ガンダルヴァの城のごとく
さんかいきょー
第1回・熱狂と災禍
大陸南方のガンダルヴァ国とパールシー国は、伝統的に対立関係にある。
更にパールシー国の王制が打倒されたこの一年間で、関係は極度に険悪化。
ついに、国境の砂漠地帯での大規模武力衝突に至った。
しかし──ガンダルヴァ側の国境警備には、最低限の戦力しか配置されていなかった。
常備の歩兵3000人は後方に撤退。
残っているのは、軽装の騎馬隊が僅か50騎。
焼けた砂の大地は、見渡す限りの平面。
夏の空は乾き切って、雲一つなかった。
ぽつんと立った物見櫓の上で、褐色の肌の監視兵が一人で遠眼鏡を覗いていた。
「ん……」
陽炎に揺らめく黒い地平線が、蠢くのが見えた。
地平線に見えていたのは、小さな蟻の群れだった。
黒い粒がざわざわと群がり、一つの大きな意思に操られて、津波となって進んでくる。
蟻たちの声が、無音の砂漠に木霊する。
異国の言葉、パールシー語で神を称える……熱狂的な叫び!
「くっそ! きやがった!」
監視の兵は狼煙を焚いて、早足で櫓の下に繋いだ馬に向かった。
後方の別の櫓からも、狼煙が上がった。
櫓の下では、騎兵隊の隊長ほか、数名が馬上で逃げ支度を整えていた。
「隊長! こんな作戦……!」
部下の一人が、不安と怒りの声を上げた。
「そういう命令だ。従うしかないよ」
隊長は淡々と、自分の不安を気取られないようにと、兜を目深に被った。
「敵の数は少なく見積もって10万。老若男女素人構わず動員して、槍も持たせず突っ込ませるだけ。人間が海になって押し寄せてくる。それが、今のパールシーの基本戦術だ。マトモにやっても我がガンダルヴァ軍は負ける」
「イカレてる……!」
「だから、こっちもイカレた作戦で対応するしかない……というのが、我が軍師様の判断だ」
隊長は平静を装いながら、遠眼鏡を取り出した。
敵の叫びが聞こえるパールシー側よりも、自国領に近い方向を覗いた。
広大な砂漠の中を視界が右往左往して……人影を見つけて、遠眼鏡のピントを合わせた。
隊長の背中が、極度の緊張にぶるぶると震えた。
「ああ……! 敵軍にぶつけるだと……あんなモノを!」
隊長は大きくかぶりを振って、遠眼鏡から目を離した。
恐怖していた。
狂気に対して災厄をぶつける、この現実の全てに。
敵方の、10万人の熱狂的な叫びが少しずつ近づいてくる。
10万人の足音が地鳴りとなって大気を揺らし、砂埃を巻き上げている。
砂漠に埋められた魔力地雷が炸裂して、稲妻が轟音を上げても尚、彼らの叫び声は止まらなかった。
開戦前──パールシー国境側では、10万の義勇軍の出陣式が行われた。
「勇敢なる殉教者諸君! 死を恐れることはない! 諸君らは皆、楽園への認可状に署名する権利が与えられているからだ! 我らが諸君を、運命の戦いの地に誘わん!」
白馬に跨った革命有志隊の戦士が、高らかに叫んだ。
戦士は伝説に語られる預言者に扮し、素人同然の義勇兵たちを鼓舞する。
「さあ! さあ! 汝も! 汝も! この認可状に署名するのだ! 文字を書けぬ者は指で印を押すだけで良い! 殉教の闘士は皆、死後に約束された楽園に行けるのだ!」
戦士の従者たちが神の世界への認可状を掲げ、それに署名せんと無数の人々が殺到した。
砂糖に群がる蟻のように。
そこにもはや個人の意思は存在せず、群体生物と化した群衆は一念の宗教的意思に支配され、太陽に向かって絶唱する。
「我らが天の神は偉大なり!!」
と。
こうして結成された神聖義勇軍の総数は10万に達した。
彼らは正規軍ではない。
かつてのパールシー国軍は宗教革命によって解体され、ほとんどの将兵は追放、あるいは処刑された。
現在、国防を担うのは少数の革命有志隊──ある種の僧兵集団だった。
革命有志隊は戦力の絶対的な不足を補うため、民衆の信仰心を利用した。
ガンダルヴァ国への伝統的な不信感を煽り、悪魔の国だと信じ込ませ、国家間の国境紛争を宗教的聖戦へと巧妙にすり替えた。
パールシー国民たちは自ら進んで義勇軍に志願した。
老いも若きも男も女も、大人も子供も区別なく、みな揃って歓喜の涙を流しながら聖戦に参加した。
「天の神と預言者にィ! 忠誠ェェェェェェェッッッ!」
パールシーのあらゆる街、全ての村々で、熱烈なる叫びが上がった。
反対する者、疑問を抱く者は迫害され、排除されていった。
その結果が、武器すら支給されぬ素人たちの数だけを頼りにした──熱狂的人海戦術!
