第8話 君を、見捨てはしない

転校決意は、未体験ゾーン突入のパスワードであった。ぱっと眼前に、果てしなく続く広大な地平線が現われたのだ。そう、新世界が具体的な形をなし、目の前に広がったのである。優一の空想ワールドでは、「コケコッコー!」のひと鳴きで、卑弥呼の墳墓・箸墓への鳥瞰図が眼前にぱっと開けるシーンであった。


「なるほど、なるほど。二上山から見る奈良盆地は格別じゃのう。おう、おう。双眼鏡の中の、あのこんもりと、まん丸クジラのような可愛い墳墓が、われらが愛する箸墓古墳であるのか。―――やや! 箸墓への道、明日・ひみロードに、何と! まだいくつもの【通センボ】関所があるではないか。眼下の学ラン武装の者どもが、次の敵なのか」

 

空想ワールドとウツツ世界の交錯著しく、優一は空想に浸りながら現実というか、ニヤーヒューチャーの予知能力を時折取得することがある。まもなく起こる出来事が、一瞬ヒントを伴い眼前を過(よぎ)って行ったりするのだ。長くなるので、怪しげな予知能力の話はしばらく置いとくことにしまして、ウツツの今朝に戻ると、


「ホント、今日は昨日と大違いだな‥‥‥」

 

伊勢物語のフレーズ・パクリ、というわけではないが、今日は昨日の今日ならぬ、というか、昨日と同じ今日が全く違った印象で訪れたから不思議であった。心ひとつで、ハイにもグルーミーにも日常が変わってしまう見事な体感で、転校決意がこれを実証してくれたのであった。

 

二十四日の朝、目覚めとともに力強い張りを体中に感じ、優一はまず驚いてしまった。目的が精神エネルギーを喚起し、肉体パワーに連動する三段活用は、すでに高校受験で体験済みではあるが、皮肉なことに今回のエネルギーとパワーは、かつての目的からの離脱のために生成されたのであった。


「さあ、ヤルゾー!」

 

姉じこみの雄叫びを上げ、ベッドを出て、制服に着替える。授業なしで、羽根のようにカバンが軽ーく感じられるのは腕がいつもの感覚を忘れていないからだが、優一は不安になって、英G(グラマー)と現社(現代社会)、生物のテキストを二度もカバンにのぞき込んでしまった。

 

歯を磨いてダイニングのドアを開けると、


「おはよう、ユウ殿。ようござったのう、やっと停学処分が解けて」

 

いつものように、千加子がおかしな言葉で迎えてくれる。ヤンキー娘顔負けの容姿から武家言葉が飛び出すと、本当にこれが自分の姉かと疑ってしまう。


「元気だしてね、ユウ。試験がんばるのよ」

 

母の励ましに、


「元気、元気。ユウちゃんは、あれくらいのことでは、ヘコタレませんぞ!」

 

力こぶを作り愛嬌でシコ踏みまでやってみせると、リキみすぎてズボンの股がビリッ! と破れてしまった。


「まあ! ユウ殿。すごいガス圧ではござりませぬか。わらわも久し振りに、そのようなオゲレツな屁をたれてみとうございますぞえ」


「何ば申さるるかチー殿。そこもとんオナラは音、ガス圧、香り、いずればばり天下一品で、特に香りは良かとう。ピーナツと牛乳ん混ざった、何とも複雑怪奇で、かんスカンクとやらも完敗ば認め、尻尾ば巻いてハダシで逃げ出すシロモノでござる」

 

父が千加子の言葉を受けて、皆を笑わす。


「屁じゃないって!」

 

優一は苦笑しながら頭をかいて父の向かいに腰を下ろしたのだった。

 

ズボンをはき替え、誘いに来たのぞみと並んで黙って駅まで歩く。ウルトラ・スーパーとでもいうべき、超が二つ付く超々のビッグプロジェクトは、時の経過とともに頭の中で幾何級数的に発展しているらしく、


「‥‥‥ね、ユウ。わたしと共同歩調をとるって約束してね。もう後へは戻れないのよ」

 

改札前で、のぞみは思いつめた瞳で優一に念を押した。


「分かったよ」

 

言われなくても君に付いて行くさ。これまでもそうだったじゃないか、と言おうとしたが、沈黙の方が何となく勝ってしまった。

 

