第15話 不毛な恋

エルシャは真っ赤な顔でシアンを見上げた。するとやけに真剣な瞳とぶつかった。


「エルシャがここにいるのはあいつの伴侶だからでしょう。でも、それって本当にエルシャ自身の意思なんですか」

「それ、は……」

「エルシャはあの男が好きなんですか」


エルシャは瞠目する。

自分でも考えていたことを真正面から突きつけられたのは初めてだった。

エルシャはそっと目を伏せた。


「……正直まだよくわからないの」

「わからない?」

「私は人と関わらずに生きてきたから、そういう感情に疎いのかもしれないわ。『好き』がよくわからないの……」

「……そっか。よかった」

「『よかった』?」

「この場所にいるのが貴女の意思じゃなくて本当によかった」


シアンはエルシャの所在なげな左手の、薬指をじっと見つめた。


「……エルシャ。俺は運命なんて信じません。だからエルシャが何か決断をするとき、それは必ずエルシャの意思であって欲しいんです」


青空のような澄んだ瞳がエルシャを射抜く。


「だからもしも、エルシャがここに居たくないのなら――また俺と一緒に逃げましょう」


そう言ってシアンは手を差し伸べた。あの日教会で、燃え盛る炎の中から救ってくれたときのように。


「……私は……」


……私の意思。


それは、エルシャにとっては最も難解なものたった。生まれてこの方自分の意志を尋ねられたことなんてなかった。

最近少しずつ自分の気持ちについて考えるようになったとはいえ、長年染み付いた癖はそう簡単には消えてくれないらしい。

今だって、こうして答えられずにいる。


黙ってしまったエルシャを見てシアンは寂しげに笑う。そしてそっと手を引っ込めた。


「返事はいつでも構いません。俺はそろそろ戻りますね。おやすみ、エルシャ」


それだけを言い残し、シアンはバルコニーの欄干を飛び込えて夜闇の中に消えていった。


「シアン……」


下を見下ろしても、既にシアンの姿は見当たらなかった。


首筋にはまだ痛みが残っている。そっと触れるとそこは微かに熱を帯びていた。

もうとっくに酔いは覚めていたのに、夜風は熱を攫ってはくれなかった。



***



薔薇の生垣を抜けると噴水が現れる。

周囲に誰の気配もしないのを確認してから噴水の縁に腰掛け、シアンは深々と息を吐いた。


エルシャの羞恥と戸惑いの入り混じった顔を思い出し、後悔の念に襲われる。シアンは乱暴に髪を掻きむしった。


「まさか俺があんなことしちゃうなんて……」


種族にもよるが、獣人の鼻は匂いに敏感だ。特にマーキングに関しては。

バルコニーに来たときからあの匂いについては気付いていた。それでも指摘をするつもりはなかったのに、自分は彼女にとってただの友達でしかないという事実を突きつけられて心が抉られるようだった。

その上、あの男を意識する姿を目の当たりにして無性に苛立ちを覚え、自分でも驚くくらい衝動的になってしまった。


「……怖がらせちゃったかな……」


かつて、鳥籠なような部屋にいた彼女は人形みたいだった。美しいけれど、感情のよく見えない作り物。

彼女の元に花を届け始めたのは命を助けてくれたお礼だった。しかし、会いにいく度に自分を見る表情が柔らかくなっていくのが嬉しくて、いつからか「お礼」は口実になっていった。


二人で外に飛び出してからは時折笑顔も見せるようになった。

抑圧されてきた分、これからもっといろんな表情を見せてくれるだろう。そんな彼女を一番近くで見守るのは自分だと思っていた。


だからこそ、自分以外の誰かがエルシャにあんな顔をさせているという事実が耐え難かった。まるで、彼女を奪われるみたいで。


そこまで考えたところではたと気付く。こんな感情、ただの友達に向けるには重すぎる。


「そっか……俺、エルシャのことが好きなんだ……」


つまり、一連の行動は子供じみた嫉妬心からきたものだったのだ。そう自覚するとどうしようもなく恥ずかしくなって、シアンは両手で顔を覆った。


「ああああもう、今頃気付くなんて!」


エルシャにあの男が好きかなんて尋ねている場合ではなかった。自分の感情にも気付かない奴が、どの口でものを言っていたのだろう。


「……はぁ……」


そろりと手を下ろし、庭園の向こうにどんと構える宮殿を見上げる。

意識すらされていない上に恋敵は運命の『伴侶』。それも、この国の王太子ときた。


「どう考えても勝ち目がないだろ……」


不毛な恋をしてしまったことを悟り、シアン再び頭を抱えたのだった。

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