第22話 ほのかな熱

暗くなった部屋の中、シアンは隣に視線をやった。二人がけのソファーでエルシャはすやすやと寝息を立てて眠っている。


シアンは一人、オズヴァルドの言葉を反芻していた。


『考えてもみろ。私は彼女に全てを与えられる。花冠などではなく本物の冠を――彼女をこの国で一番高貴な女性にしてやれるんだ』


『それに引き換えお前は何を持っている? 彼女に何を与えられる? 何物でもない今のお前を選ぶはずがないだろう』


「俺は……」


あの男の言う通りだ。今の自分が彼女に与えられるものなどたかが知れている。悔しいが、今の自分ではあの男に勝るものなどない。その事実を受け入れなければならない。


それに、エルシャが共に逃げようと言ってくれたのはあくまで自分を友達として見ているから言えたことだ。異性として自分を選んでくれたわけではない。そこを勘違いしてはいけない。


「……エルシャ」


あどけない寝顔だ。シアンは小さく笑ってその頬を優しく撫でた。

いつまでも名残惜しそうにその顔を眺めていたが――やがて静かに席を立った。




「ん……」


冷たい風が頬を撫でて、シルクは薄く瞼を開いた。

どれほどの時間が経ったのだろう。部屋は薄暗くなっていた。


(私、寝てた?)


目を擦り、辺りを見渡す。

開け放たれた窓から夜風が吹き込み、カーテンが揺れている。

その向こう、バルコニーには見覚えのある後ろ姿が見えた。


「シアン?」


そう呼びかけるとその身体はびくりと揺れる。そして、ゆっくりとこちらを振り返る。

そのときシアンがバルコニーから半分身を乗り出していることに気付き、エルシャはどきりとした。


「どこかに行くつもり? まだ怪我が治ってないでしょう。じっとしてなきゃ」


そう言いながら、エルシャはバルコニーに近付いていく。しかしシアンは何も答えない。

月光に照らされた彼はどこか儚げで今にも消えてしまいそうだった。

彼の様子がいつもとは違って見えて、胸がざわめいた。


「ね、シアン。こっちに来て……」

「……エルシャ。ごめんなさい。一緒に逃げるわけにはいきません」

「どう、して……?」


シアンは寂しげに笑った。


「今の俺じゃ、貴女の隣にはいられないから」


そう言うと、シアンはこちらに背を向ける。そして再び手すりから身を乗り出す。


「待って!!」


背後からぎゅうと抱き締められる感覚にシアンは動きを止める。背中越しに震える声が聞こえた。


「私を置いていかないで」

「エルシャ……」

「私を一人にしないで……!」


切実なその声に、シアンの顔に迷いがよぎる。背中から感じる小さなぬくもりが愛おしくてたまらない。

しかし、ぐっと唇を噛むと、縋り付く細い腕をそっと引き剥がした。

そしてシアンは背後を振り返った。


「エルシャは一人じゃないでしょう?」

「ううん、私は……」

「ここには頼れる人達がいるはずです。少なくとも今は、ここがエルシャにとっては一番安全なはずですから」

「でも……」


赤い瞳に涙が滲んでいくのを、シアンは心底愛おしそうに見つめた。


「エルシャ。これまで伝えられなかったことがあります。聞いてくれますか?」

「……なに?」

「貴方が好きです。エルシャ」


エルシャが反応するよりも前に二人の距離はゼロになり、触れるだけの口付けをした。


(えっ……?)


