第2回・シューニャとザキ

 ガンダルヴァ国の北方に、メール山という山が在る。

 さして大きい山ではない。

 山道も整備されており、2時間もあれば麓から山頂まで徒歩で簡単に到達できる。

 特に霊峰というわけでもなく、猟師が狩りや山菜取りに頻繁に出入りしている。

 しかし、山頂に雲がかかると──メール山は禁足地となる。

 山門は閉ざされ、神官の家系の者だけが立ち入りを許される。

 メール山の頂に雲がかかると、必ず“上”から落ちてくるからだ。

 もう何百年も前から決まって、“上”から落ちてくるのだ。

 その日も、メール山には朝から雲がかかっていた。

 ただ一つ、いつもと違うのは──真っ黒な雲であったこと。

 そして──それは“上”から落ちてきた。

 それは声も上げず、もがきもせず、ただあるがままに落下を受け入れていた。

 地表との衝突の寸前、それは自然と受け身を取っていた。

 メール山の頂には、開けた場所がある。

 そこだけ木は切り取られ、岩は除けられ、代わりに砂が厚く敷かれて、大きな網が仕掛けられている。

 受け身と仕掛けの二つによって、それは落下による死を免れた。

 砂を転がって衝撃を逃がし、網に捕まって、それはようやく停止した。

「おお、きよったか」

 男の声がした。

 それが声の方向を見ると、異様な光景が広がっていた。

 二人の男が対峙している。

 かたや褐色の肌をした、若作りの男。

「おお、いやだいやだ。客人が落ちてきたというのに……」

 肩をすくめて、おどけている。

 対するは、刀を振り回す上半身裸、禿げ頭の巨漢。

「だからザキよ! ソレを渡せと言うておるんじゃあ!」

 語気荒く、巨漢は鞭のようにしなる二刀を振り乱している。

 空裂音が威嚇するように鳴り響き、銀色の刀身が光を乱反射していた。

 ザキと呼ばれた若作りの男は薄く笑いながら、一定の間合いを保っていた。

「そなた、立てるかな?」

 ザキが声をかけると、それはすっ……と流れるような動作で立った。

 体幹にズレのない、まっすぐな立ち方だった。

「ほう、その身のこなし……」

 ザキは尋常ならざる何かを感じた。

「そなた……アレをどう見る?」

 ザキは、二刀の鞭剣を振り回す巨漢に対する感想を求めた。

 それは巨漢の方に目を向けると、虚ろな表情のまま口を開いた。

「鞭のごとき奇なる得物だが……威嚇以上の意味はない。戦場(いくさば)では邪魔になるだけ……。武術ではなく大道芸の類と見る」

「はははは! 聞いたか、ラーマよ! おぬしのソレは大道芸だとよ!」

 ザキは大声で、巨漢のラーマを煽るように言った。

 ラーマは遠目にも分かるほどに禿げ頭を真っ赤にした。

「腕の一本でも斬り落としてやろうか、そこの!」

「おいおい、太守さまはコレをご所望ではなかったのかな?」

「使えるかどうか、俺が見定めでやるというんだ!」

 頭に血が上ったラーマは、更に鞭剣の速度を上げてジリジリと迫ってくる。

「ま、このように……そなたは天上からの果実と思われておる。そなたが甘いか辛いかを、あやつは知りたがっておるのだ。甘い果実なら、ここの太守に献上しようとな」

 ザキは、落ちてきたばかりの男に簡潔に事情を説明した。

 そう──それは男だった。

 乱れた黒髪、傷痕の残る左瞼、薄汚れた異国の僧衣、歳の頃は30半ばの、筋肉質の男。

 肌の色は薄く、ガンダルヴァの人間でないことは明らかだった。

 男は無表情だったが、己に迫りくるラーマの剣を見て、俄かに変化が顕れ始めた。

「剣……剣か」

 ぼつり、と呟く。

 男の周囲の大気が、蜃気楼のように揺らいだ。錯覚ではない。明らかに一瞬、ぐらりと揺れていた。

 ザキは厭な気配を感じた。

「んー……?」

 何か……とてつもなく厭な予感がする。

 武芸者、兵法者の勘とでもいうべきか。

 ザキは大山が崩れる予兆を感じ、それと知らず麓で暴れる子供を避難させるための一計を案じた。

「わしは兵法を齧っておってな。頭に血の昇った阿呆に効く薬も持っておるのじゃ」

 ザキは懐から小さな袋を取り出すと、ポイとラーマに向けて投げつけた。