一週間振りの登校だったが、学校に対し感慨らしきものは湧かなかった。転校することに気が向いているからだが、一時、あれほど入りたかった高校なのにと思うと、ずいぶん身勝手で薄情な気がして少し後ろめたくなった。

 

初日を含め、テストは驚くほど良好だった。転入の合否判定項目の一つであってみれば、対策にもおのずと身が入ったし、答案を書く手も細心の注意と緊張で、ジットリと汗がにじんだ。

 

二十七日の木曜日、三時限目の化学で、入学後初の定期テストがようやく終わった。正午前に帰宅しベッドに寝転び達成と充実感で、シアワセ気分に浸っていると、のぞみが帰宅途中に顔を出した。


「あーあ。やっと終わったね」

 

彼女のところも、今日が中間テストの最終日だった。ベッドに腰を下ろし満ち足りた笑顔は、上首尾の証(あかし)である。


「ね。のり子んとこも今日で終わりだから、昼ごはん食べてから、のり子んちへ行ってみようか」

 

友情厚いのぞみなのだ。懸案事項が片づくと、無二の親友が気になる。


「そうだな」

 

優一はガバッ! とベッドから飛び起きた。のぞみ得意のかぶさりキッスの危機場面で、敵はスタンバイだが、優一はエスケイプなのだ。清涼感漂う、のぞみのキューティリップは大歓迎だが、ここではマズイのだ。

 

昼食を済ませ、誘いに来たのぞみに合わせ、そろいのフォークスのTシャツでのり子の家へ行くと、


「昼ご飯も食べんで、二人分んお弁当ば作って南君んアパートへ行ってしもうて‥‥‥」

 

受け付けカウンターから出て、よし子は声を落とし眉間にしわを寄せた。


「南んとこへ行こうか」

 

スワンクリーニング店右奥の、細い裏路地を歩きながら、のぞみが誘った。


「‥‥‥またにしようよ」

 

優一は乗り気でない。ヤニ臭い陰気な部屋をのぞみに見せたくないのだ。


「せっかくここまで来たんだから、行こうよ。のり子も気になるし、南にも言ってやりたいことがあるんだ」

 

のぞみは竜児のアパートへ行くと言い張って引かなかった。仕方なく、本当に渋々、彼女の後から西九州線を佐世保駅方向へ歩いて、アケボノ荘に着く。階段を上がり部屋の前に立つと、内から二人の会話が聞こえてくる。


「竜ちゃん。学校やめるなんて言いなしゃんな。せっかく入ったじょん‥‥‥。ね、三年くらいすぐやけん、我慢して高校だけは卒業せんね」

 

のり子が哀願口調で、竜児を説得していた。


「‥‥‥嫌なんばいぅ。面白うねぇんばいぅ。学校へ行ってん、上級生に袋叩きにさるるしよぅ。早う学校やめて、働きてぇんだよう」

 

竜児は無理難題をふっかけ、のり子を困らせていた。


「よよ! 今朝、眼前を過った学ラン雑兵は、ウツツでも敵であったのか。ようし、数を頼むヤカラにはこの作戦じゃ!」

 

おっと、予告なしの空想ワールドへの飛び込みですか。こっちは裏方ですから、切り替え係は黙って空想ワールドへのスイッチをオンしますよね。そうでアリンス。明日・ひみロードにたむろする追い剥ぎまがいの与太公には、ユウ司令官の作戦に従い、一発かまして引かせるのが一番でありますよね。ドカチョーン! とサッカーボール弾を先輩かぜ吹かす長身首領の顔面にお見舞い。間髪入れず、布団ばさみブーメランがおなかボコッ! トドメはダーツで、バットを持つ右手にブスッ! これで、その他大勢は立ちすくみ、


「こらー!」

 

の威嚇で総崩れなのだ。チー将軍不在でも楽勝場面で、お後は二上山の奈良側斜面で一服。空想ゲームワールドはこれで和気あいあいムードのシャンシャン〆(しめ)、と行くところだが、ウツツ・シーンは和気あいあいとはほど遠いものであった。竜児の甘えに、のぞみの怒り爆発なのだ。


