第20話 傷跡
シアンをソファーに座らせると、エルシャはその隣に座った。
部屋にいるのはシアンとエルシャの二人だけ。真剣な顔で額の怪我を処置するエルシャを眺めながら、シアンはぽつりと呟いた。
「……ごめんなさい」
「どうして貴方が謝るの?」
「俺のせいでエルシャに迷惑をかけました」
「シアンのせいじゃないわ。それに、どんな理由があれ他人を殺そうとするなんて……信じられない」
エルシャは憤慨した様子でぐりぐりと薬を塗り込める。力を込めすぎてシアンが呻き声を上げるのに気付き、慌てて力を緩めた。
「……そうですね。俺も同感です。人殺しなんてとてもできない。だけど、殿下のような感覚がないと人の上には立てないんでしょうね」
額にガーゼを貼り終え、エルシャの手が一度離れる。シアンは神妙な顔で口を開いた。
「さっき青い髪の男がいたでしょう。あれが俺の父親なんです。名前はマーク・カドリップ。この国に三つしかない公爵家、カドリップ公爵家の当主であり、俺はその一人息子なんです」
「……シアン、貴方、もしかして結構いいところの子?」
「そう見えないですか」
「うん」
素直な言葉にシアンはぷっと吹き出した。
「見えないですか〜。まあ実際、堅苦しいことはあまり好きじゃなかったんです。勉強よりも外で遊ぶ方が好きだったし、しょっちゅう屋敷を抜け出しては怒られていましたから」
「やんちゃだったのね」
「それでも父のことは尊敬していましたし、この家の後継者として立派な人間になるんだと意気込んでいました。……十五歳になるまでは」
暗くなった声のトーンにエルシャは何か不穏なものを感じ取る。
「……何か、あったの?」
「この国の貴族家では、後継者として認められるには己の能力を示す必要があるんです。獣人社会は基本的に実力主義ですからね。後継者の座を狙う人は大勢います。血筋も大切ではありますが、一人息子だからと言ってそう簡単に後を継げるわけではないんです」
「つまり、勉強をサボったからシアンは後継者になれなかったってこと?」
エルシャの言葉にシアンはふふっと笑う。そしてゆるゆると首を振った。
「いえ。そうではなくて……『実力を示す』というのはいわば決闘のようなものなんですよね」
「決闘!?」
「ええ。基本的には魔法による決闘になります。それで一方が命を落とすなんてのはよくあることです」
エルシャは絶句した。
(つまり、殺し合いをしなきゃいけないってこと!?)
想像するだけで恐ろしい。そして、そんな立場に置かれたシアンのことが気がかりになった。
「十五歳のとき、俺は初めて決闘を申し込まれたんです」
相手は三つ年上の従兄弟だった。かつては兄と慕った人だった。
そのときのシアンは深く考えることなくその戦いに臨んだ。しかし、当時のシアンは対人の魔法の扱いに慣れておらず、加減を誤った一撃で従兄弟はその場に崩れ落ちた。
『……兄さん?』
彼は苦しげな顔で脚を押さえて蹲った。やがて足元には赤い液体が流れ出し、地面を汚していった。どう考えても重症だった。
「彼は立ち上がることもできずにいるのに、それでも戦いを止めるなと怒鳴ってくるんです。酷い出血なのに。その光景は異様で、怖くなって――俺は棄権をしました。……結局、その決闘は無効になったんですけど」
後日、車椅子に運ばれる従兄弟に会った。
優しかった従兄弟はこちらを見ると「卑怯者」と吐き捨てた。
その出来事はシアンの心に大きな傷跡をもたらした。この手で人を殺すかもしれないという恐怖が心を苛んだ。
……それ以来、シアンは決闘の場から徹底的に逃げ続けるようになった。
「兄弟のいない俺に従兄弟や叔父さん達は優しくしてくれました。それなのに……そんな彼らを殺す覚悟なんて、俺にはできませんでした」
それまで取り組んでいた魔法や座学の勉強をやめ、後継者の座には興味がないことをアピールするようになった。
それでも父親は一人息子が後継者になることを強く望んでおり、シアンが最も有力な候補ということには変わりがなかった。
全てを曖昧にしたまま、あっという間に数年が過ぎていった。
「……ですがつい先日、従兄弟に再び決闘を挑まれたんです」
あのときの決闘は無効になってしまったから、今度こそ決着を付けようと彼は申し出た。シアンはのらりくらりと躱し続けてきたが、とうとう断れない状況になってしまった。
そうして決闘当日――従兄弟は本気で戦いに挑んできた。数年経った今でも片足を引き摺ったまま。
互いに魔法の能力は数年前より成長している。勝負はかなりの接戦となった。それでも、シアンは戦いの中に勝機を見出した。
この一撃で勝つことができる――
そう、勝利は目前だった。
それなのに、不意にあの日のことがフラッシュバックして動けなくなってしまった――
「俺は彼を攻撃することができずにボロボロになりました。反撃をしない俺を見て、従兄弟はまた『卑怯者』と怒鳴りました。それでも戦うことなんてできなくて、俺はその場から逃げ出したんです。どこまでも逃げて逃げて逃げて――気が付いたら隣の国まで来ていました。そこで貴女に出会ったんです。エルシャ」
「そう……だったの……」
初めて窓辺に現れた青いキツネは怪我だらけで今にも息絶えてしまいそうだった。
あれは、その決闘で付けられた傷だったのだ。
(そんな理由だったのね……)
シアンの顔が翳る。
「俺は従兄弟が言う通り卑怯者なんです。だけど、人を傷つけてまで公爵位に就きたいわけじゃなかった。俺にとって後継者の地位が大切なものだとは到底思えなかったんです」
「……シアンは優しいのね」
「いいえ。ただ臆病なだけですよ。しかもまた従兄弟との戦いの場から逃げ出した。彼は本気で挑んできたのに、俺はそれを二度も踏みにじったんです……」
沈痛な面持ちでそう告げると、シアンは俯いた。
エルシャは労るようにその背をトントンと撫でた。
「……人を殺すなんて、想像するだけで恐ろしいことよ。私が同じ立場でもきっと逃げ出していたわ」
「いえ。後継者争いに命をかけるのはこの国ではありふれた話ですよ。殿下だって六人の兄弟を殺して王太子の位に就いたくらいですから」
「兄弟を……殺した?」
「え。知らなかったんですか。有名な話ですよ。先の後継者争いは本当に苛烈でしたからね。殿下が王太子になってようやくこの国も落ち着きましたけど」
「そう、なのね……」
確かに、先程のオズヴァルドは人を攻撃することに躊躇がないように見えた。兄弟を殺したことがあるというのなら、あの態度にも合点がいく。
(じゃあ、私がこれまで見てきたオズヴァルドは全部嘘だったの……?)
愛しい人を見るような眼差しも、囁く甘い言葉も、彼が見せた優しさは全てまやかしだったのだろうか。
もう、オズヴァルドのことがわからなかった。
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