワードとしては惚気話の一つでも引き出そうと話し始めたことだった。しかし途中でオズヴァルドが浮かない顔をしていることに気付き、口を噤む。


(あれ? 嬉しくないのだろうか……)


伴侶と巡り会うことは獣人にとってこの上ない幸福であり奇跡だ。

それなのにそれほど嬉しげに見えないのはなぜだろう。


「ハワード。お前は恋愛結婚だったよな」

「ええ。そうですが」

「どうやって相手を惚れさせたんだ?」

「…………はい?」


ハワードは唐突な問いかけに目を丸くした。


「殿下にはテクニックなど不要でしょう。そのご尊顔で落とせぬ相手などおりませんよ」

「……」


求めていた回答ではなかったようだ。オズヴァルドは微妙な顔をしている。

その顔を見て、ハワードは瞬時に察した。


(まさか……伴侶とうまくいってないのか!? この顔に落ちないなんて相手はどんなツワモノなんだ……!?)


妻子持ちのハワードですらあの綺麗な顔には時折ドキリとしてしまうというのに。

彼の伴侶は恋愛経験豊富なやり手なのだろうか。はたまた、相当な変わり者なのだろうか。


「ええと……そうですね。一番大切なのは相手を思いやることじゃないでしょうか」

「相手を思いやる……」

「伴侶である以前に人と人ですからね。信頼関係を築くことは欠かせませんよ」

「ふむ……やはりいきなり激しめのキスをするのはよくなかったか。だから最近目を合わせてくれないんだな」

「はい? 何か言いました?」


オズヴァルドは黙り込み、何やら思案に耽っている。もはやハワードの言葉も聞こえていないようだ。


(殿下がこんなに誰かのことを考えるなんて……。余程その伴侶のことが好きなんだな)


こんなことを言ったら不敬だろうが、オズヴァルドは元々他人の感情に無頓着な人だった。

何せ、幼い頃から政争に巻き込まれ命の危機に晒されてきた人だ。研ぎ澄まされた剣のように無駄な感情を削ぎ落とした、ある意味子供らしくない子供だった。


(殿下も、初めて会ったときから随分変わったなぁ)


ハワードがオズヴァルドに出会ったのは二十歳のときだった。元々学者を目指して勉強をしていたハワードだったが、ある時王太子の補佐官として抜擢されたのだ。


……いや、抜擢と言うと聞こえはいいが、実際は単に人手不足だっただけだ。


当時はオズヴァルドが王太子の座に就いた直後で、亡き兄達を支持していた数々の家門が粛清されていった。そのせいで王宮は深刻な人材不足に陥り、どういうわけか、政治に何の影響力もない地方貴族の次男坊である自分が引きずり出される羽目になったのだ。


当然、ハワードにとっては晴天の霹靂だった。兄弟全員を殺めたと悪名高い王太子の補佐官になれだなんて、死刑宣告も同然だ。


『お父様、今何と……? 私が王太子殿下の補佐官? ……な、何かの間違いですよね?』

『間違いではない。私にも訳がわからないが、王太子殿下直々のご指名なんだ』

『嫌です! まだ死にたくないです!!』

『息子よ。向こうに行ってもお前のことは忘れないよ』

『向こうってあの世のことですよね!? 息子を死地に送るつもりですか!?』

『すまん!!』


父は咽び泣くハワードを毛布でぐるぐる巻きにして馬車に押し込み、無理やり王都へと送り出した。


そして辿り着いた王宮でハワードが出会ったのは、研ぎ澄まされた刃のように怜悧で美しい少年だった。

彼を一目見た途端その存在感に圧倒され、息をするのを忘れた。


『お前がハワードか』

『……。あっ、は、ハイ! 私はハワード・オルコットと申し……』

『挨拶はいい。やることが山積みなんだ。今すぐ仕事にかかれ』

『えっ?』

『……何を突っ立っている?』

『あ……。すぐに仕事に取りかかります!』


この日からハワードはオズヴァルドの補佐官として働くことになった。そして彼に散々こき使われるうちに、彼の人となりもわかってきた。


オズヴァルド・ルスローレルという人物は敵には冷酷だが、決して暴君ではない。むしろ普段の彼は恐ろしいほどに理性的で、他人の感情にも自身の感情にも関心がないように見えた。

一言で言えば為政者の器なのだろう。


とはいえ、平凡で平穏な人生を送ってきたハワードにとって、そんなオズヴァルドの姿は少し危うげに見えた。

素直に感情を晒せる相手がいないというのはあまりに孤独だ。今は平気でも、いつか耐え切れなくなってしまうのではないか――そう思わずにはいられなかった。


そんな考えを持ったのは、ハワードが妻を持ち、娘にも恵まれたからだ。家族の存在はハワードにとって人生の拠り所だったのだ。


だからこそ、オズヴァルドにも同じ目線で物事を見つめ、支えてくれる人がいればどんなにいいかと思った。

王太子としてではなく、彼を一人の人間として見てくれるような相手と巡り会えれば、と。


(……なんてことをぼんやりと考えていたが……)


ハワードは正面のオズヴァルドを眺めた。

眉一つ動かさずに処刑の命を下すような人が、一人の女性を想ってあんなにも頭を悩ませている。長い付き合いの中でも見たことのない姿だ。


(……本当に、巡り会えたんだな)


感慨に浸っていると、紫の瞳が動いて、こちらをじろりと睨んだ。


「……何をニヤニヤしている」

「ニヤニヤなんてしておりません」

「しているだろう。何か言いたいことでもあるのか」

「いえいえ。何でもありませんよ〜」

「やっぱり怪しいな」


オズヴァルドがさらに追求をしようとしたとき、扉がノックされる。

二人が振り向くと同時に扉が開き、執務室に一人の男が入ってきた。

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