第2話 それは、目の前に垂らされた救いの糸のような
丁寧に化粧を施され純白のドレスを身に纏う。両耳にはダイヤのイヤリングが輝く。
エルシャは鏡に映る己の姿を無表情のま見つめていた。
これほど丁寧に身支度を整えたのは初めてだ。離れから出ることのない自分にとってはは着飾る行為など無駄でしかなかったのだから。
存分に着飾る初めての機会が自分が売られる結婚式だなんて、とんだ皮肉だ。真っ赤な瞳を隠すように、エルシャはヴェールを深く被った。
大きな扉が開き、長いヴァージンロードを一人歩く。好奇の視線を感じながら、エルシャはざっと周囲を確認した。
どうやら伯爵はここには来ていないようだ。まばらな参列者は皆ボール子爵側の人間のようだった。
(私には送り出してくれる人すらいないのね……)
あの家での自分の扱いを再確認するようで陰鬱な気持ちになる。そのうちに祭壇の前まで辿り着いていた。
陽光が差し込み、色鮮やかなステンドグラスがキラキラと輝いている。
祭壇の前に立つ男はこちらを振り返ると軽薄な笑みを浮かべた。
(この人がボール子爵……)
年齢はエルシャの二回りは上かと思われた。薄い髪を必死に撫で付けており、こちらを眺める視線には言い表しようのない気味悪さがあった。
二人が並ぶと司祭は祈祷書を読み始める。それに構わず子爵は小声で話しかけてきた。
「これはこれは綺麗なお嬢さんだ。ダフネの娘なだけはあるな。気味の悪いその目だけは気に入らないが……私は器の広い男だからな。そのくらいは妥協してあげよう」
エルシャはちらりと隣を見たが、舐め回すような視線に耐えきれずまたすぐに前を向いた。
「ダフネと違って愛想がないな。……まあいい。ベッドの上ではどんな表情をするのか今から楽しみだ」
子爵の手が伸びてきて腰を撫でる。エルシャは思わず顔を歪めた。
(気持ち悪い……)
それは生まれて初めて感じるような不快感だった。
これから一生この男と過ごさなければいけないというのか。そう思うと心臓が嫌な音を立てた。
どこか他人事だった『結婚』という言葉が急に現実味を帯びてきて、エルシャはだんだん青ざめていった。
「……それでは、誓いのキスを」
ヴェールをたくし上げられ、ここで初めて子爵の顔を直視することになる。
目を合わせるのが苦痛でエルシャは目を伏せる。それでも荒い息を吐き出しながら近付く口元が目に入り、全身が粟立った。
(嫌……!!)
その瞬間、ふっと空が暗くなった。夜が訪れたかのような暗闇に覆われ、子爵の動きが止まる。
「何だ? なんでこんなに暗いんだ」
次の瞬間、空が光った。
――ゴロゴロゴロッ!!
耳をつんざくような轟音が響き、どこからか焦げ臭い臭いが漂ってくる。
やがて黒い煙を吐き出しながら教会内に炎が燃え広がっていった。
「雷が落ちた!」
「火事だ! 早く逃げろ!!」
参列者達は軽いパニック状態に陥り、他人を押しのけながら外へと逃げ出していく。それまで真面目な顔で祈祷書を読んでいた司祭も、祈祷書をぶん投げて脱兎のごとく逃げ出した。
「な、なんだ、どうなってる!?」
子爵はまだ状況が飲み込めていないのかオロオロと辺りを見回している。
そのとき子爵の頭に火の粉が飛んできて、控えめな頭頂部が激しく燃え上がった。白い衣装も相まって一本のろうそくのようだ。
「髪がああああああああッ!」
子爵は怯えた顔で外へと走り去っていった。
教会の扉はバタンと閉ざされる。
「あっ、待っ……」
エルシャも後を追おうとしたとき、ヒールでドレスの裾を踏み、その場に転倒してしまった。
「痛っ……!」
すぐに身を起こすが、慣れない服装のせいか上手く立ち上がれない。
そうこうするうちに火の手が広がっていく。煤が純白のドレスを汚す。煙が充満していく。エルシャはけほけほと咳き込んだ。
(早く逃げなきゃ……)
手の甲で口を押さえながら歩き出す。長い裾を引き摺りながら、どうにか出口に辿り着く。
ようやく外に出られる――そんな思いで扉に触れるが、次の瞬間には反射的に手を離していた。
「熱っ!」
エルシャは己の手のひらを凝視した。
この数分の間に鉄製の扉は人の手では触れられないほどに熱されていた。グローブ越しとはいえ一瞬触れただけで指先がじんじんと痛む。
(駄目……開けられない……)
エルシャは咳を繰り返した。
だんだん息が苦しくなっていく。視界も悪くく、煙で目が痛む。炎はますます勢いを増しているようだ。
こちらに迫ってくる炎を目の当たりにしたとき、心臓がどくん、と跳ねた。
(……私、ここで死ぬの?)
