第1話 日常が崩れるとき

「……それでは、失礼します」


侍女は目を合わせることなく、最低限の世話を済ませるとそそくさと部屋を出ていく。

一人になった少女はふぅと息を吐いた。


(今日もいつもと変わらないわね)


少女は鏡に映る己の姿を眺めた。

丹精込めて作られた人形のような顔立ちに、輝くようなプラチナブロンドの髪。そのどれもが国一番の美女と謳われた母に瓜二つ。

しかし、瞳の色だけは母とは似ても似つかぬ赤色。

そしてそれは自分が人とは違う何者かであることの証明でもあった。


――エルシャ・ガーランド。それが少女の名前だ。


名家ガーランド伯爵家の娘ながら、エルシャは十八年間この部屋から出たことがなかった。

この場所に家族が会いに来ることもなく、顔を合わせるのは事務的に仕事をこなす使用人達だけ。


真っ白で広いこの部屋はまるで鳥籠だ。ただ息をして、そうして時間が過ぎるのを待つだけの日々。

だけど、寂しいなんて感じたこともなかった。初めからずっと一人だったのだから。

だから、このままでいいのだとエルシャは思っていた。


……しかし最近、この部屋にも小さな変化が訪れた。



コンコン、と窓を叩く音がしてエルシャは顔を上げる。窓辺に何かを見つけて、無表情に近いその表情がほんの少しだけ和らいだ。


「……今日も来たの?」


青い毛並みをしたキツネがてしてしと窓を叩いている。エルシャは窓を開いてあげた。


「いらっしゃい、キツネさん」


キツネは中に滑り込み、エルシャの前で咥えていた物をぽとりと落とす。そして期待に満ちた目でエルシャを見上げた。

……それは、一輪の花だった。

エルシャは花を拾い上げ、そっと顔を寄せた。


「いい香りね」


香りを堪能すると、花をテーブルの上の花瓶にさす。花瓶は色とりどりの花々で満たされ、殺風景な部屋を鮮やかに彩っていた。


(……もう、一ヶ月になるかしら)


およそひと月前のこと。

何もない窓辺に突如傷だらけのキツネが現れたのだ。キツネの怪我は酷く、今にも死んでしまいそうだった。

どうしても放っておけず、エルシャが懸命に世話をしたところ、キツネは一命を取り留めた。


しかし予想外に懐かれてしまったらしく、怪我が完治した今でも、このキツネは毎日のように花を持って窓辺に遊びにきているのだ。

おかげでひと月前には空っぽだった花瓶も、今ではすっかり華やかになった。


(あの花、恩返しのつもりなのかしら)


キツネの習性には詳しくないが、案外義理堅い生き物なのかもしれない。そんなことを考えながら頭を撫でるとキツネは嬉しそうに目を細めた。


(……かわいいわね)


