第9話 -273°妖怪vs全裸ブルルン踊り 

転入判定の最重要資料たる直近テストは期末試験。で、その予行演習は中間テスト。という位置づけであったが、この第一ハードルは全員、無難にクリアした。余勢を駆って、次の第二ステージもソツなくこなしたいところであった。

 

転校に対する家族のインフォームド・コンセント(十分な説明に基づく同意)―――やっかいな舞台が、この第二ステージなのだ。最初の演技披露は、のぞみだった。性格と寸分違わず、スパッと単刀直入であった。


「お母さん。わたし二学期から転校するからね」

 

月が変わった六月一日の火曜日、夕食の席で母に真っ向勝負のストレートだった。【シューっ!】 と糸を引き、【バスっ!】とミットに吸い込む豪速球は、祖母に対する見せダマというか決めダマにして、一気に優位に立つ作戦だったのだ。


「すわっ! 勝負の山場で、ここで転校の可否が決まってしまうのか?」

 

との早トチリは、少々禁物であった。あまりの豪速球に目を回し、スイッチ切り替え係が空想ワールドのスイッチを押してしまったようなのだ。


「ちょっ、ちょっと待て待て! のぞみ大尉」

 

なぜか迷司令官優一が慌てて待ったをかけ、ウツツ世界から空想ゲームワールドへ誘(いざな)ったのであった。


「実はのう‥‥‥」

 

空想ワールドでは、のぞみの母と祖母はとっても厄介な存在で、ストレートの真っ向勝負はチトやばいのだ。というのは、彼女ら二人はアマテラス一族の当主、かのアンマーテルの侍女であるのだ。アマテラス一族はもちろん邪馬台国九州説論者で、アマテラスの始祖こそが卑弥呼であると信じて疑わない者どもであった。しかも歴代の当主と同じくアンマーテルも呪術を得意とし、邪馬台国畿内大和説論者を呪詛で呪い殺す企みを持っていて、それを実行に移すべく、くノ一忍者【草】として九州の根城から山陽道にあるいくつかの別荘まで与えられているのが、のぞみの母みどりと祖母アイであったのだ。


「ともかくアンマーテルを倒さねば、明日・ひみロードをオチオチ歩けぬという強敵で、われらにとってワースト・スリーに入る恐ろしさなのじゃ。だが落ちぬ相手ではない。というのは―――」

 

司令官優一は、アマテラス一族絶滅秘策を伝授する。


「やはり初代アマテラスと同じく、岩戸が好きでのう。そこへ隠れられると、われら歴戦のツワモノも、手も足も出んのじゃ。しかも天の岩戸とそっくり同じものを造って、明日・ひみロードを塞ぎおるのじゃ。そこで、どうやってキャツラを岩戸からおびき出して攻撃するか、ここがポイントなのじゃ」

 

ウルトラ・スペシャル難敵に備え、優一は老練ぶって言葉を選びながら戦略を語りつぐが、いまさら格好つけてもミジュクの謗(そし)りは免れないのであった。


「千加子将軍。そなたの得意技を使ってもらうと万事休す、ではなくて、万事解決なのじゃよ」

 

千加子も邪馬台国九州説論者であるが、佐賀県の吉野ケ里遺跡に邪馬台国があったと主張する正統派で、アマテラス族とはかなりの見解の相違があって、畿内大和説以上に敵愾心を燃やすのがアマテラス邪説であった。そこで、今回の敵には、千加子を名実ともに将軍職に祭り上げるほど、彼女の存在がビッグであったのだ。サヨウ。司令官優一の秘策は、始祖アマテラスを岩戸から出したのとそっくりそのまんま、同じ手段である〈全裸のブルルン踊り〉を使おうというのだ。


「しかものう。わしが調べたところでは、アンマーテルは按摩が大好きで、毎夜、座頭六に体を揉みほぐしてもらっておるのじゃ。そのときは当然、ハッシッシッーを吸っている悦楽気分で、恐るべき―――【もの皆凍る・絶対温度呪詛】は使えぬのじゃよ。兵士どもが岩戸から出てくるだけなのじゃ。そしてのう、その中で一番手強いのは、アンマーテルの夫・ゴリ万将軍で、これさえ片付ければ後は烏合の衆。最後に残るのはアンマーテルただ一人だけなのじゃ。分かったか、皆の衆。では、かからっしゃい!」

 

司令官の号令一声、勇士たちは配置に付き各人の役割遂行。


♪ 出よっ出よー ♪ 岩 ♪ 穴ー ♪

 

タイガーマスク・パジャマを脱ぎ捨てて千加子が岩戸前で踊り始めると、四人が岩戸に向かって合唱する。


! ブルルンルーン ! ブルン ! ブルン !