「南! アンタねぇ、男らしくないよ! 甘えてるよ! そうやって、のり子にいっつも甘えて、‥‥‥のり子を困らせて―――のり子の気持ちを分かろうとしないで‥‥‥バカ!」

 

いきなりドアを開けて、のぞみはカンカンに怒っていたが、最後は涙で声をつまらせた。


「何ばいぅ! いきなり入ってきゃがって‥‥‥。上等じゃんか! おいはバカばいぅ、わいらと違うてヤクザもんの子でよぅ、根っからん落ちこぼれ人間ばいぅ!」

 

顔を引きつらせ、品のない仕草で竜児は悪態をついた。ケンカをしてきたのだろう、目とアゴに青アザがあり、左口が切れていた。のぞみの後から部屋へ入ったものの、優一は気まずいムードにかける言葉が思いつかず、黙ってうつむいてしまった。


「のぞみにユウちゃん。そがんとこに立っとらんで、そこへ座って」

 

座り机から、のり子が二人に促す。


「今、お茶ば入るるけん」

 

粗末な台所へ立ち上がって二人に笑いかけたが、瞳が潤んだ寂しい笑顔だった。

 

お茶が入るまで、正方形の小さな座り机を囲み、三人は一言もしゃべらず黙って待つ。竜児は面白くないのか、何度も舌打ちをしてはこぶしで机をたたいた。中学時代、番を張っていても、数に優る上級生にはかなわないのだろう。竜児の投げやりな仕草から、逃げ場のない崖っぷちに追いつめられているのが傍目にも分かった。


「―――どうぞ」

 

三人の前に冷えた麦茶を置いて、のり子は竜児の横に腰を下ろした。


「‥‥‥竜ちゃん、学校やめたかって。中間テスト、明日で終わりなんに、もう受けんって言うん」

 

目を伏せると涙をたたえきれず、熱いしずくが麻の白いスカートにしみ込んでいった。


「やめればいいんだ! ねぇ、のり子。いいかげん、南にかかわり合うのは止めなさいよ。どうしようもないんだ。‥‥‥なんで、こんな悲しい人生を選ぶのよぅ! ―――ねぇ、南。このままじゃ、のり子がボロボロになっちゃうよ。アンタさえいなければ、のり子はこんなに苦しまなくて済むんだから。‥‥‥ねぇ、お願いだから、どっかへ消えてよ。どうしてこっちへ舞い戻って来たのさぁ。何でよぅ!」

 

のり子が両手で顔を覆うと、のぞみは竜児に向き直って泣きながら彼の肩をゆすった。


「おいがどこに住もうと、おいん勝手じゃねぇかよぅ。大体、わいらに分かるんかよぅ、おいん気持ちが。親父はムショ暮らしで、お袋は愛人つくってサー。おいがガキん時から、どがん思いで暮らしてきたか、わいらには絶対、分かりっこねぇんばいぅ。人目ば気にしながら、コソコソとアマメ(ゴキブリ)んごと生きる者ん気持ちなんかよぅ!」

 

のぞみの手を払って怒鳴り返したものの、これまでの暮らしを思い起こし、竜児も泣き出してしまった。

 

優一は、「うっ! うっ!」っとおえつを漏らす竜児を見ながら、彼の気持ちが分かるような気がした。転校―――まだ仮想の域を出ない展望だけで、自分の内にこれほど力強い心の張りを持てたのである。それに引き換え、竜児は不幸のどん底の成育で、今も明日の見通しが立たないのだ。自分ならとっくに人生を踏み外していただろう。

 

―――ちょっと待てよ。でも、よくよく考えれば‥‥‥。

 

竜児がここまで来れたのは、のり子の存在が決定的要因で、それも元をただせば、竜児がのり子の命を救ったことに起因している。

 

―――のり子の存在には、深い理由があったんだ‥‥‥。

 

のり子は、竜児を助けるために神サマが遣わした、聖母なんじゃないか。優一は竜児を見ながら、不思議な気持ちに襲われていた。彼は救われる運命で、もう一人だけでいい、誰かの助けがあれば、立ち直りのキッカケをつかむのではないか。空想ワールドの強い連帯もこみ上げてきて、優一は急き立てられる思いだった。


「‥‥‥さぁ、竜ちゃん」

 

