第7話 新世界の予感

中間テスト初日は二十四日。ブランク一週間が、学校側の意図する停学サンクション(制裁)であったが、申し訳ないことに、優一に全くハンディはなかった。当方にはたくましくしなやかな、強い、強ーい味方がおったのだ。闘いを決意するや、のぞみ・千加子の二人の鬼コーチは軟弱男子を鍛え上げるべく、筋トレ(筋力トレーニング)メニューよろしく脳トレメニューの下、


♪ 箸墓の星をつかむまでー! 血の汗流せ! 脇目を振るな! 解け! 解け! 難問! どんと解けー! ♪ 

 

と、いうほどの過酷なものではないが、しごき妖怪も、ムム! と目を見張るそれなりのしごきを見せてくれたのだ。

 

―――そう、そう、そうであった。


「いや、何が『そう、そう、そうであった』のよ?」

 

と、こちらが聞き返したいくらいの、妖怪が顔を出す場面転換であるが、どうやら、例のワンパタンの、空想ワールドの窓が開いたようである。〈飛鳥〉〈卑弥呼〉〈箸墓〉、この三つのいずれかが〈居眠り常習センサー〉の内臓マイクに届けば、声紋識別もなんもなしに、勝手に窓を開けてしまうのだ。これにエラーⅡの、【更なる誤作動】と【誤操作】が重なれば、


「ご注意ください。ご注意ください。〈世界の窓〉は、開きっぱなしになっております」

 

紋切り型の音声案内が、金きり音で嫌が上にも危機感を煽り立てるのだ。もっとも幸いなことに、今回は通常の誤作動レベルで、〈箸墓〉に感応した〈オープン・ザ・ウィンドウ〉でありました。

 

―――サヨウ。

 

箸墓へ到着するまでに、何度も死地に赴かねばならぬ覚悟が、名歌〈巨人の星〉のパクリに限りなく近い迷歌〈箸墓の星〉登場を促したのだった。明日・ひみロードは遠いイバラの道で、数限りない敵と闘い、とうせんぼ砦をくぐらねばならないのである。ここはしばし足踏みして、のぞみと千加子に帝王学を学び、優一は司令官としての細い腕を、ポパイのごときホレ(ホウレン草)筋に変える必要があったのだ。


「オリーブ! ではなく、のぞみにチーちゃん! 必殺キックをウルトラ強固にして、二十連キックを身につけるぞー! ひきょう化学兵器と自爆テロ対策も、万全だー!」

 

などと、イケイケ元気口上をほざけるのは空想ワールド内だけであった。いやはや停学中のウツツ世界に引き戻されれば、とっても厳しい現実が待っているのであります。特に千加子は、たぐいまれな名コーチであったのだ。


「ユウ、一次関数の此の手の問題はサ。こんなふうに解くと、他の問題にも応用できるジャン。要は、一般法則の定立なのよね。それが出来れば後は個別問題に応用するだけだから。受験勉強なんて、アンタやのぞみちゃんが行ってる高校みたいに、一年からガリガリしなくても、うまいやり方を身につけて、一年間集中すると何とかなりそうな気がするんだよねぇ。バレーボールだって、しごきしごきで強くなるのも一つの方法だけどサ、ぼやっと家で寝転んでるとき、連係トスやレシーブのいい方法が浮かんだりするんだよね。だから、【遊び】っていうのかな、息を抜いた状態が、運動にも受験勉強にも必要だと思うんだ」

 

難問をさらりと解いて涼しい顔の解説は、父のいう七色仮面を連想させるすごさで、この世にアダなす悪問をデンデントロリとやっつける、まさに〈七色仮面のお姉さん〉なのだ。集中力・解法パタン・頭のスイッチ切り替え、いずれをとっても超のつく一流であった。そして名コーチの薫陶よろしきは、スクールライフそのものに決定的影響を与え始め、予期せぬ世界へ弟を、プッシュ、プッシュ、プッシュの連続誘導と相成ったのだ。


「ティータイムにしようか」

 

グリーンティーを味わう、二十分のくつろぎタイム。千加子が語る佐世保東高校でのスクールライフは、信じられないほど明るく楽しいもので、クラスメートたちが目指し、先生方の解く―――受験一辺倒ライフとはかけ離れたものだった。


「ユウ。青春は、バクハツだー! パッションだー! パパとママが出会ったハウステンボスだー!」

 

姉の雄叫びとインフォーメイションは、優一の頭にコペルニクス的転回をもたらし始めていたのだ。


「ね、チーちゃん。こないだ言ってた、転校のことなんだけど。僕、チーちゃんの学校へかわろうと思えばかわれるのかな?」

 