 

地を踏む足が勢いを増し、デカパイが激しく揺れて大音響が湧き上がる。


♪ 出よっ出よー ♪ 岩 ♪ 穴ー ♪

 

四人も体をゆすり声を張り上げ、岩戸に向かい開門を促す。


「オオオー! オオ! オオー!」

 

合唱が効いたのか、それとも千加子のブルルン踊りの効果なのか。出るわ、出るわ。兵士どもが岩戸を開け、踊りながら出てくるが、頭上に陣取るのぞみのダーツの餌食であった。


「矢は、イヤッ! イヤイヤ!」

 

矢を潜り抜けた兵士には、クルルンルーン! と布団バサミブーメランが襲う。


「ブーメもイヤーン。イヤッ! イヤイヤ!」

 

上手く体をくねらせ、必殺ブーメをかろうじて逃れた精鋭トランスゼンダー兵たちには、バッコーン! と、サッカーボール弾が顔面にめり込む。


「フフ。顔が弱点なのじゃ」

 

不敵に、ではなく、頬を引きつらせビビリ笑いする優一の前に、グワーオー! とキングコングも真っ青の、ゴリ万将軍登場。


「ひぇー! 竜児、タッチ、タッチ。タッチ・交代」

 

ゴリラ勇者には、まっきら金げの赤鬼隊長なのだ。


「おのれ。よくもよくも、可愛い部下たちを! グァオー! これでも食らエー!」

 

ゴリちゃんは大木顔負けの豪腕を竜児の頭上に振り下ろすが、赤鬼隊長はヒラリ・ヒラリーからトランプ魔法のクルクルかく乱。そしてとどめの一っぱーつ! の後は、お馴染みバイバイ、バイデーンなのです。さよう、牛若丸のお株を奪う体さばきでハンマーパンチをかわすと、


「トリャー!」


〈必殺! ミサイル飛び後ろかかと蹴り〉を顔面にブチ込むのであります。


「ぎゃいーん!」

 

ここにゴリ万将軍は、部下たち同様あえない最期を遂げたのであった。


「ラストは私に任せて!」

 

タイガーマスク・パジャマを素早く着込んだ千加子が、両手に二個のウロトラ剛繊維織り・弾丸バレーボールを抱いて、岩戸をくぐり要塞砦へ入る。


「アマテラス族当主・アンマーテル! 天誅じゃ、お覚悟!」

 

りんとしたトドメ声と、必殺スパイクが右手から放たれるのが同時であった。が、


「キェー!」

 

然るに敵もさりながらの者であったのだ。ネグリジェでデカパイを隠し、座頭六の背後に回りながら、牙もあらわに絶対温度呪詛を放ったのだ。


〈バキッ! キューン、ペキペキ〉

 

絶対温度呪詛に阻まれてしまい、天誅ボールは瞬時に凍ってパラパラと砂のように岩床に舞い落ちてしまう。が、想定内であった。


「先刻承知じゃ!」

 

二の矢の早いこと早いこと。セカンド必殺・天誅ボールは既に左手を離れていて、〈ダー! シュルルルーン!〉と砂塵を巻き上げターゲットにロック・オンなのだ。そう。そうなのです。千加子の常套句を拝借しますれば、サヨウでアリンス。〈バッシーン!〉と、轟音をとどろかせ、アンマーテルは座頭六の坊主頭もろとも、背後のギロチン岩に激突してしまったのであります。


「ウーン!」

 

夫同様、ここにアンマーテルも敢えない最期を遂げたのであった。


「いやー! 爽快、爽快」

 

戦略通りにアマテラス族を倒し、優一は空想ゲームワールドで悦に入る。金印、金印って、九州説論者の言う金印がいったい何ぼのもんじゃい! そもそも、魏王が卑弥呼に贈った金印は、まだ九州からも、どっからも出ておらんのじゃーい! 箸墓の発掘が許可されたら、盗掘がない限り、きっと金印はそっから出てくるんじゃーい! 卑弥呼が眠っているのは、桜井の箸墓じゃーい! と大声で叫びたい気分なのであります。が、そろそろウツツに戻らねば、読者のお叱りを受けてしまうのだ。


