第7話 こぐま 

 アリスと別れ、水色のスカートが入るビルの裏に停めてある自転車の方に向かう。

 自宅はそれに乗ってここから10分。7階建3LDKのマンション。

 一部屋はまなちゃんがこっちに滞在するときの部屋で、もう一部屋は衣装や水色のスカートで使う道具が占領している為、家賃は三分の一しか払っていない。


 口の中をさっぱりさせたいなと、コンビニへ向けて自転車を走らせる。


 アリスの思い出話の中でキャラにもなく自分が熱く語ってしまった場面に差し掛かった時は「やめてくれ」と言いたかったが、彼女の表情を見ていると本当に、伝えて良かったと思った。

 タイムマシンに乗ったようにさっきの話に引きずられて、ビュンと記憶が頭を巡る。

 アリスと初めて会ったあの日のこと。



 とても綺麗な子。こんな子、この辺でもそう歩いていない。店内の色んなところをきょろきょろしてうっとりしている。

 しかしその自分の顔のゆるみに気付いては“社会に適合した表情”に作り直している。アリスを見た時そう思った。

 周りからの視線に気を使う、自信の無かった頃の自分と似ている。と重ねてしまった。

 だからだろう、初対面なのにあんな話をしてしまったのは。

 自分も言われるのは嫌いなくせに、まわりくどく『自分らしく生きようぜ』みたいなことを。

 昔の自分を救おうとでもしたのだろうか。

 ああ恥ずかしい。

 閉店した水色のスカートで最後のグラスを洗い上げ、はあーと顔に上がってきた体温を吐く息で下げた。

「何、ため息?」

まなちゃんがバックヤードから現れた。

「あ、いや。最後あの子と何話してたの?」

まなちゃんに訊きながら水道の蛇口を閉め、ペーパータオルで手を拭く。

「えっと。ここで働きたいって」


「え!嘘でしょ?」


 流石にびっくりした。

「仕事してるしあんま入んないと思うけどね。でもいいじゃんね、超運命的で情熱的じゃない!?」

「そういうの、大好きだもんね」

嫌味を言ったつもりだったのだが嬉しそうだ。

「あれー?私だけかなあ?あ!こぐまが私に似てきたのか!?」

何か含んだ言い方。

 どこでアリスとの会話聞いてたのか。悪趣味。

その上いちいちうざい言い回しをするんだ、この人は。



 タイムマシンから一旦降りて、コンビニでどのアイスにするか吟味する。

あつあつのドリアは時間をかけて完食できたので、口内を冷やす為の氷菓は要らない。高級アイスゾーンへ足を進め、一つ手に取った。


 『きょう、ちかちゃんと会うからー』


 記憶の続きのまなちゃんの声と、右手の300円ちょっとするカップ入りバニラアイスクリーム。

 会計を済ませてペダルを漕ぎながら、また、過去を走る。



 ちかちゃんとは私の母。

 まなちゃんは母の3つ年下の幼馴染で、私が産まれたときから近くにいてよく一緒に遊んでくれていた。

 若くして私を産んだ母はあっという間にシングルマザーになり、一人で育ててくれた。

 母も、私の父に当たる人のことは生きているか死んでいるかも知らないらしい。


 私は小学4年生の頃からイジメを受けていた。

 無視、仲間はずれ、わざと聞こえるような悪口、暴力にならない程度にぶつかったり、教科書を隠されたり。

それをイジメと定義するのかはわからないがソレの理由なんてなんでもいいし、発端なんてものは無い。

 そのころの女の子なんて、小さな世界で自分がどう生きていくかが最重要で、誰を傷つけようと関係ないし、意識もない。

 だから、解決方法なんてない。


 もう。全部めんどくさい。

 私が学校に行きたく無いというと、母は嫌なら行かなくてもいいと家に居させてくれた。

ただ、

「暇でしょ。自分たちが食べるごはんを貴方が作って」

と私に役割を与えた。


 生活の大部分を占めていた学校教育という拘束時間が、ごっそりと余暇に取って変わるのだ。

 働いてくれている母のために動くのは当たり前だ。素直に受け入れた。


