第23話 黒い獣
「エルシャ様。昼食は……」
「いらない」
「殿下がお待ちになっていますが」
「行かないわ」
「ですが……」
「悪いけど、一人にしてほしいの」
エルシャはシーツを頭から被ったまま、ベッドから出ようともしない。そんな様子を見て、ルネとレーナは顔を見合わせた。
「……それでは、何かあればお申し付けください」
扉が閉ざされ、沈黙が広い部屋を包み込む。エルシャはのそっと上体を起こし、誰もいない部屋をぼんやりと眺めた。
「はぁ……」
鏡に映る自分は酷い顔をしていた。目元は赤く腫れている。こんなに泣いたのは生まれて初めてだ。
「シアン……」
エルシャはそっと膝を抱いた。
(どうして私を置いていったの?)
鈍感な自分に愛想を尽かしてしまったのだろうか。それとも、自分に関わったせいで命の危機に瀕したから?
「せめて理由くらい教えてよ……」
言ってくれなければ何もわからない。だって、彼の気持ちに少しも気付けないような人間なのだから。
鏡に映る自分の首元にはもう噛み跡は残っていなかった。こうやって、彼がそばにいた痕跡まで消え去ってしまうのだ。
大きな喪失感がエルシャを包み込み、また涙を流した。
「殿下。……殿下。聞いてらっしゃいますか?」
「……ん、なんだ」
「エルシャ様の侍女が先程からお待ちですよ」
ラフルの言葉にオズヴァルドはようやく顔を上げる。広いダイニングルームに二人の侍女が立っているのを確認して、オズヴァルドは口を開いた。
「エルシャは?」
「部屋でお休みになるそうです」
「そうか……」
並べられた食事には手をつけず、オズヴァルドは席を立つ。
無表情のまま外へと向かうが、その途中でゴンッ! と柱に顔面を打ち付けた。
「で、殿下!!」
「……」
ラフルがすっ飛んでくるが、オズヴァルドは真顔のまま何事もなかったかのように再び歩き出し、部屋を後にした。
「……」
その光景を目の当たりにしたルネとレーナは不安げに顔を見合わせる。
「殿下も重症ですね」
「お二人に何があったのかしら……」
***
「ん……」
エルシャは暗い部屋の中でそっと起き上がる。
時計を確認すると真夜中だった。どうやら泣き疲れて眠っていたらしい。
「喉かわいた……」
朝から水すら飲んでいないせいか喉がカラカラだった。しかし、こんな時間にルネとレーナを呼ぶのも悪い気がする。
(厨房に行けば水をもらえるかしら)
ショールを羽織り扉へと向かう。その途中、机の上に放置された首飾りが目が留まる。
大ぶりな紫色の宝石が月光を受けてきらりと輝く。
「あ……」
その色はオズヴァルドの瞳を連想させた。
シアンが傷付けられる姿を目の当たりにしたときは激しい怒りを覚えたはずなのに、不思議と今はオズヴァルドに対して何の感情も湧かなくなっていた。
(最後に会ったとき、オズヴァルドはどんな顔してたかしら……)
思い出せない。だが疲れ切っていて、それ以上考える気にもなれなかった。
首飾りから目を背け、エルシャはそっと部屋を後にした。
長い廊下を一人歩く。
一人くらいは使用人とすれ違うかと思ったが、意外にも誰とも遭遇しなかった。
しんと静まり返った廊下をエルシャは進んでいった。
「寒い……」
エルシャはそっと手のひらを擦り合わせる。
夜は冷える。もっと厚手のものを着込むべきだった。
「それにしても、……迷ったかも」
案内してもらったことがあるからと油断していたが、こんなに広い宮殿を一人で歩くのは初めてだ。初めから人を呼んだ方がよかったかもしれない。
はぁ、と溜め息を吐く。そしてその息が白いことに気付いてエルシャは我に返る。
「……ん?」
周囲に冷気が漂っている。この感じ、以前もどこかで……。
「えっ!?」
ふと周囲に目を向け――エルシャは己の目を疑った。
長い廊下の途中から、床や天井、窓、柱、カーテン……ありとあらゆるものが凍り付いているのだ。
長い廊下の突き当りには大きな扉がある。
微かに開いた扉の隙間からは冷気が漏れ出ていた。
(なに、あれ……)
何か大変なことが起きているのではないか。
どうしても気になって、エルシャは氷の道を進んでいった。
扉の前に立つと足元でパキリという音がした。何か黒く輝くものが落ちている。
「……鱗?」
そんなものがここに落ちているはずはない。エルシャは扉に視線を戻した。
(中には何があるのかしら……)
扉を開くと冷気が一気に流れ込んできてエルシャは身震いした。中は暗くてよく見えなかったが、壁に触れるとひんやりとした感触が伝わる。この部屋も氷で覆われているのだろう。
そのとき、暗闇の中から低い声が響いた。
「誰だ」
(この声って……)
「誰も部屋に近付くなと伝えたはずだ。一体――」
「オズヴァルド?」
一瞬の間。
そののちに、闇の中から動揺が伝わってきた。
「エルシャ?」
「ねえ、この部屋はどうしたの? 何が……」
「来ないでくれ」
「え?」
酷く焦ったような声だ。いつも余裕のある彼らしくない。
少しすると目が暗闇に慣れてきて部屋全体を何となく見渡すことができた。部屋の奥、ソファーの上に人影がある。
「オズヴァルド、この氷って……」
「来ないでくれ!」
オズヴァルドが短く叫ぶ。
そのとき月にかかった雲が切れ、月光が眩しいほどに部屋を照らした。大きな月を背に、歪なシルエットが浮かび上がる。
「……えっ?」
エルシャは呆然とした。
そこにいたのは正しくオズヴァルドだった。だが、エルシャの知るオズヴァルドではなかったのだ。
(あれは……『何』?)
頭上には黒いツノのようなものが生え、蒼白なほど白い肌を黒い鱗がまばらに覆っている。そして、鋭いその瞳。神秘的な紫色はそのままだが、蛇のような縦長の瞳孔をしている。
その姿はまるで――
「ドラゴン……?」
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