死をも恐れぬ数万から10万、時にはもっと多くの殉教者たちが叫びを上げて大地を埋め尽くし! 斃れた親の屍を踏み越え! 物言わぬ子の骸を乗り越え! 悪魔たちを蹂躙していった。
この戦術で、パールシー国内の国軍残党は一ヶ月と経たぬ内に殲滅された。
そして今、人海の津波は隣国ガンダルヴァに達しようとしていた。
神聖義勇軍10万人が、地雷の埋まった砂漠を踏破する。
「我らが天の神は偉大なり!!」
「我らは神の世界に突き進む!」
「恐れるものは何もない!」
何十、何百、何千、何万と重なり合う合唱が、足音が、天地全てに響き渡る。
砂漠に埋められた魔力地雷の上に乗ると、足元から稲妻が開放された。
稲妻は密集状態の義勇兵たちを数十人まとめて蒸発させるが、彼らの歩みは止まらない。
「我らが天の神は偉大なり!!」
「我らは神の世界に突き進む!」
「恐れるものは何もない!」
仲間の死、親類縁者の消滅も些細なこと。
人海に、個人の意思は存在しなかった。
神聖義勇軍の突撃の後方では、300人程度の革命有志隊が法螺貝を吹き、戦鼓を叩き、旗を振りかざしていた。
「さあ! さあ! 神の国が待っているぞ! 死を恐れるな! いけ、いけ、いけ! 足を止めるな! 止まった者は背教者だ! そんな奴は即座に撃ち殺されると知れ!」
革命有志隊の騎兵たちは短弓を携えているが、それは義勇軍を援護するための武器ではない。
逃げる義勇兵を射殺すための弓矢だった。
革命有志隊にとって、義勇兵は使い捨ての道具でしかなかった。
考える頭も学もない蟻どもなぞ、何千何万死んでも心は痛まない。
「汝らの信ずる天の神のために死ねるのだ! 歓喜であろう! 幸せであろう! 悲しむ必要はない! 泣く必要もない! 過去を思うのは悪だ! 我々には未来がある! 果てしない未来がある! 行け、行け! 無限の未来の神の世界に向かって突き進め! 死ね、死ね! 十万億土の神の国に向かって! ははははははははははは!」
前線は、彼らの遥か彼方。
地雷原を突っ切る神聖義勇軍は無人の砂漠を駆け抜ける。
軍勢に一人でもマトモな指揮官がいれば、不自然さに気付いただろう。
あまりにも順調すぎる。
ガンダルヴァ側の抵抗は事前に敷設されていた魔力地雷のみで、軍は一兵たりとも配備されていないのだ。
しかし、素人だけの熱狂的人海は我武者羅に進む。
その前に、一人の人影が現れた。
黒い髪と薄い肌の色をした男は、異国の僧衣を着ていた。
左目の瞼には、古傷が刻まれている。
視線は虚ろで焦点が定まらず、迷い込んだ狂人の類かとも思われたが、足取りは病者のそれではなかった。
背筋を真っ直ぐに、体幹を揺らさず歩く様は、相当な武芸者の佇まいだった。
何より、腰に剣を下げている。
それは遠い異国の剣──ガンダルヴァ国においてタジマ刀と呼ばれる、反りの浅い片刃の剣だった。
男は10万の義勇軍が見えているのかいないのか、止まりもせず、向きも変えず、一直線に歩き続ける。
一人と10万、一滴と大海、二つは程なくして衝突。
男は、人海に飲み込まれた。
男が敵であろうとなかろうと、海の激流には逆らえない。
倒され、踏まれ、潰されて、砂漠に埋もれて、それで終わり──
そのはずだった。
「ぇお……っ」
人海の中で、一人の小さな悲鳴が上がって、叫びの流れに掻き消された。
「ううっ……」
また別の悲鳴が上がって、足音の中に沈んでいった。
「ぎぇっ……」
同様の悲鳴は一つ、また一つと増えては消え、10万の神聖義勇軍に僅かな欠けが生じた。
誰もそんなものは気に留めない。
転んで味方に踏み潰される者、魔力地雷で体の半分が消し飛んだ者、砂漠の熱気に脳を茹でられ昏倒する者、そういった死人が一人か二人増えたところで、群体の信仰心は揺るがない。
だが、神聖義勇軍は確実に数を減らされていた。
たった一人の、男によって。
僧衣の男は、いつの間にか抜刀していた。
タジマ刀の剣術は盾を用いない両手刀法であり、この大陸の一般的剣術とは異なる。
「切り結ぶ……刃の下こそ地獄なれ……」
男は、ぶつぶつと呪文か歌のようなものを呟いていた。
対峙するのは、一人の義勇兵。
どこからか拾った槍を持っていたが、全くの素人だった。
「うあ、あああ、あああ! なんだ! なんだ! なんだお前はぁぁぁぁぁぁぁ!」
義勇兵は、異様な状況に狂乱していた。
「誰か! 誰かああああ! 助けてくれぇぇぇぇぇぇぇ!」
周囲の仲間を呼んでも誰も応えない。
熱狂しているからではない。
男と義勇兵以外の世界が、絵画のように停止しているのだ。
是が非もなく、一対一の試合のごとき様相を呈していた。
「……踏み込みゆけば、あとは極楽」
僧衣の男が、刀をやや下段に降ろして、ぬるりと油の上を滑るように間合いを詰めてきた。
「うああああああああ!」
群体から個体に戻された義勇兵は、狂乱の突きを放った。
素人の刺突とはいえ、僧衣の男は隙だらけ。胸板を穂先が貫いた!