 袋は鞭剣に触れるや切り裂かれ、中に入っていた粉末が周囲に拡散した。

「むほっ! なんじゃこりゃぁ……ザッ……ザキィィィィィィ! うおおおおおおお!」

 粉末を吸いこんだラーマは両目を抑え、呼吸困難になって転倒した。

「アレの中身は辛味の粉じゃよ。クマでも魔物でも暫くは動けん。なので……この隙に逃げる!」

 ザキは男の手を取って、一目散に山道を駆け下りた。

 暫く走って、ラーマを完全に撒いた頃には、男から異様な気配は消えていた。

 かなりの距離を走ったというのに、男に呼吸の乱れはなかった。

「そなたの身のこなしは……武芸者のそれじゃな?」

 ザキの言葉に、男は答えなかった。

「名はなんと?」

 男は黙していた。

 無表情のまま口を結んで、暫くしてから

「名は……執われであると思う」

 ぼそり、と奇妙なことを言った。

「ふむ」

 ザキは興味深そうに腕を組んだ。

「確かに、名は自己を定義する呪縛であろうな。だが形ある限り──」

「そうだな。執われがあるから、俺は人の形をしている」

 つくづく、妙なことを言う男だった。

 寺の問答のようでもあり、ザキは興味を惹かれた。

「人間というのは、生きている限り……何かに執らわれるものじゃ」

「俺の名前なぞ……どうでも良い」

「しかし無名というのもな」

 ザキは首をぐぅーーっと横に倒して、名もなき男の顔を見た。

「無名とするのも芸がなし。そなたのことは、シューニャと呼ぼう」

「シューニャとは」

「虚ろなもの、欠けたもの、空しきもの。在るようで無く、無いようで有るもの」

 ザキの説明に何か感じるものがあったのか、男は虚ろな目でどこかを見ていた。

「色即是空……」

 聞き馴れない異国の言葉は譫言のようで、ザキは敢えて意味を問わなかった。

 問答もまた、この男──シューニャにとっては、呪縛の因であろうから。

 ザキとシューニャが山を降りて、山門を出る頃には、日が暮れていた。

「わしの実家はそなたのようなモノを世話する神官の家でなぁ。本当なら今日は妹が来るはずじゃった。だが具合が悪いと言うんで、わしが代理で来て……まあ結果的に妹が来なくて良かったというワケじゃ」

 黙っているのも何なので、ザキは自分の身の上を話していた。

「わしは若い頃は中央で軍人をやっておったが……何もかもアホらしくなって職を辞して郷里に戻って、それから20年近く隠者のごとく生きておる。この歳で妻も子もおらぬハズレ者じゃて。ははははは」

 ザキは今年で42歳になるが、独身だった。

 血脈を残すのも神官の仕事も全て妹に押し付けた結果、実家からは勘当されていた。

 それがザキの望みであった。

「わしの住む小屋は寺領の内にあってな。そなたも暫くはそこに住むと良い」

 歩きながらザキが話しかけても、シューニャは口を閉ざしていた。

 落ちてきたばかりのモノは、意識が曖昧なことが多い。

「シューニャよ。そなたは自分の国のことは憶えておるか? ここに落ちてくる前にいた世界のことを」

 ザキの後を歩くシューニャは、暫く黙っていたが、十歩ほど進んで口を開いた。

「憶えているような気もするし、忘れているような気もする」

「奇なことを申すな? そなたのような物言いをする者は初めてじゃ」

「ここに落ちる前は夢を……見ていたような気分だ」

 日の暮れた青い小道の途中で、シューニャは幽鬼のごとく呟いた。

 面白いことを言ったので、ザキは歩みが俄かに止まった。

「そなたが元いた世界が夢ならば、ここは夢から醒めた現ということかの?」

「夢という割には生々しく、辛く、あらゆる執着に縛られた世界であったように……思う」

「ならば、そこもまた現。ここもまた現。極楽ではないということじゃの」

 メール山から、びゅうと生温い夕風が吹き下ろした。

 土臭い風に顔を背けながら、ザキは続けた。

「そもそも、じゃ。極楽浄土というのは魂が天に昇るものではないか? だが、そなたは落ちてきた。そなたのようなモノは、元いた世界で死してこちらに落ちてくるという。ならば、ここは──」

