第13話 熱に酔う
ソファーに腰掛けて読書に耽っていたエルシャはふと、顔を上げる。窓の外には月が浮かんでいた。
「もうこんな時間……」
昨日が怒涛の一日だったのを思えば、今日は平穏だった。シアンと別れた後は部屋に戻ってきたのだが、借りた本が思いの他面白くて読書に熱中してしまったのだ。
ルネの言う通りかなり過激なラブロマンス小説だったが、ドキドキしながらも読み進めてしまう不思議な魔力があった。世の女性はこうやって恋愛について学ぶのだろうか。
(なんだか、破廉恥な人間になった気分だわ……)
エルシャは読みかけの本を閉じ、棚に仕舞った。今日はここまでだ。また眠れなくなったら困る。
(それにしても、この小説のヒーロー役の行動ってオズヴァルドみたいなのよね……)
脳裏に、出会ってから今日までのオズヴァルドの姿が思い浮かぶ。……あの人はいつも距離が近すぎるのだ。恋愛経験のないエルシャにとっては劇薬みたいだ。
そんなことを考えながらぼんやりしていると扉がノックされる。ルネかレーナだろう。
「どうぞ」
「失礼する」
聞こえた低い声にエルシャは扉を振り返る。そこには夜を身に纏ったような黒衣の男が立っていた。
「オズヴァルド!?」
「なぜ驚く。今夜、空けておいてくれと言っただろう」
(そうだったかしら。忘れてた……)
オズヴァルドは窓辺の席へと向かうと、抱えていたワインを円形のテーブルに置いた。
「ワインでも飲もう」
「でも、グラスがないんじゃ……」
「そこにあるだろう」
オズヴァルドは慣れた様子で戸棚からワイングラスを二つ取り出した。
「よくわかりましたね?」
「この部屋は亡き母が使っていた部屋だからな」
「そんなに大切な部屋だったんですか!?」
好奇心に負けてこっそり広いベッドの上で飛び跳ねてみたことを思い出し、青くなるエルシャだった。
「王宮の中ではここが一番見晴らしがいいからな。……そう身構えずともいい。伴侶として当然のことだ」
「…………」
(前から思っていたけど、オズヴァルドの好意は私には少し重いわ……)
オズヴァルドが席に着いてワインを開けるのを見て、エルシャもおそるおそる向かいの席に座った。
オズヴァルドは慣れた手つきでグラスにワインをトプトプと注いでいく。
エルシャは黙ってその姿を眺めた。
(それにしても、何度見ても綺麗な人……)
普段と違い、黒のワイシャツ一枚というラフな格好をしているが、それが客に彼の素材のよさを引き立てていた。
(ワインを注いでいるだけなのに、ロマンス小説のワンシーンみたいに見えてくるわね……)
じっと見つめているとばちりと目が合う。オズヴァルドは小首を傾げた。
「どうした? そんなに見つめて」
「い、いえ」
さすがに小説に影響されすぎたかもしれない。
エルシャは恥ずかしくなって、差し出されたグラスを一気に飲み干した。
「そんなに飲んで平気か?」
「おいしい……」
「ほう。案外いける口らしいな」
オズヴァルドも自らのグラスを一気に飲み干すと、空いた互いのグラスにワインを注いでいく。
ふと、オズヴァルドは柔らかい表情を見せた。
「……ずっと伴侶に巡り会うときを待っていたんだ。こうして時間を共にすることができて、私は幸せ者だ」
ワインのせいだろうか。少しだけ緊張が緩んだ気がする。エルシャは以前から気になっていたことを口にした。
「……あの、伴侶とは何なのですか?」
「そうか、他国にはない概念か。……そうだな。一言で言うと運命で結ばれた相手だ。とはいえ全ての人に伴侶がいるわけではないし、いたとしても一生のうちに必ず巡り会えるとも限らない。だが、出会えば一目でそうだとわかる。運命の糸が教えてくれるんだ」
「でも、私にはよくわかりませんでした。伴侶だなんて言われても……」
「それはエルシャが獣人ではないからだろう。だが私にはわかる。私達が運命で結ばれていることを」
オズヴァルドの言葉は確信に満ちている。返答に困ったエルシャはそっとグラスに口を付けた。
「そういえば君の両親も運命の糸で結ばれた伴侶だったな」