「本当にそうかい?」

 

などと〈聞き飽き・食傷ギャグ〉を再び使うと、紙面がアンマーテルの最後っ屁呪いで、それこそホンマに凍ってしまいますがな。で、正直に、のぞみの真っ向勝負のストレート告白に続けます。母みどりの反応が次に来ますが、ちょっとくどいですね。


「はい、みどりさん。スタートでーす」

 

スイッチ切り替え係の小声の合図で、ウツツワールドへの画面切り替え完了。


「のぞみちゃん、いきなり何を言うのかと思ったら。―――もう、冗談はやめてね。お祖母さんがびっくりなさるでしょう」

 

みどりは本気にしなかったが、


「冗談なんかじゃなく、本気の本気よ。二学期から、ユウと一緒に岸和田の智子お祖母ちゃんとこで暮らすことにしたの。岸和田に住んで、おばあちゃんちの近くの岸和田城、その真ん前にあるお城高校へ通うって決めちゃったの」

 

義母の名は球威を嫌が上にも増し、みどりの手をすくませ顔色まで変えてしまった。孫のためなら命さえ惜しまぬ助っ人で、のぞみは百万力。対するこちらは、ヘビに睨まれたカエルなのだ。


「エッ!!」

 

宿敵登場に、渾身の力をこめ対峙したいアイではあったが、いかんせん敵は手強すぎた。ぶるぶると手が震え、茶碗と箸が万有引力の法則に従い、ガチャーン! とテーブルに落下してしまった。


「‥‥‥の、のぞみ! そんなこと、許されゃぁしませ―――」


「いいえ、お祖母ちゃんに許されなくても結構よ。わたしは、お祖母ちゃんにいくら反対されても、お母さんやユウのお父さんと違って、考えは変えないわ。わたしは二学期から智子お祖母ちゃんとこで、ユウと一緒に暮らすことに決めたの。そしてこの約束を破ると、万死に価するって誓ったの」

 

祖母の言葉をさえぎり、決して引く気のない証のため、のぞみは誓約文の第三項を借用した。


「ごちそうサマ。―――心配しなくて大丈夫よ。転校しても、土・日は出来るだけ帰るようにするし、卒業したらここへ戻って住むんだから。さあ、チー太郎に散歩でもさっせよぅ」

 

勝利投手さながらの笑顔で三人を見回すと、愛犬とのヒーローインタビューに臨むべく、のぞみは足早にダイニングを出て犬舎へ向かってしまった。


「―――お母さん、大丈夫ですよ。私がなんとかしますから」

 

震えるアイの手をとり勇気づけのつもりが、顔がこわばり、みどりも笑顔が作れなかった。のぞみの説得は不可能。直感的かつ経験的判断で、説得努力はすべて水泡に帰してしまう。その結果、状況分析はたった一つのターゲットをはじき出すが、果たしてうまく行くのであろうか。のぞみの相手をさせられ、結局、自分がはまり込んでしまったゲームの感覚でいうなら、目標にロック・オンしたものの、みどりは戸惑いを隠せなかった。誤爆の恐れは計り知れず、また撃墜は予測不能事態をもたらし、今後の展開が不安要因なのだ。

 

若すぎた夫の急逝は、珠玉の思慕と激しい情念を生み出し、みどりは凪ぎと時化に漂う笹舟の心境に押しやられてしまった。一方は現実、片方はシミュレーション内でのもので、いずれも強い葛藤の渦にもまれる苦悩の日々であった。が、最近に至り、ようやく対処法らしきものが確立できたつもりであったというのに、今回は模擬の域を完全に超えてしまうのだ。

 

―――どうせなら、早い方がいいだろう。

 

翌日の水曜日、昼食を済ませると、みどりは意を決して中佐世保駅へ向かった。


会社のことは専務の坂本に任せきりで滅多に出社することはなく、たまに出るときも専用車の送迎で、電車に乗るのは本当に久しぶりだった。

 

―――二時三分か‥‥‥。

 

佐世保駅からバスに乗り、市役所前で降りて木場田町へ足を踏み入れると、お目当てのビルはすぐ分かった。九階建てのビルの前に立って、みどりは五階の事務所を見上げた。花柄のワンピースに、つば広のピンクの帽子。ノースリーブの腕が、はっとするほど白くセクシーだった。事務所ビルへ入らずに、みどりは筋向かいの―――いかにも高級、というイメージの英国キャッスル風レストランへ向かう。自動ドアをくぐって、