「地獄なのかも知れんな」

 シューニャの答は的を射ているように思えた。

 とんだ皮肉にザキは吹き出した。

「ぶははは! 左様。上も下も同じように人間が生に執われ、悩み苦しむのなら現の続き。すなわち地獄じゃ」

 問答に気を良くして、ザキはまた歩き始めた。

「わしは、そういった執われから逃げ続けている。故に、隠者をしておる」

「地位も名誉も捨てて、か」

「そう。だから金にも女にも縁がない。税を払うのもイヤだから、寺の中で世話になっておる。貧乏だが楽な生き方じゃて。情愛も欲望も全てが執着。呪いと同じじゃ……」

 寺につく頃には、すっかり夜になっていた。

「ここはタジマ寺という」

 ザキは懐から鍵を取り出した。

 寺の門は閉ざされているが、ザキは鍵を使って勝手口からの出入りが許されていた。

 シューニャは、門の様式を見て目を細めていた。

「タジマ……」

 と、譫言のように呟いた。

 ザキは、それが気になった。

「ここは異国の様式の寺じゃ。ガンダルヴァ国は石造りの寺ばかりじゃが、ここは木と瓦で作られておる。タジマ様という……そなたと同じような方が300年ほど前に建立されたのじゃ」

 ザキは勝手口を開けると、シューニャを招いた。

「タジマ様は武人であると同時に、宗教家でもあった」

 シューニャは無言で勝手口をくぐり、タジマ寺の内に入った。

 タジマ寺は、竹園の寺院だった。

 竹林の道を進みながら、ザキはタジマ寺の歴史を語った。

「タジマ様が来られる前は、ガンダルヴァは多くの藩国に分かれていた。そこにタジマ様は武と精神の道を弘流され、この地方の太守に力添えして、ガンダルヴァを統一された。この寺は、タジマ様の武道の精神を今に伝える聖域というワケじゃの」

 寺内には、木造の修行場があった。

「ここは道場じゃ。朝になれば僧侶たちが棒や竹刀を振って修練に励む」

「竹刀……」

「竹を割って、獣の皮で包む用具じゃな。木刀よりも安全に試合が出来る。これもタジマ様が伝えた道具らしい」

 シューニャは道場を見ていた。

 その顔は無表情のようだが、ザキは僅かな感情の揺らぎを感じた。

「そなた……タジマ様の名を知っているのか?」

「いや……」

「だが、そなたは──」

 言いかけて、ザキは口を噤んだ。

「否……どうでも良いことじゃの」

 あまり自分から他人に深入りするのは、慎みのない行為に思えて自重した。

 ザキは道場の前から離れて、シューニャもその後に続いた。

 少し歩くと、派手な装飾の御堂に差し掛かった。

 月明かりを反射する金箔の堂の奥には、色鮮やかな等身大の立像があった。

「アレがタジマ様じゃよ」

 ザキはシューニャがどう反応するか試した。

 タジマ様に縁がある者なら、何か自発的に話してくれるかも知れないと……少し期待していた。

「タジマ様は、ここに落ちてきたのは30歳ほどで……80歳まで生きたそうじゃ」

 ザキはシューニャの表情を伺った。

 無表情のまま、御堂の奥のタジマ像をじっと見上げていた。

「暫く……ここに残る」

「左様か。では、わしは奥の庵にいるでな……」

 ザキはシューニャを御堂に残して、静かに立ち去った。

 足音を立てず、気配を消して、遠くの声に耳を澄まして。

 虫の鳴き声、風に擦れる木々の音、それらに混ざってシューニャの小さな独白が、かすかに聞こえてきた。

「なぜ……タジマなどと名乗った……。こんな所まで来て……名前だの……剣だのに……執らわれて……あんたは……満足したのかよ……」

 感情を殺した声が、微かに震えているように聞こえた。

 嘆きのような、怒りのような、あるいは愚かな身内に呆れ果てるような……複雑に入り混じった木霊を、ザキは確かに聞いたのだった。

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