第14話 痕跡

(ちょっと夜風に当たろう……)


頬の火照りを冷まそうとバルコニーに出る。冷たい空気に触れると頭もすっきりしていくようだ。ふぅ、と深呼吸したとき、何か赤いものが落ちてきた。


「……花びら?」


手のひらに落ちたのは赤い花弁だった。庭園の花びらが舞い込んできたのだろうか。そう思う間にもまたどこかから花びらが降ってくる。


(……? 庭園からじゃないわ。これ、一体どこから……)


そのとき強風が吹き付けてエルシャは思わず目を閉じる。そのとき、風の音に混じって聞き覚えのある声がした。


「エルシャ」


その声にゆっくりと瞼を押し上げる。

はらはらと舞い落ちる花びらの中、欄干には一人の青年が座っていた。こちらを見つめる青空のような瞳と目が合う。


「シアン!?」


シアンは悪戯に成功した子供のように笑うとバルコニーに降り立つ。そして「やっと会えましたね」と呟いた。


「急に出てきたからびっくりしたわ。これまでどこにいたの?」

「すみません。今日一日エルシャの侍女に探し回られてて、なかなかエルシャの元に近付けなかったんです」


シアンはポケットからハンカチを取り出し、エルシャに差し出す。中には数枚のクッキーが包まれていた。

以前も食べたことがある、シアン手作りのクッキーだ。


「あまりご飯を食べてないって聞きましたよ。なので作ってきました」

「どこで作ったの?」

「料理長に化けて厨房に侵入しちゃいました!」


(侵入……)


シアンはエルシャの知らないところでも自由にやっているようだ。


「ところで、化ける、って……他人に変身できるってこと?」

「キツネなので。まあ、長時間はできませんけど」


そう言うとシアンの姿は揺らぎ、変化していく。


「えっ!」


次の瞬間には、見覚えのあるプラチナブロンドの少女が目の前に立っていた。こちらを見つめる赤い瞳も、表情の薄いその顔も、毎日鏡で見ているエルシャそのものだ。


「わ、私……!?」

「エルシャでぇす♡」


鈴を転がすような声でそう言うと『エルシャ』はにっこりと笑う。見慣れぬ自分の姿にエルシャは戸惑った。


(私、笑ったらこんな感じなのね……)


この姿がよほど気に入ったのか、偽エルシャはクネクネと身をよじって愛嬌を振りまいている。

だんだんエスカレートしていくその振る舞いに、戸惑いを通り過ぎてエルシャは神妙な顔になっていった。


「……シアン。私、そんなんじゃないわ」


じとっとした目を向ければシアンはビクッと身を揺らした。そして渋々元の姿に戻った。


「そんなに怒らないでくださいよ〜」

「別に、怒ってない……」

「怒ってるじゃないですか。機嫌直してくださいよ」


シアンはエルシャの口にクッキーを押し込む。エルシャは文句の一つくらい言いたかったが、口に物を入れたまま話すのは行儀がよくない。そう思ってむっとした顔のままクッキーを咀嚼し続けた。

それを見たシアンが「ハムスターみたい」と呟くのを聞いて、エルシャはまたシアンをじろりと睨んだ。


(……でも本当においしいのよね、このクッキー)


ここの食事は中々喉を通らなかったのに、シアンの作るものは平気で食べてしまえるから不思議だ。

そもそも、シアンとの付き合いもそれほど長くはないのに、側に居るとこんなに安心できるのはなぜだろう。


(大切な友達だから、かしら?)


ごくり、と飲み込んでシアンの顔を見つめる。さすがに悪いと思ったのか、シアンは「まだ怒ってます?」と不安げな顔をした。


「……ありがとう」

「え?」

「クッキーをくれたことも。私の側にいてくれることも。全部」


エルシャはにこりと笑う。きっとシアンみたいに上手には笑えていないけれど、前よりはずっとマシになったはずだ。

そう思ってシアンの反応を待っていると、シアンは何故か顔を赤くして目を逸らした。


「そう……ですか。喜んでくれてよかったです」

「ええ。貴方はかけがえのない友達だわ」


その言葉にシアンはぴくりと反応を示す。

それまで穏やかな顔をしていたシアンだったが、次第にその顔から表情が消えていった。


「…………友達、ですか」

「シアン?」


エルシャとしては精一杯言葉を尽くして感謝を伝えたつもりだった。それなのに、何か間違えてしまったのだろうか。


「シアン。私、何か気に障るようなことした?」

「いえ……」


そう答えるシアンはどこかそっけない。その様子にエルシャは戸惑いを覚えた。


「怒らせたのなら謝るわ。だから正直に言って? 貴方とはずっと友達でいたいから、貴方の気持ちを教えてほしいの……」

「……本気で言ってるんですか」

「ええ。お願い」

「……」


シアンは少し黙った。

そして、再び口を開いた。


「じゃあ言いますけど、さっきからその匂いが不快なんです」

「匂い?」


(お風呂には入ったのに……。それともお酒臭かったかしら?)


エルシャは服を嗅いでみたが特に匂いはしなかった。何のことだろうと頭を悩ませるうちに、シアンの手が伸びてきてエルシャの顔に触れた。


「……えっ?」


指先は何かを確かめるようにまぶたや頬をするすると撫でていく。


「な、なに……? くすぐったいわ」


そのうちにシアンの顔がすっと近付いてくる。耳元で低い声が囁いた。


「……他の獣の匂い。こんなに匂いが残るくらい近付いて……。ねえ、あいつにはどこまで許したんですか?」


こちらを見つめる眼差しがいつもと違う。どこか妖しい雰囲気が漂っている。


「シアン……?」

「ねえ、エルシャ。俺達はただの友達ですか?」

「友達……でしょう? 貴方がそう言ってくれたんじゃない」

「それだけですか」

「へ……」


指先が首筋を撫でるのを感じ、エルシャはぴくりと身を震わす。その瞬間、先程からシアンが触れていたのはオズヴァルドに口付けを落とされた場所だと気付く。


(さっきのあれ、シアンにも気付かれたの……!?)


そう思うと恥ずかしくなってシアンを直視できない。エルシャは頬を紅潮させ、さっと顔を背けた。

それを見たシアンは眉根を寄せた。


「今、誰のことを考えてるんですか」

「……別に……」

「嘘だ」


次の瞬間、首筋に鋭い痛みが走る。


「あ……っ!?」


一瞬、何が起きたのかエルシャにはわからなかった。


頬を擽る柔らかな髪の感触。

首元に感じる痛みと熱。

そして息遣い。


どのくらいそうしていたのかわからない。

彼の気配が遠ざかったとき、エルシャは全てを理解して首元を押さえた。


「――っ!!」


首元にぴりぴりとした痛みが走り、今の出来事が嘘ではないことがわかってしまう。


(私、今――噛まれた!?)

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