外界の音は一切聞こえなくなって、自分の心音だけがうるさいほどに鳴り響いていた。
どうして心臓がこんなに激しく鼓動しているのだろうか。
息が苦しいから?
ここまで急いで来たから?
……いや、違う。
その答えに辿り着いたとき、エルシャの瞳は大きく見開かれた。
「そっか。私、死ぬのが怖いんだ」
あの鳥籠のような部屋では諦めばかりを覚え、自分の感情にもどんどん鈍感になっていった。何もかもどうでもいいと思っていた。生きていても死んでいてもそう変わらないと、本気で思い込んでいた。
……だけど、そんなのは嘘だった。全ては虚勢でしかなかった。
「うっ……」
つ、と一筋の涙が頬を伝う。
一つ自分の本心を思い出すと、子供の頃に手放したはずの願いが次々と溢れ出してきた。
本当は青空の下を歩きたかった。
夜には星空の下で眠りたい。
誰かと他愛のない話をして笑い合いたい。
美しいものに触れて心を動かされたい。
誰かを愛したいし、誰かに愛されたかった……!
悟ったふりをして何一つ諦め切れていなかった。この世界にはまだ知らないことが沢山ある。
――私はまだ、生きていたい!
エルシャはぐっと拳を握り締め、気力を振り絞ってヴァージンロードを戻っていった。
(祭壇の側にも扉があった気がする。そこから出られるかもしれないわ)
熱気が酷く、立っているだけで頭がくらくらする。おぼつかない足取りでようやく祭壇まで戻ってきたとき、眩暈に襲われてエルシャはその場に座り込んだ。
(息が、くるし……)
祭壇の奥に扉が見える。あと少しの距離なのに、もう立ち上がることすらできない。
暗闇の中、炎が色鮮やかなステンドグラスを鮮やかに照らしている。ぞっとするほど美しい光景を眺めるうちに瞼が落ちていく。
(だめ……意識が……)
抗えぬ眠気に誘われ、次第に意識が遠のいていく。
(やっぱり私は幸せになんてなれない運命なのね)
声に出せない未練を吐き出すように涙が頬を流れ落ちる。
全てを諦めて意識を手放す直前、どこからかふわりと花の香りが漂ってきた。
「エルシャ」
自分を呼ぶ声が聞こえたような気がして、閉じかけていた目をうっすらと開く。
その瞬間、エルシャは妙なことを考えた。
――そこには青空があった。
煌めくステンドグラスを背にして、祭壇の上には誰かが立っている。
空色の髪が揺らめき、空色の瞳がこちらを覗き込む。
その色に目を奪われていると、彼は安心させるように小さく微笑み、こちらに手のひらを差し伸べてきた。
「逃げましょう」
それは、目の前に垂らされた救いの糸のようだった。
半ば無意識に腕を伸ばし、そろりと手のひらを重ねる。すると祭壇の上にぐいと引き上げられた。
「走りましょう!」
強く腕を引かれ、祭壇の上をエルシャは走り出す。
そのうちにするりとヴェールが脱げて炎の中に消えてく。それを振り返ることなく、エルシャは青年の後を追いかけた。
祭壇の端に奥へと続く木製の扉を見つけ、青年は扉を開く。
どうやらそこはちょっとした物置のようだった。まだ火の手はそれほど回っておらず、さらに奥には外へと続く扉が見えた。
「もう少しですよ」
エルシャには返事をする余裕もなかったが、どうにか青年の後に続いて扉をくぐる。
それと同時に、天井から火の粉が雨のように降り注いだ。
「きゃっ……!」
迫ってくる火の粉を視界に捉え、エルシャは咄嗟に身構えた。しかし火の粉は二人に降りかかる前に赤い花弁に変わり、周囲をひらひらと舞い落ちていった。
「え……?」
(これってもしかして、魔法……?)
驚いて顔を上げると悪戯っぽく笑う青年の青い瞳と目が合う。
「さあ、出ましょう」
二人の周囲を花弁が漂う。
どこか現実味がなく美しい光景に目を奪われながらもエルシャは前へと進んでいく。
青年に手を引かれ、二人は燃え盛る教会を飛び出した。
***
燃え盛る赤い炎が暗い空を照らす。
黒煙を吐き出しながら教会が焼け落ちていく。
「ハァ……ハァ……」
エルシャは息を整え、目の前の光景を不思議な思いで眺めた。
(私、生きてる……のよね)
ふと、繋いだままの手に意識が向く。そして焼け落ちる教会を見上げる端正な横顔を見つめた。
(この人はどうして私を助けてくれたのかしら)
青年は白いシャツにトラウザーズというラフな格好だ。式の参列者には見えない。
色々と尋ねたいことはあったが、もう体力も気力も限界だった。緊張の糸が切れて身体の力が抜けていく。
「エルシャ!?」
地面に倒れる前に身体を抱き留められたような気がしたが、それを確かめることもできなかった。
「エルシャ。エルシャ……!」
声が遠のいていく。
(どうして私の名前を知ってるの……?)
身体を抱き上げられる感覚を感じながら、エルシャの意識は深く沈んでいった――……
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