二十二日の土曜日、数Aの難問解法パタン拝受のとき、優一は込み上げる願望を抑え切れなかった。が、―――悲しいかな、姉の返答は弟の期待を裏切るものであった。


「無理みたいね。転校をけしかけといて、こんなこと言えた義理じゃないけど、よく調べてみると、ことはそう簡単じゃないみたいなの。私も、ユウが停学処分を受けたとき頭にきて、担任の先生に聞いてみたの、『ここへかわれないか』って。でも先生に言われたよ、『市内の私学からここへ変わるんは無理やし、他ん公立高へん転校もほぼ不可能やろう』って。―――なぜって? それはサ、だって考えてごらんよ。そう簡単に転校されたんじゃ、学校が困るじゃない。特に私学の場合、生徒の授業料が経営を支える大きな要因でもあるんだから、簡単に出ていかれちゃ困るわけよ。だから、ウチの高校がもし転校を認めてくれるとして、又そのための転入試験をしてくれるとしても、受かれば問題ないけど、もし落っこちたら、ユウはどこも行くとこがなくなって、中浪(中学浪人)しなきゃなんないのよねぇ」

 

やはり現実は厳しかった。もし転入試験をしてくれるとしても、不合格イコール中浪であったのだ。


「だからサー、かわいそうだけど、三年間、我慢することだね。レベルも校風も合わないからって、ママも私も散々反対したのに、ユウが行くって決めたんだから。気に入った大学へ入って、底抜けのキャンパスライフを送ることだねー、不本意な三年間を取り戻すためにサ」

 

転校か中浪かの二者択一でなく、合格か不合格かの二者しかないところにハムレット的悩みが控えていて、落ちる危険を思うと姉の忠告がベスト。少なくともベターであろう。現実の厳しさに優一はしょげてしまったが、のぞみへの伝達は一層の懸念材料であった。


「ユウ、私も何だか高校かわりたくなっちゃった。大学のこと考えたり、周りの意見に踊らされて学校選んじゃったけど、やっぱり違うのよねぇ、自分の思い描いていた高校生活と―――」

 

昨日、しごきレクチャーの席で、のぞみがふっと息を抜いたのだった。


「やっぱり無理だって。さっきチーちゃんに言われたよ。県内の公立への転校はほぼ不可能で、たとえ転入試験を認めてくれたとしても、中浪の覚悟がいるって」

 

千加子の講義終了後、重い足取りで現実を伝えに行った。


「‥‥‥そうか。ダメか。‥‥‥当たり前だね。そんなに簡単に転校できるわけないよね」

 

フゥーッと、落胆のため息一つ。のぞみは化学の問題集をパタンと閉じてしまった。


「―――ね、ユウ。こっちへおいでよ」

 

落胆は性衝動をもたらすのか、はたまた性への逃避であろうか。のぞみは優一をソファーへ誘う。


「‥‥‥うん」

 

ドアのロックを確認し、右端のクッションに恐る恐る腰を下ろす。思い詰めたような顔を見ると、男のこっちがビビッてしまう。


「ねぇ、もっと、こっちへおいでよ」


「―――うん」

 

仕方なく、のぞみの真横へ移動する。


「ね。あれ、しようか」

 

優一の首に腕をからめて、のぞみは悩ましげに耳元でささやく。声もうわずっていた。


「―――まだ早いよ。だって十八になったらするって約束だったじゃないか。それまでBどまりだって」

 

優一は逃げ腰だ。千加子のヌード事件発覚後、のぞみは急に最後のことに関心を持ち出した。


「ねぇ、ユウ。チーちゃんのオッパイに較べて、わたしのオッパイ、ずいぶん小さい?」

 

最近、よく聞かれる。


「チー子のなんて、見てないったら!」

 

必死の弁明も効果なく、のぞみの興味は一点に集中し始めていた。スクールライフの不満も手伝い、眠れる好奇心が、おん年十六で、ムクッと目を覚ましたのだ。

 

ファースト・キスは一年前、中三の夏休みだった。それまでも、ふざけてジャレあったりはしていたが、唇を合わせたことはなかった。


「ねぇ、ユウ。もう十五になったんだから、一度、キスをしようよ」

 

誘ったのはのぞみで、以来、彼女の主導が続いている。勉強の後、帰る前にソファーで抱き合ってキス。わくわくドキドキの一週間余りだったが、良くしたもので、少し余裕が生まれると、右手が自然にのぞみの胸を求めるようになった。


「‥‥‥ああん! ユウ。ねぇ、ちょっと待って。―――ボタン外したげるから」

 

あえぎながら優一の手をとり、のぞみが乳房を触らせてくれた。


「‥‥‥ね。しなくていいから、裸になろうよ。ユウの体、よく見て知っておきたいから」

 

男がネガ(ネガティブ)だと、女はポジになるのか、水先人はいつものぞみなのだ。


「いやだよ! 裸をジロジロ見られるなんて。チー子みたいに露出狂じゃないんだから」

 

ここしばらくの、優一の逃げ口上で、姉がダシというのも皮肉であった。

 

今日もキスをしながら、心に合わせ、体も逃走準備にとりかかると、


「‥‥‥ねぇ、下、触っていいよ」

 

のぞみが先に唇を離し、あえぎながらささやく。


「―――いいよ。あさってからテストなんだから。それに、俺は十八までBでいいんだから」

 