「一番奥の席、お願いします」

 

案内係のボーイに伝える。時間帯のせいか、広い店内に客は点々とまばらだった。道路と反対側の、鉢植えのパームの陰に腰を下ろす。バッグからスマホを取り出し、みどりはまだ一度も使ったことのない登録ナンバーを押した。


「はい。青草会計事務所です」

 

若い男性事務員の、いやみのない朗らかな案内が返ってくる。洋がつけたらしい青草という名前が、自分の名にちなんだものではないかと思うと、みどりは胸が〈ジーン〉と熱くなる。


「あのう、倉田先生はいらっしゃいますか」

 

ドキドキしながら尋ねる。いなければ戻るまで待つつもりだったが、運よく、洋は事務所にいた。


「はい。倉田です」


「‥‥‥あのう、みどりですけど」


「え!? みどりさん? ‥‥‥一体どうなさったんと」

 

事務所へ電話などかけたことがないので、洋は少し戸惑っている。


「―――洋さん。事務所の近くまで来ているんですけど、ちょっと出てきてもらえません? 少し相談したいことがあって‥‥‥」

 

みどりは言いよどんでしまった。のぞみと優一のことを頼みに来たのだが、洋の声を聞くと、一番相談したいのは自分の切ない胸の内だと分かる。


「店ん名前はなんていうと? ―――うん、分かった。すぐ行くけん、本当にすぐ行くけん」

 

店の名前を聞き出すと、洋はあわてて電話を切ったが、若い頃の口調がみどりには懐かしくうれしかった。

 

五分もせず店へ顔を出した彼は、半袖のYシャツにノーネクタイというラフな恰好だった。


「どがん風ん吹き回しかな。みどりさんがわざわざ来てくるるなんて」

 

洋は少し困ったような顔をして、みどりの向かいに腰を下ろした。どうやら息子の転校計画はまだ知らないらしい。


「洋さん、ご存じないのね。優一君の転校」


「え! ユウの転校!?」


「ええ。のぞみと二人で、大阪の岸和田へ引っ越して、一緒に暮らすんですって」

 

みどりは寂しそうな顔をしてうつむいた。十九年前、自分が洋に家を出て一緒に暮らそうと言っていたら、また、彼が言ってくれたら、まったく違った人生を送っていただろうに‥‥‥。そう思うと、のぞみと優一がうらやましくなる


「―――そうか。ユウとのぞみちゃんが転校するんか‥‥‥」

 

のぞみ主導で優一は家来、二人の関係は父親がひいき目に見ても明らかだが、今回は主従がいっそう鮮明だった。岸和田にはみどりの亡夫の実家があり、老母が一人で暮らしているのは、のぞみや優一から何度も聞かされていたので、岸和田への引っ越しは当然、祖母宅になる。洋にはすぐ分かった、


「‥‥‥ね、洋さん。反対じゃないの?」

 

夢見心地の顔で、ぼんやりと遠くに視線が注がれると、みどりは不安になる。


「―――あ、えっ! いや。そりゃ困ったね」

 

仕方なくみどりに合わせたが、本心は賛成だった。


「ねぇ、どうなさるつもり」


「え、‥‥‥そうやなあ。どがんしたらよかやろうね」

 

子供たちの意思に任せる、と言いたいが、みどりは納得しそうになかった。


「ね、反対してくださるわね、優一君に」


「‥‥‥いや、そりゃ―――」

 

洋は冷や汗が出る。恵美子も千加子も恐らく反対しないだろう。


「お母さんは何と?」

 

とりあえず、敵の情報を探ってみた。


「母はもちろん大反対だけど、心得てんのよね、‥‥‥のぞみは母の弱点を。だから母はアテにできないわ。もちろん私の言うことも聞かないし。ね、洋さん。あなたに優一君を説得してもらうしかないのよ。優一君が転校しないって言えば、のぞみも諦めるから、―――ね、お願い」

 

みどりは手を合わせて頼み込んだ。


「いやぁ、そう言われてんも」

 

かつての恋人に哀願されると男は弱い。


「ね、お願いだから」

 

みどりは洋の手を握った。


「‥‥‥一応、説得はしてみるけど」


「本当! ありがとう。やっぱり洋さんだわ。私、相談する人がいないでしょう、本当に困るときがあるの。―――ね、これからも相談に乗ってくださらない?」

 