 決められた予算で一週間、献立を練っては小学生が外を歩いていておかしく無い放課後の時間帯に買い物に行く。

 身体にいいとお昼の情報番組で観た納豆。

 出来ればお魚中心で。

 母が仕事で疲れている時は豚肉を。

 栄養価の高いケールやモロヘイヤという野菜を使うことも覚えた。

 ブロッコリーの丁度いい茹で加減はもう感覚でわかる。

 きょうの献立にはこんな栄養素に気を配って作ったという達成感と、母が美味しい、とくれる笑顔に幸せを感じていた。


 中学校に上がってからはそのおかげで自分に揺るがない自信を持て、少しづつ学校に行けるようになった。

 おしゃれに恋に友情に。青春に忙しくなった女の子たちはもう私に構わなくなった。

 母には凄く感謝していたので料理は相変わらず続けながら、いつからか「ご飯を作る仕事がしたい」と考えるようになっていた。


 仕事で東京とこちらを行き来していたまなちゃんは月に2回程うちに来てくれ、その度に私の料理を食べていつも大袈裟なほど美味しいと褒めてくれた。

 食後は毎回お土産で持って来てくれる有名なお店のケーキや旬の果物なんかと、母が淹れるコーヒー。

 私はミルクと砂糖をたっぷり入れる。3人で笑ったり愚痴ったり、ゆっくりと過ごす時間が楽しかった。


 中学生もそろそろ終わりを迎える2月。

 いつもの笑顔とテンションで「さむーい!」とまなちゃんは陽が暮れる頃やって来た。

 ただいつもと違ったのは「冷蔵庫に入れといて」という食後のデザートが無かった事。

 珍しい、とは思ったものの、まあ仕事かなんかで忙しかったのだろうと特に気にしなかった。


 まなちゃんは、よく知らないが割と見た目の規則が厳しくない仕事をしている。

 真っピンクの髪色の社会人なんてそう見ない。

 音楽を作ったり、なんかのプロデュースとか裏方仕事をしたり、たまに小さなライブハウスで歌っているんだと教えてくれていた。

 特にそれ以上知りたいという興味は無かったし、きっと聞いてもわからない。

 準備していた3人分の食事を仕上げ、いつもの女子会が始まった。


「こまき、前言ってたまま通信制の高校に決まったの?」

こまき、とは私の本名。

「うん。どっかのキッチンで働きながら調理師の勉強する。でも高卒は取っときたいからね」

「ほんと、かなちゃん思いだね。うらやましー」

「料理学校入れてあげるくらい私もできるっつーの」

と母は嬉しさと照れを口の中のハンバーグと一緒にもごもご隠そうとしている。


「仕事先はどんなとこがいいとかあるの?」

まなちゃんも言い切ってから一口分のハンバーグを口に運んだ。

「そうだねー、色々見てるけどどうなんだろうな。15歳って難しいのかなーとか気になって」


 学校と家の往復しか知らないようなガキが、急に社会に踏み出すのはかなり勇気のいることだった。


 まなちゃんは咀嚼しながら頷いて

「うーん。きょうも美味しいー!」

と私の言葉ではなく料理に返事した。


 その後は母の仕事の愚痴、まなちゃんが出会った職人さんの生き様、私がお菓子作りを失敗した話で時間があっという間に過ぎて行く。

 笑って、怒って、いつものように満たされた気持ちで食事が終わった。


「コーヒー淹れるね」と母が食器を片付けようとするので手伝おうと腰を上げると

「あ、いい、こまき座ってな」

と母が制止した。

 テーブルが片付くまでが私の仕事だと言ってきていたのに。


「え、なに、珍しいな。怖いんだけど」

と勢いに押されて座り直すとまなちゃんが優しく、だけど真剣な顔でこちらを見ている。

「え、え、なに?」

なんだこの空気。

 まなちゃんと母の表情を交互に読み取ろうとする。

 母は私は知らないよと言った様子でコーヒーメーカーを操作していた。


「こまきご馳走様。これ、今日の私の食事代。」


 2000円をテーブルに置いた。

 意味がわからず2人の野口英世をしばらく見つめた。