と思われた瞬間、義勇兵は首を半分まで切断されていた。
僧衣の男は刺突を半身で避けて、一拍子で義勇兵の首に打ち込んでいた。
力みない、切っ先を軽く当てただけの一閃。
「おぅあ……」
それだけで人体は致命傷に至り、義勇兵は血の海に沈んだ。
周囲の時間が流れ始める。
再び、砂漠の上は熱狂する人の海に変わった。
そして、僧衣の男は別の相手を見つけた。
刃こぼれだらけの剣を持った、老人の義勇兵だった。
「いざ、いざ……」
僧衣の男は虚ろな目のまま、ゆらゆらと試合に挑む。
世界は一秒か二秒停止して、また悲鳴が一つ上がって、神聖義勇軍は数を減らした。
後方の革命有志隊が異常に気付いたのは、約三時間後のことだった。
「なんだ? 何が起きている?」
明らかに前線の叫びの数が減っていた。
叫び声も勇ましく神を称えるものから、意味を成さない悲鳴に変わっていた。
遠眼鏡で見れば、義勇兵の一部が潰走を始めていた。
「ええい、逃げるな! 背教者ども!」
敵前逃亡者に矢を射かけるが、それでも流れは変えられない。
人海は逆流を始めていた。
騎兵が遠眼鏡で戦場を凝視すると、砂漠が赤黒く染まっていた。
斬殺された1万人を超える義勇兵の死体が、砂漠を埋め尽くしていた。
「ひえ!」
理解の及ばぬ惨状に、思わず騎兵は悲鳴を上げた。
パールシー国境側に向かって逆流する人の海の中でも、斬殺死体は増えていた。
僧衣の男が、一人ずつ斬り殺しながら、じりじりと革命有志隊へと接近していた。
「なんだ……なんだアレは!」
「タジマ寺の僧侶に見えるが……」
「バカな! こんなものが人の技であってたまるか!」
騎兵は狼狽える仲間たちを奮い立たせようと、号令を出した。
「魔物め! 矢を射かけろ!」
しかし、誰も矢を放たなかった。
撃てなかったのだ。
気付けば──僧衣の男と騎兵以外の、世界の全てが停止していた。
「はっ……? な、何者だ、お前は……?」
騎兵は問うが、僧衣の男は答えない。
「武人ならば名を名乗れ!」
更に問うても答はなく、僧衣の男は刀を突き出した。
「名は執らわれ。ゆえに無し」
「そんな口振り……坊主か、おのれは……!」
「空(くう)に名はなく。流れるにもまた理由はなく……」
僧衣の男は夢の中の寝言のような口調で語るや、すいすいと間合いを詰めてきた。
「ぬぅっ!」
騎兵が矢をつがえようとした時には、全てが遅かった。
既に弓矢の間合いではなく、気付いた時には太腿の動脈を切断されていた。
どうせ自分は前線に出ることないだろう、という侮りと軽装が仇になった。
騎兵は馬上から転げ落ち、血の海の中でもがいた。
「うう……と、トドメを……せめてもの情けを……!」
敗北と死を悟りトドメを懇願するも、僧衣の男はそれを無視した。
聞こえているのかいないのか、空気のように、自然な動きで歩いていく。
そしてまた、別の兵士が切断されて、砂漠の赤いシミに変わった。
日が暮れる頃には、パールシー国のガンダルヴァ侵攻作戦の結果は明らかになっていた。
この日、パールシー国の神聖義勇軍は約3万人が戦死。散り散りになった残存兵力は、後方に待機していたガンダルヴァ国正規軍によって撃破、あるいは捕縛された。
革命有志隊に至っては参加した300人が全滅した。
たった一人の、僧衣の男の追撃を受けて。
「空とは……シューニャとは、ただそこに在るのみ……」
1万人以上も斬ったタジマ刀は、刀身を固定する目釘が砕けていた。
武器へのダメージの蓄積は、どう上手く使おうと避けられない。
しかし刃自体の切れ味が落ちていないのは、僧衣の男が常人を遥かに超えた剣境に在ることを物語っている。
達人が正しく刃を当てれば、人の肉をいくら切っても切れ味が落ちるということはない。
だが固定の歪んだ刀は武器としては使いものにならず、男は死体から新しい剣を拾った。
タジマ刀ではない両刃剣だったが、問題ではないようだった。
「切り結ぶ……刃の下こそ……」
僧衣の男は、休むことなく、止まることもなく、更にパールシー国の奥深くに歩いていった。
丸一日斬り続けても、疲れも乾きも飢えもない。
雲が流れるように、嵐が吹くように、季節が巡るように、誰も男を止めることは出来なかった。
男は人の形をしているだけの、災厄の一種だった。
この災厄がどうして刀を振るうようになったのかを知るには──
少しだけ、時を巻き戻す必要がある。
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