ムードメーカーならぬ、ムード破壊の達人か。優一は覚めた顔で、あっけらかんと答えてしまった。


「もう! ユウの意気地なし! こんなに固くなってるくせに」

 

ブチッ! とキレてしまい、のぞみは怒って、ギュッとつねった。


「イタタタ! 痛いよう!」

 

これ幸いと、優一は彼女の部屋を飛び出した。


「どうしたの? ユウ君」

 

みどりが怪訝顔をのぞかせるが、


「―――いえ、何でもないんです。ホントに。それじゃ、さよなら」

 

Dバッグでズボンの前を隠し、優一は頭をかきかき逃げ帰った。

 

翌日の日曜日、カミナリ覚悟で化学の特訓を受けに行く。ボツかと思いきや、のぞみは上機嫌でチー太郎と門まで出迎え、レクチャーしてくれるという。


「ねぇ、ユウ。いいことを思いついたの」


「‥‥‥いいことって?」

 

昨日の今日で、優一は構えてしまう。ヌードでも撮るつもりかとビビったのだ。


「何、こわがってんのよ! もう迫ったりしないから、大丈夫よ。いいことっていうのはね、うまい転校の方法を考えたの」


「へぇー、どんな?」


「あのねー。‥‥‥後で、部屋でゆっくり話したげる。少し散歩しようか」

 

のぞみは話そうとして、もったいぶった。


「いいよ」

 

そういえば勉強、勉強で、ここしばらく、のぞみとゆっくり散歩もできなかった。

 

小一時間、坂だらけの町を散歩して、チー太郎はベロでハーハー、優一は汗みずく、のぞみは涼しい顔で彼女の家に帰ってきた。


「うまい転校の方法って?」

 

部屋へ入るなりTシャツを脱ぎ、お預けを食った、気になることを聞いてみた。


「あのねー」

 

のぞみの口から漏れたのは興味津々で、安全・有利・青春万歳の、良いことずくめであった。亡くなった父の母―――大阪の岸和田在住の、祖母の力を借りて目的を達成しようというのだ。


「ねぇ、ユウ。わたしたち、智子お祖母ちゃんとこで一緒に住んでみない?」

 

突拍子もない提案に、優一がキョトンとしていると、


「だってサ、昨日。ユウ、言ってたじゃない。県内の公立高校への転校は難しいし、もし転入試験受験が認められても、中浪の危険があるって。だから県外へ出て、二人とも引っ越そうよ」

 

のぞみが超の付く安全な転校計画を話し始める。石橋をたたいて渡るほどではないが、日本経済よりよほど安全で、倒産回避のショック・アブソーバー付きだった。中浪の危険回避のため、実際に引っ越そうというのだ。


「大阪の場合はサ、ここ十年ばかり、制度の変更が結構めまぐるしくて分かりにくいんだけど、キィポイントは①各高校の自主性尊重と②転校生の便宜をできるだけ図ろうということなんだって。例えばね、引っ越しによる転校の場合は転校する高校の直近テスト、すなわち今通っている高校で受ける最後の定期テストを重視して、これで転校の可能性のあらかたを決める高校が多いらしいの。面接やカリキュラム、定員による調整もあるけど、一番大事なのが直近の定期テストらしいの。これさえ頑張れば、転校が認められるということなの」

 

昨夜、インターネットで検索して、大阪府の転校システムを情報入手したとのことであった。


「ね、ユウ。岸和田はお城のあるかつての城下町で、だんじり祭りで有名な観光名所なの。港もあって、ハウステンボスのある佐世保に似ていて、親近感がわくじゃない。ねぇ、岸和田で一緒に暮らそうよ。二年と七カ月、わたしと同じ高校で楽しく過ごそうよ。今の高校生活じゃ、わたし、息が詰まりそうだよ。癌も早期発見っていうじゃない。このままズルズルだと、登校拒否から中退って、最悪のパタンをたどっちゃう。‥‥‥だって、高校生活に全く魅力が感じられないんだもん。ユウだって同じでしょう」


「‥‥‥うん」


「だったら、自分たちで何とかしようよ。逃げるんじゃなく、力を合わせ、アグレッシブにいこうよ。ねぇ、お願いだからーん」

 

猫なで声の後は、ブチュッと女上位のかぶさりキッス。のぞみは油断もスキもないのだ。


「―――うっぷっ!」

 

ソファーに押し倒されたまま、のぞみの顔を両手で持ち上げ、


「‥‥‥ちょっ、ちょっと待てよ。引っ越すんだったら、俺の意思だけで決められないよ。親父やお袋の意見も聞かないと」

 

とりあえず慎重なポーズをとってはみたが、大賛成の、絶対遂行プロジェクトであった。親元を離れ、ガールフレンドと一つ屋根の下で暮らすなんて、ロマンチックでスリル満点。ドドーン! と血わき肉躍る、爆発寸前のワクワク気分なのだ。体を入れ替え、のぞみの上になると、優一は腕に渾身の力を込め、ギュッ! と彼女を抱きしめたのだった。

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