が、段々と、何故かとてつもなく腹が立ってきた。


「は?」


 私はお金のためにミンチを練って、赤ワインでソースを作った訳ではない。

 オーブンで肉塊が焼ける時間を、母とまなちゃんとの楽しいひとときを想像して過ごした。

 その時間を作るために作ったこの食事は“しごと”じゃない。


 まなちゃんはそうじゃなかったの?会うことを楽しみにきてくれたんだよね?ただご飯を食べに来ただけだと言われたみたいだ。

 なに?

色んな感情がごちゃ混ぜで、脳はさっき捏ねたハンバーグみたい。

 やっと声を絞り出した。


「いい、いらない。ハンバーグとスープとサラダ。素人のガキが作ったもん、こんなにしない」


 まなちゃんを睨んで怒りを表す。

 気持ちもお金で買える『大人』になれってこと?

 それが大人になるってことだっていいたいの?

 この怒りの感情はわたしが未熟だから沸くの?


「ううん。そんなことない、その辺のどんなお店にも負けてない。こまきのご飯はどんどん腕を上げてってる。これは私や、ちかちゃんへの愛だって凄く感じる」


 ムカつく。わかったように言って。じゃあなに?

カッと顔が赤くなる。


「お金なんかいらない。お金じゃなくてまなちゃんが美味しかったって、楽しかったっていう気持ちが欲しいんだよわかんない?私が楽しみにしてきた気持ちが、こんな紙に変わるのはやだ!!」


 なんとか冷静に、と始めた言葉は最後、火山から噴出するマグマのような感情が言葉を押し出して、隣の家にも聞こえるくらい大きくなってしまった。


 むずがるこどものような自分が嫌だ。

 わからなかった。

 寂しいと悲しいを伝える声の大きさを、顔のつくり方を。知らない。

 私はこの感情を適度に排出できる経験値を持っていなかった。

 母からなるべく見えないように顔を背ける。

 手が止まっているのはわかる。

 こんな私を、どんな顔で見ているのだろう。


「こまきは、本当に愛情深い子だね」

まなちゃんが母の方に目をやった。

 それを盗み見る。

二人は声を出さないが、何か思いを通わせ合ってるようだった。


「ごめんね、こまき。でもこの世界で私だけこんなご馳走を頂くのは勿体無いと思ったの。これからはこうやって、こまきの愛でお金という報酬をきちんともらって、いきて欲しいの」


 テーブルの2000円に手を添え、まなちゃんが続ける。

「私ね、お店を作るの。美味しいお料理とライブステージがあるお店。こまきにね、そこのキッチンを任せたい」


 さっき自分が荒らげた声に驚いた家の中のものたちが、叱られないように気配を消して黙っている。

 キンとした沈黙のなかコーヒーメーカーがたてる音だけが響く。


 話が飛びすぎて追いつけない。

 まなちゃんがつくるお店で、私が調理場を……。


 改めて理解するために反芻する。

怒りと驚きが頭で攪拌されてわけがわからない。

 コポコポとコーヒーが落ちる音と、脳に伝わるいい香りがやっと言葉を出させてくれた。


「ちょ、ちょっと、まって。任せるって……何、私に?そんな力ない。家でご飯作ってただけだし、私だけが作るご飯にまなちゃんが責任負って。それで、お金なんてもらえる身じゃない」


 話題性や思い付きで誘ってくれた、なんて思わない。

 まなちゃんはいつもまっすぐで全力で暑苦しい。きちんと評価して誘ってくれている。本気だ。

 だから私も本気で答える。

 私は社会的経験値も無ければ、きちんと料理を教わった訳でもない。自己評価は適正だ。

 とてもありがたいけど、まなちゃん、それは甘やかせすぎ。


「力?それは年齢や働く事への経験値で言ってるの?じゃあ、30代の、お米を炊くくらいが精一杯の私が、今から料理の勉強を始めて一ヶ月後に飲食店を出すっていったらどう?舐めてると思わない?私は大人で、お金もあって、ある程度のことはできるけど、こまきが大切な人を思いながら毎日毎日作ってきたこの料理を一ヶ月後作ることはできない」