エルシャはキツネを抱き上げ、額にそっとキスをした。


「いつもありがとう。私のかわいいキツネさん」

「!?」


キツネは驚いたように飛び上がる。かと思えば大慌てで部屋を飛び出し、遠くへと走り去っていった。


「あら、行っちゃった……」


もう少しあの毛並みを堪能していたかったのに。

少し残念に思ったが、きっとまた明日も花を持って遊びに来てくれるだろう。そう思うと代わり映えのしないはずの明日が、少しだけ待ち遠しいような気がした。


そのときノックの音が響く。エルシャが返事をする前に扉が開き、男の低い声が響いた。


「お前がエルシャか」

「……え」


十八年間来客などなかった部屋の入り口には、見知らぬ初老の男が立っていた。

男は値踏みするようにエルシャを頭からつま先まで眺めると、ふんと鼻を鳴らした。


「幸い、顔だけはダフネに似たようだ」


随分と棘のある物言いだ。

廊下に立つ侍女のかしこまったような態度と男の身なりを確認して、もしかして、という思いが芽生える。

エルシャは恐る恐るその名を読んだ。


「おじい様……?」


男が否定しないところを見て確信する。

その男はエルシャの祖父に当たる人物であり、エルシャをこの離れに閉じ込めた張本人――ガーランド伯爵だった。

戸惑うエルシャを一瞥し、伯爵は告げる。


「エルシャ。お前の嫁ぎ先が決まった」

「え……」

「相手はボール子爵だ。式は明日。今日のうちに荷物を纏めておけ」

「式……? 明日? そんな、どうして……」


動揺を隠しきれぬエルシャに伯爵は冷ややかな視線を向ける。


「向こうはお前のような気味の悪い女でもいいと言ったんだ。お前には勿体ないほどの相手だろう」

「ですが……」

「今日までこの家に置いてやったんだ。少しは役に立って恩を返せ」


それだけ言うと、話は済んだとでも言うように伯爵はさっさと部屋を出ていく。

扉が大きな音を立てて閉ざされる。エルシャはあまりの衝撃にその場に立ち尽くしていた。


十八年間この部屋に閉じ込めておきながら、どうして急に出ていけなどと言うのだろう。全てが他人の都合で、そこにはエルシャの意志など関係ない。


「まるで物みたいな扱いね」


自嘲気味に呟いたとき、扉の外から侍女達の話し声が聞こえてきた。


「ボール子爵家って家柄は劣るけど資産家でしょう? ガーランド伯爵家は最近資金難らしいし、お嬢様はお金の代わりに売られるってことかしら」

「きっとそうよ。それにボール子爵ってお嬢様よりかなり年上だったわよね。元々ダフネ様のストーカーをしてたって聞いたことあるわ」

「うわ……。つまりダフネ様の代わりににその娘を……ってこと? さすがにお嬢様が不憫ね」


口では心配するふりをしつつも、侍女達は噂話を楽しんでいるようだった。やがて声は遠ざかり、何も聞こえなくなる。

エルシャはよろよろとその場にへたり込んだ。


きっと伯爵にとって自分は、処分に困って物置に仕舞っていた不良品のお人形だ。売り払えるのならその後人形がどうなろうと知ったことではないのだ。


(……だけど、きっとおじい様の言う通りだわ)


こんな気味の悪い自分が人に求められることなどあるはずがない。役に立てるというのなら、喜んで身を捧げるべきだ。

そもそも、別段この部屋に愛着があるわけでもない。荷物を纏めろと言われても持っていくような物もない。

つまるところ、自分がどこにいこうとどうせ何も変わらないのだ。


「……もう、どうでもいいわ」


それ以上何も考えたくなくて、エルシャはそっと目を伏せた。



***



今日がいつもと違う日だろうと、いつもと同じように陽は昇る。

朝になると侍女達は慌ただしく婚礼の準備を進めた。


「お嬢様、もうすぐ出発のお時間です」

「わかってるわ」


エルシャは十八年間過ごしてきた部屋を見渡した。心残りなんてないと思っていたが、一つだけあった。

エルシャは窓を開いて辺りを見回した。


「……いない……」


最後に挨拶くらいしたかったが、今朝は青いキツネの姿は見当たらなかった。


「もうすぐ馬車が出ますよ!」


侍女に怒鳴られ、エルシャは慌てて振り返る。拍子にテーブルにぶつかり、振動で床に落ちた花瓶はガシャーン! と派手な音を立てて砕け散った。


「……あ……」


大切な花が床に散らばってしまった。どれもあの子が届けてくれた大切な日々の証なのに。

思わず拾い上げようとしたとき、侍女がそれを制した。


「お嬢様、急いでください!」

「でも、花が……」

「そんなものは後で片付けときますから。さ、早く!」


花を目に焼き付ける時間すら侍女は与えてくれなかった。

エルシャは感傷に浸る間もなく、長年過ごした部屋を後にしたのだった。




……それから少し時間が経った頃、小さな肉球が窓を叩く。


窓辺にひょっこりと姿を現した青いキツネは首を傾げた。どうして反応がないのだろう。

キツネは窓の隙間に身体を捩じ込んで部屋に足を踏み入れた。そして辺りを見渡す。


「?」


少女のいない部屋。

砕けた花瓶。

床に散らばった花々。


異様な光景を目の当たりにして、キツネは咥えた花をぽとりと取り落とした。

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