みどりに甘えられて、


「ええ、僕でよかったら」

 

と、言いかけたが、


「いや、ダメダメ。ダメばい、みどりさん」

 

洋はあわてて首を振って、右手を離した。千加子のヌードが浮かんできたのである。


「洋どの。恵美子どのが泣きますぞえ」

 

彼女は怖い顔で、洋に語りかけていた。


「みどりさん、ゴメン。仕事があるんで、これで失礼するばい。ユウにはよう言うとくけん。―――それじゃ」

 

頭をかきかきみどりに断ると、洋は勘定書きを持って逃げるように別れを告げた。

 

―――危なかった‥‥‥。

 

本当に危なかった。千加子の警告が身にしみる思いだった。

 

帰宅して、優一に転校計画を尋ねると、


「うん、もう少ししてから話すつもりだったんだけど。でもお父さん、誰に聞いたの?」

 

逆に、情報の出所を問われてしまった。


「―――いや、そりゃサ、‥‥‥実は、事務所へのぞみちゃんのお祖母さんから電話があったんや。やけん分かったんばい」

 

シドロモドロだったが、何とかみどりの名前を出さずにすんだ。


「不良ババアの干渉! ハンターイ!」

 

冷えたミルクをゴックンと飲みほし、頼もしい姉の援護射撃。母の票を足せば、最悪でも二対一。優一は勝利をほぼ手中に収めたのだ。


「パパはどうなの? ユウの転校」

 

恵美子が真顔で問いかけると、


「そりゃ、‥‥‥ユウん意思に任せるしかなかやろうね」

 

洋は正論を吐かざるを得なかった。


「それじゃ! いいんだね! のぞみと約束しちゃったし、反対されたらどうしようかって思ってたんだ。恩に着るよ、お父さん」


「ユウ殿。わらわたちへの感謝も、お忘れめさるなよ。―――しかしのう、ちと早すぎはせぬか、体験夫婦は。腰を使い過ぎぬようにしやれよ、のぞみ殿は強そうじゃからのう」

 

いつものように千加子が落ちをつけて皆を笑わす。


「わが家は賛成だばってん、稲垣さんとこは反対やということは、よう肝に銘じといた方がよかばい。結局、親ん同意が得られん場合は断念せざるば得んってことも」

 

洋は最後に申しわけ程度に警告を発したが、みどりとの約束を果たしたという実感は全くなかった。

 

かくのごとく、のぞみと優一の決意表明は、パーソナリティやファミリー力学を反映し、のぞみはアグレッシブ、優一はアット・ホームでの、とぼけた告知だったが、竜児とのり子のそれも、ことほどさようにであった。

 

竜児は六日の日曜日を選んだ。舞台は佐世保駅北西―――場末の安酒場。


「母ちゃん。おい、二学期に転校するけんさ、‥‥‥そがんわけで、今月から少し、お金増やしてくらんかな」

 

ビールや洋酒、焼酎の空きビンが乱雑に積まれ、足の踏み場もない店の裏で、ねむ気まなこの母を相手に、生活費アップ理由の目玉にすえた。


「何やなあ、こがん時間に―――。母ちゃん、母ちゃんて、大きな声だすんやなかばい」

 

転校のことなど澄江の耳には届いておらず、水商売の体裁だけが関心事なのだ。顔をしかめ、


「ほら! これ、持って行きんしゃい」 

 

黒いスリップの胸元から、無造作に札束を取り出し息子に手渡した。


「うん、ありがとう。それじゃ、また来月くるけん」

 

服装や髪形、態度も一カ月前と別人だったが、最後まで母は息子の変化に気づかなかった。

 

息子に無関心というか、関心すら持ちえないすさんだ生活の澄江と違い、のり子の両親はやっかいであった。娘は宝なのだ。転校計画には当然、猛反対が予想されるところで、のり子は背水の陣でことに臨んだ。六月十二日―――十六歳の誕生日に決行したのは悲壮な決意の現れだった。反対されれば家を出る決意であったのだ。


「のり子、誕生日おめでとう。昔は十六になると女は働き始めたし、早か人は結婚もしたんばい。アンタんお祖母ちゃんだって、働いとったんだっさ。本当に良う働く人で、お母さんはえすかった(怖かった)。ばってん、アンタには優しかったね。『のり子、のり子』って、息ば引き取る間際まで、アンタん名前ば呼んどったね‥‥‥」

