第12話 空っぽの薬指

「俺に会えなくて寂しかったんじゃないですか〜?」


シアンは冗談めかしてそんなことを言う。

変わらぬ彼の姿を目にした瞬間、エルシャの目の端からぽろっと涙がこぼれた。


「エルシャ!? どうして泣いて……」

「だって、もう会えないかと……」

「泣かないで! 泣かないでくださいよ……!」

「うん……」


一度溢れ出すともう涙が止まらない。

彼が無事だったことへの安堵もさることながら、彼の顔を見た瞬間慣れない生活への緊張感が緩み、胸がいっぱいになってしまったのだ。


「もう……こっちまで泣けてくるじゃないですか……」


長い指先が涙を拭う。シアンが不安げにこちらを見ている。

涙に濡れた瞳で見つめ返すと、シアンは優しく微笑んだ。


「また、会いにきちゃいました」

「うん……。また会えて嬉しいわ、シアン」

「俺もです」

「……それよりその格好は?」


エルシャはシアンの姿を上から下まで見回した。以前のようなラフな服装ではなく、この王宮の侍従が着ているのと同じ制服を身に付けている。


「シアンってここの使用人だったの?」

「違いますよ? この制服はちょーっと拝借しただけです。こうして見ると本物の侍従に見えるでしょう?」

「怒られない!?」

「バレなきゃ平気ですって」


シアンは飄々としている。こういう度胸を自分も見習うべきなのかもしれないと真剣に考えるエルシャだった。


そのときシアンはぴくりと肩を揺らし、扉の方を振り返った。


「まずい。さっきの侍女が帰ってくるみたいです。エルシャ、適当に誤魔化しておいてください」

「適当ってどうすれば……」

「それはエルシャに任せます!」


そう言い残すと窓辺へと向かっていく。一度こちらを振り返ると、シアンは満々の笑みで手を振った。


「それじゃあ、また後で会いましょう」


そう言い残し、シアンは窓の向こうに消えたのだった。


(えっ。ここ、二階……)


慌てて窓から下を見下ろすと、薔薇の生垣の合間を縫って歩く青いキツネの姿が見えた。エルシャがほっと胸を撫で下ろしたとき、扉が開いてルネの声が聞こえた。


「エルシャ様! ご無事ですか!?」

「お、おかえりなさい」

「さっきの侍従はどちらへ? 侍女長に『貴女のことは呼んでいません。主人の元を離れてどこを歩いているんですか?』って無駄に怒られたんですけど! どうしてくれるんですかー!?」


ルネは頬を膨らませている。どうやらご立腹のようだ。

エルシャはだらだらと汗を流して周囲に目を向けた。


(早く何か言わなきゃ。何か……)


エルシャは適当に本棚から本を数冊抜き取ると、ルネに押し付けた。


「ルネ。これ借りたいから運んでくれる? あとこれも、それも、あっちの本も……」

「えっ? でも……」


ルネは戸惑いながらその本の表紙絵を見せた。


「これってかなり過激なラブロマンス小説ですけど……」


そこに描かれていたのは濃厚に絡み合う男女のイラストだった。それを目の当たりにした瞬間、頭の中は真っ白になった。


「あ……あ……」


……耐性のないエルシャにとっては刺激が強すぎた。

エルシャは真っ赤な顔を両手で覆うと、逃げるように書庫を飛び出した。


「ま、待ってくださいエルシャ様〜!」



***



シアンは木の陰で人間の姿に戻ると、上機嫌で廊下を歩いていった。すれ違う使用人達はこちらを気にも留めない。誰一人自分を疑っていないようだ。

そのとき、掃除をする侍女達の会話が耳に飛び込んできた。


「貴女も見た? エルシャ様のお姿」

「ええ。とても綺麗な方だったわよ。オズヴァルド殿下と並ぶと美男美女で本当にお似合いだったわ〜!」

「さすがは運命が定めた伴侶ね」

「私もいつか運命の伴侶に出会えるかしら……」


シアンは黙ってその場を通り過ぎていく。

廊下の角を曲がったところで声は完全に聞こえなくなり、シアンは立ち止まった。


「……」


シアンは小さく俯く。足元には暗い影が落ちていた。

ふと、己の左手に目を留める。何もない空っぽの薬指だ。


「俺はエルシャにとって何なんだろう……」


シアンはしばらく無表情に近い顔で佇んでいた。

そして再び歩き出し、暗い廊下の奥へと進んでいった。

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