 まなちゃんは目を離さない。

 私も目を離さない。


「ご飯を作り始めた頃から私にも作ってくれたよね。毎回違うメニュー作ってくれて、味もレベルアップしてく。友達の子供だからとかじゃなくて、ちゃんと見てきて決めたんだよ。美味しいっていう私の顔を見て、こまきは世界一可愛い笑顔をくれた。そんなこまきと一緒にやりたくて、その笑顔が欲しいって」


「いや、でも……」


「私のところに来てくれるなら、しばらく知り合いの料理人に来てもらうから教えてもらえばいい。それが嫌ならどこかのキッチンで働いて、飲食店の流れを掴んでくれてからでもいい。その間はなんとかしてこまきのこと待ってるから!どうしてもこまきがいいの!!」


 まなちゃんもだんだん熱くなってきて最後は駄々をこねる子どもの様になっていた。


 なんだそれ。バカじゃないの、笑えてきた。


 この人はずっとそうだ。

 公園で鬼ごっこしては私より汗をかいて、遊園地でジェットコースターの席の争奪戦を母とする。私の隣がいいって。

 保育園の卒園式でも、小学校の運動会でも泣いていて、私が泣けないじゃないと母に怒られたいた。


「もうちょっとさ、普通に誘えなかったの?こんな怒ったり、嫌な思いしなくて済んだじゃん。なんでわざわざこんなまどろっこしい言い方するかなぁ」

 自分の核が出す圧力が正常に戻っていく。

 意識しなくても笑いがこぼれる。


「普通だったじゃん!こまきが思ったより怒ったからびっくりしたのはこっちだよ!ねえ!ちかちゃん!」

 母も笑みを浮かべながら静かに何度も頷いた。

 途端に恥ずかしくなった。


「でもいつも冷静で大人っぽいって思ってたこまきがあんな風に感情的になってくれて嬉しかった。それだけの思いがあるんだってわかったら、もっともっとこまきのこと欲しいって思ったよ」


「やめてくんない、その欲しいっての。恥ずかしいよ」


 やだー!照れてるーかわいいーー!と両手で私の顔を挟んでくる。もう好きにしてくれ。


「私、世界中にこまきを自慢したい!」

「やっぱまなちゃん変なひとだよ。私より子供みたい。」


 だから、だいすき。


「なんで、真剣だよ!私の大好きな幼馴染の子供なんです!すっごく可愛いでしょ!めちゃくちゃ優しくて、死ぬほど美味しいご飯作れるんですよー!!って!!」


「わーかったから!」

 まなちゃんの両手を頬から引き剥がし、その手首を離さないまま続けた。

 しっかりと目を見てこたえる。


「まなちゃん。ありがとう。よろしくお願いします」

 この人の期待に応えたい。いや、それ以上。

 母とまなちゃんをしあわせにしたい、そんなご飯を作っていきたい。


 その後デザートが無いという私のわがままに、三人揃って、コンビニにアイスを買いに行った。

2枚の野口英世を連れて。

 他のより高いものが陳列されたゾーンのバニラアイス3つ。

 本当はきっと、そんなことはないのだけれど、今までで一番美味しいと感じたまなちゃんからのお土産だった。




 きぃっとブレーキを握る。

 自転車を駐輪場に停め、5階までのエレベーターに乗り、自宅のドアを開ける。

 リビングのテーブルに着いて、すぐにアイスを口にした。やっぱりこれが世界で一番おいしい。


 その後、『水色のスカート』がオープンするまではまなちゃんの知り合いのお店で修行させてもらい、中学校を卒業した年の5月にオープンしてからは、シェフが3ヶ月ほど色々教えに来てくれた。

 小さなお店。メインは料理ではないので、メニュー数はそこまで多くなくていい。

 一人自分でキッチンを回していけるようになった。

 私はいま、しあわせだ。

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