 

けむたかった祖母の最期を思い浮かべ、母はしんみりとなる。


「さつきにも優しかったっさ―――お祖母ちゃん」


「そうやったね、さつきにも優しかったね。のり子ねぇちゃんだけんお祖母ちゃんじゃなかったね」

 

母は気をとり直して妹に微笑みかけた。笑顔を浮かべた母に酷だと思ったが、のり子は姿勢を正して正面の両親に話し始めた。


「お父さん、お母さん。怒らんで聞いてほしかとばってん、うち、二学期からのぞみの岸和田んお祖母さんちへ引っ越して、お城高校へ転校しようと思うとーと」


「何ば言うんやなあ、藪から棒に―――」

 

案のじょう、母が真っ先に口をはさんだ。


「反対さるるんは分かっとーわ。ばってん四人で決めたことと。変えるわけにはいかんのばい」

 

のり子は目をふせ、唇をギュッと結んで思いつめたような仕草を浮かべた。


「四人って、まさか‥‥‥」


「そうよ、竜ちゃんも入っとーわ。竜ちゃんとのぞみと優一君ん四人ばい」

 

のり子は顔を上げて母を見つめた。


「なして転校するんか、そんわけば言うてみんね」

 

父は、妻と娘の話を黙って聞いていたが、ようやく口を開いた。口調は穏やかだが、のり子を見つめる目には死の覚悟さえ窺わせる―――抗えない刺すような鋭さがあった。祖母と自分に流れる血は、まぎれもなく父を経由していたのだ。メガネの奥の、射るような目で父に見つめられ、のり子はブルッ! と体が震えたが、怖くはなかった。人間というのは不思議なもので、覚悟を決めると恐怖心は消し飛ぶものである。このことを、のり子は小学校四年のときに学んだ。竜児と生きよう―――そう決意すると、悩みや迷いが吹き飛んで、恐怖心すら湧いてこなかった。竜児が自分から遠くへ離れて行くことだけが、怖かった。


「のぞみとユウちゃんは今ん高校が合わんけん、自由な高校へかわりたかとが、転校理由と。うちゃ今ん高校は気に入っとー。ばってん、竜ちゃん、今ん高校じゃダメなの。すぐにやめてしまいそうなの。やけん四人で転校して‥‥‥」

 

新世界での生活。これのみが竜児を救う唯一の道なのだ。よくぞ自分たちを仲間に入れてくれた。急に熱いものが込み上げてきて、のり子は言葉につまってしまった。


「なしてわいが、南君にそこまでしてやる必要があるったい。お父さんは前々からいつも不思議に思うとったんやが、わいん南君に対する思いつめた気持ちは、単に南君が好きというだけではなおされんごと(片づけられんと)思うったい。何があったんや―――南君と」

 

深く鋭い洞察だった。体をこわし、大学中退を余儀なくされた、父の無念がほとばしる明晰な論理で、のり子は追いつめられてしまった。


「‥‥‥うち、竜ちゃんに命ば助けられたと。竜ちゃんがおらんかったら、うちゃ小学校四年んときに死んどったんばい。『のり子、大丈夫や! 大丈夫や!』って、大きな犬に咬まれながら、うちば守ってくれたと。今も竜ちゃんの背中には、大きな咬み傷が残りよーわ! ‥‥‥あんときん恩返しがしたかとばい!」

 

のり子は天を仰ぎ、激情をこらえていたが、堰を切ったように泣きじゃくった。


「‥‥‥そうか、そがんことがあったんか―――。分かった。分かったけん、もう泣くんは止めんね」

 

父はのり子の背中を優しく撫でて、左手で目頭を押さえた。十歳の時から一人で思いつめてきたのだ。何とけなげで、不憫であったことか。


「‥‥‥あんすごか傷痕は、そんときんもんやったんやなあ。ばってん、なしてお母さんに言うてくれんかったんばい。知っとったら、これまで南君に、あがん嫌な顔ばせんかったじょん‥‥‥」


「だって約束やったんやけん―――。竜ちゃんが、誰にも言うなって。おいたちだけん秘密だぞって。‥‥‥やけん、うち―――。やけん‥‥‥」

 

気丈なのり子が子供に戻ってしまった。十歳の少女の実感なのだ。うつぶしておえつを漏らすだけで、


「お姉ちゃーん! あーん!」

 

肩にすがるさつきを、抱いてやることも出来なかった。

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