「私の父と母も……?」
「ああ。エルマンがそう言っていた。相手までは教えてくれなかったが」
オズヴァルドはグラスを置くと、思いを馳せるように遠くを見た。
「あいつが伴侶が見つかったと言った後……しばらくして、伴侶が子供を身ごもったこともこっそり教えてくれたんだ。当時この国は政治のゴタゴタでかなり物騒で、その時期のエルマンは王宮を離れられなかった。だが、情勢が落ち着いたら必ず迎えに行き共に暮らすつもりだと話していた。本当に幸せそうな顔をしていたよ」
「そんな……ことが……」
あの部屋にいたときは、自分は世界に一人きりのような気がしていた。世話をしてくれる使用人はいても、愛情を与えてくれる人は誰一人いなかったのだから。
(でも、そうじゃなかった)
涙が滲んで、視界が歪んでいく。
思いが込み上げてきて、エルシャはきゅっと唇を引き結んだ。
――私は、望まれて生まれてきたのね。
その事実だけで、あの鳥籠のような部屋に囚われていた幼い自分が救われるような気がした。
「……私もエルマンの伴侶とその子供のことがずっと気にかかっていんだ。私が王太子の座に着いて情勢が落ち着いてから、国中くまなく探した。……しかしまさか、相手が外国に住む人間だったとはな。おかげで君を見つけるのも随分遅くなってしまったよ」
テーブルの上に置いた手の上に、大きな手のひらが重ねられる。ほんのり冷たいその手がエルシャを優しく包み込んだ。
「辛い思いをした分、ここで幸せに暮らすといい。欲しいものは全て与えよう。望むなら、この命だって捧げよう」
「!」
穏やかな口調に反して紫の目は強い熱を孕んでいる。その視線に射抜かれると、それが単なる口説き文句などではなく本心であることがわかってしまった。
……だからこそ、エルシャは戸惑った。彼の深い愛情が急に怖くなったのだ。
返答に困って、エルシャは目を逸らした。
「……少し、飲みすぎたかもしれません。お水を貰ってきますね」
オズヴァルドの言葉には答えず、エルシャは席を立つ。しかし次の瞬間、その華奢な身体は背後から抱き竦められていた。
「逃げないでくれ」
エルシャがびくりと身体を揺らすと、耳元でかすれた声がした。
「……もう片時も離れていたくないんだ」
「え……」
エルシャが振り返ると同時にオズヴァルドの唇がエルシャに触れた。
まぶたに。頬に。そして首筋に。キスの雨が降り注ぎ、エルシャの心臓は変な音を立てた。
(な、なに、これ……)
ただの挨拶にしては度が過ぎている。まるでそれが自分のものだと知らしめるような口付けで、どこか執着めいたものを感じる。
(こんなの、小説でも予習してない……!)
このままでは心臓がおかしくなりそうだ。
必死にオズヴァルドの胸を押し続けていると、ようやくオズヴァルドが離れていく。エルシャは真っ赤な顔で叫んだ。
「酔ってるんですか!?」
「……嫌か? 私に触れられるのは」
「嫌っていうかその……どうしてこんなことを……!」
「当然の愛情表現だろう?」
さも当たり前のように言われ、エルシャは言葉を失った。
涙目でぷるぷる震えるエルシャを見て、オズヴァルドはふうと息を吐く。
「私の伴侶ははずがしがり屋なんだな。……本当はもっと君に触れたいが、このままだと倒れてしまいそうだ。今日はこのくらいにしておこうか」
さら、と髪を梳くように撫でる。そして長い髪を掬い上げると口付けをした。
「また話をしよう。エルシャ」
そう言い残し、オズヴァルドは部屋を後にする。エルシャはその場に座り込み、両手で頬を包み込んだ。
顔が熱いのはきっとワインのせいだけではないはずだ。
「……はぁ……」
オズヴァルドといるといつも落ち着かない。
それなのに、不思議と嫌ではないのはなぜだろう。
魅力的な人だから? 『伴侶』だから?
誰に触れられてもこんなにドキドキするものなのだろうか。
今のエルシャにはまだわからなかった。
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