のり子は竜児の涙を拭いて、肩を支えた。


「ねぇ、なして人目ば気にしてコソコソとアマメんごと生きると? 人目なんか気にせんでよかとに。うちゃ竜ちゃんと一緒に暮らすことしか考えとらんばい。竜ちゃんと結婚して、竜ちゃんの子供ば生んで‥‥‥。他ん人んことなんか、考えたこともなかじょん。やけん竜ちゃんもいたらんことは考えんで。―――ただ、高校だけは卒業してほしかばい。ね、お願いやけん」

 

のり子は涙の顔で、竜児の顔をのぞき込んだ。


「―――な、竜児。俺とのぞみは二学期に転校するんだ。お前とのり子も一緒に転校しないか。お前、今の高校じゃダメだよ。きっとやめてしまうよ。そうなると、のり子も道連れになっちゃうんだ。な、だから四人で一緒に転校しよう。新しい学校で、もう一度、一からやり直してみよう!」

 

空想ワールドの連体意識に取り付かれ、突拍子もない考えが思い浮かぶと、優一はもう闇雲だった。身を乗り出し竜児の肩をつかむと、憑(つ)かれたように一気にまくしたてた。


「転校?」

 

怪訝顔の二人に、


「そう、ユウとわたし、転校することにしたの。だって今の高校生活、ちょっと違うんだよね、考えていたのと―――」

 

のぞみがしたり顔で言葉を継いだ。瓢箪から駒ではないが、のり子を救うには現状の打開が不可欠で、竜児を誘導して新世界に興味を向けさせる必要があるのだ。


「‥‥‥」

 

のり子と竜児は転入制度や転校の仕組みを黙って聴いていたが、のぞみが話し終わると、


「ばってん竜ちゃんとこん高校は工業高校やけん、うちらとは少しカリキュラムが違うやろう。それでもかわるるとやろうか‥‥‥」

 

のり子がまず口を開いた。


「うん。ある程度、柔軟に対処してくれるみたいよ。カリキュラムが違うっていっても、普通科の高校とそんなに違うわけじゃないから。たくさん高校があるから、一つくらいは受け入れてくれるわよ。それに、もしダメだったら産業高校へかわればいいのよ。例えばね、岸和田にはわたしのお父さんが出た岸産と呼ばれてる、市立の産業高校もあって、情報科やデザインシステム科もあるんだから」

 

徹底調査がのぞみの十八番なのだ。のり子は疑問が氷解したのか、大きくうなずき口を一文字に結ぶと、母が恐れる―――テコでも曲げない決意顔に変わっていた。


「‥‥‥でもよぅ、転入試験がなかったとしてん、面接も大変やなかと? おいんようなバカじゃ、かわれっのやなかと?」

 

竜児も高校は卒業したいのだが、今の高校が合わないだけなのだ。


「バーカ! それはアンタの努力しだいでしょ! でも大丈夫だって。アンタにはのり子、ユウにはわたしが付いてんだから」

 

のぞみは竜児の扱いを心得ている。完全にこちらサイドに引き込んでしまった。


「ホンマか! おい、のり子やユウや、それに稲垣‥‥‥さん、と同じ高校へ行くるんやったら、努力するったい。ホンマ、頑張るさかい」


「ウソおっしゃい。わたしやユウと同じでなくてもいいんでしょ。のり子と同じ高校へ行きたいんでしょ」

 

笑いながらのぞみがにらみつけると、竜児はエヘヘと頭をかいた。


「それじゃ、転校の決意を明確にするため、誓約書を書いて、各自サインすることにしたらどうだろう」

 

優一の発案で、誓約書ができあがった。


一つ。われら四人は今日、五月二十七日。二学期からの転校を決意したことを、ここに記す。

二つ。転校に向けて万難を排し、一致協力して、各自最大限の努力を惜しまないことを誓う。

三つ。弱音を吐いたり、脱落する者は、その罪、万死に価することを確認する。


以上の三項が誓約書の内容であり、第三文は、自己に対する戒めのため、竜児の強い主張のもと加筆されたのであった。

 

ここに四人の、二学期からの転校期成同盟とでも呼ぶべきものが結成されたが、様々な障害や外圧、それに同盟つぶしのための数々の陰謀が待ち受けているのは、言うまでもなかった。

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