唇にほのかな熱を残し、彼の顔が離れていく。

シアンはさっと欄干に飛び乗ると、寂しげな微笑みを浮かべた。


「さようなら、エルシャ」


そう告げて、彼は夜闇の向こうに消えていった。




夜風に攫われて長い髪が揺れる。

エルシャは口元を手で覆うと、その場にしゃがみ込んだ。


「…………嘘」


彼の纏う花のような香りがまだ残っている。

涙が溢れ出し、ぽろぽろとこぼれ落ちた。


大切な人の本心にも気付けない自分の愚かさを恨みながら、今はただ涙を流すことしかできなかった。



***



(これでよかったんだ……)


シアンは一人、駆け足で庭園を抜けていった。

本当はさよならではなく待っていて欲しいと言いたかった。だけど言えなかった。

自分が生きて戻れる保証はどこにもない。守れない約束で彼女を縛りたくはなかった。

それでも自分の想いだけは伝えておきたかった。最後になるかもしれないのだから、そのくらいの我儘は許されるはずだ。


「やっぱ開いてないか……」


王宮の外へと続く門はしっかりと施錠されていた。門を飛び越えようとしたところで低い声が響く。


「どこへ行く」

「!」


その声に、シアンは弾かれたように背後を振り返る。まるで気配がしなかった。


夜闇の中には人間離れした美貌の男が立っていた。

怜悧な眼差しにぞくりと肌が粟立つ。しかし、先程までの凄まじい殺気は感じられなかった。


「……王太子殿下」

「あんな大口叩いておいて一人で逃げ帰るのか? まあ、哀れでお前には似合いの姿だがな」


あからさまな挑発だった。だがシアンはそれには反応せず、静かに視線を返した。


「逃げるわけじゃありません。すべきことを果たしてくるだけです。……エルシャの隣に立てるように」

「ふぅん。まあ、お前が何をしようと私には関係のない話だが」

「ですので、それまでエルシャを頼みます」


その言葉にオズヴァルドは軽く目を見開く。その後でつ、と目を細めた。


「……誰にものを言っている?」


オズヴァルドの身体から冷気が漂う。周囲の温度が急落したような気がした。


「彼女は私の伴侶だ。私が気にかけるのは当然だろう」

「あーもう、絶対そういうこと言うと思ってましたよ! 俺だってこんな頼み事するのは癪なんです!」


シアンは周辺を漂う冷気をしっし、と払った。


「それでも好きな人をライバルに託す俺の意を汲んでくださいよね!」

「別にお前ごときがライバルだとは思っていないが」

「いちいち嫌味な人ですね!?」


オズヴァルドは腕を組むと思案顔になった。


「……まあ確かに、辺りをうろつく目障りな犬が自分から消えてくれると言うのだから、こちらとしては大歓迎だがな」


やけに優雅なその立ち姿が妙に鼻につき、シアンはむっとした顔になった。


「あのですね。言っておきますけど俺は犬じゃなくてキツネです」

「よく吠える犬だな」

「殿下!!」


そのとき、固く閉ざされていた門が大きな音を立てながらひとりでに開いていく。それがオズヴァルドの魔法によるものだと気付き、シアンは瞠目した。


「行くならさっさと行け。エルシャの頼みだから特別に生かしてやったんだ。気が変わらないうちに失せろ」


シアンは唖然としてオズヴァルドを見つめていたが、やがて何かに気付いたように真剣な顔になった。


「もしかしてですけど。殿下……何か落ち込んでます? もしかして、エルシャに言われたことがよっぽどショックだったとか? 案外繊細なんですねぇ」

「気が変わった。今ここで……」

「出ます! さっさと出ていきますから!」


シアンはダッシュで門の外に飛び出した。

それと同時に勢いよく門が閉まる。あわよくば挟んでやろうという魂胆が感じられて、シアンは冷や汗を流した。


(もしかしてこの人、中身は案外子どもっぽかったりする……?)


「まだそこに居たのか」

「そんなに急かさないでも行きますから! さようなら!」


また何か攻撃をされないうちにシアンは王宮に背を向けて歩き出した。

月光が進む道を明るく照らしている。

それを見ていると、思ったよりも前向きな気分になっている自分に気付いた。


(待っててくださいね。エルシャ)


必ず彼女に相応しい姿になって、再びここに戻ってこよう。

そう決意を固めながら、シアンは確かな足取りで石畳の道を進んでいったのだった。

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