第2話 ナマ屯族の野望

♪ シアター・オープンズ・ナウ はしはかドラマ 古代ヤマトの謎を解く ひみこ与えて 最後のピースを あなたと暮らした 民の子孫に 古書を紐(ひも)とき 探し歩けど わが足つねに この地に至る 桜井はしはか ここに眠るか 邪馬台国を 治めし人よ ♪


五年前、父に連れられ、明日香村から多武峰へ。石舞台に別れを告げて険しい山道を千加子と母に挟まれ登っていたとき、父は親友が作詞作曲した〈ひみこ箸墓・時空旅〉を口ずさんだ。邪馬台国が近畿にあったという邪馬台国畿内大和説を支持する人で、桜井市の箸墓古墳が卑弥呼の墳墓と信じて疑わなかった。


「ユウ。帰りはバスで、箸墓へ寄ろうな」

 

父も邪馬台国畿内大和説の熱烈な支持者なのだ。


「でも、邪馬台国は九州にあったって説の方が有力なんじゃないの。昨日中学校で習ったよ。漢の王が贈った金印が、福岡市の志賀島(しかのしま)から出土したのが理由の一つで、それから魏志倭人伝の記述による邪馬台国までの距離とか、なんとか言ってたよ」

 

恐らくこの頃から、わが家における邪馬台国論争の九州説と畿内大和説の萌芽があったのだろう。千加子は九州説に大きく傾いて行ったように思う。それもあって、資格マニアの千加子はこの時から三年後の春休み、旅行業務取扱管理者資格を取得してしまっていて、大学入学後のアルバイトに長崎や佐賀、それに奈良の観光業務に意欲満々なのだ。


「チー子。まものう実証さるるさ、畿内大和説が。金印だって、魏王が卑弥呼に贈った金印はまだ見つかっとらんしさ。邪馬台国へん距離だって、計算によってはまちまちで何ともいえんばい。それに卑弥呼が大和朝廷とん連続性ば切断されて古事記や日本書紀に記述されとらんのは、「卑」という字と邪馬台国ん「邪」という字んマイナスイメージから、大和朝廷が意図的に卑弥呼ば排除した。こん説にパパは大賛成なんや」

 

千加子のクレームなど意にも介さぬ涼しい顔で、父は険しい山道を名曲〈ひみこ箸墓・時空旅〉を口ずさみながら、桜井の談山神社と当日泊まる多武峰国際観光ホテルへ倉田ファミリーを導いたのだった。

 

五年前の、長崎空港から関空、そして奈良への行楽を思い出し、優一が歴史街道春うらら―――明日香路の菜の花畑を連想して雅の時代に浸りきろうとしていたのに、


「♪ カランコロン ♪ コロンカラン ♪」

 

無情のチャイムに〈待った!〉をかけられ、戻りたくない悲しい現実に引き戻されてしまった。


「おい、倉田。一緒に帰ろうや」

 

無情の追い討ちで、雅の里・明日香村の余韻を味わういとまも与えられず、六時限目の数Aが終わると、隣組の東田名図馬(なずま)が例のごとく廊下から優一を誘う。優一の空想ゲームワールドでは、邪馬台国畿内大和説阻止の二番手で、明日・ひみロードへ至る二番関所の妖怪仲間であった。何と! カムチャッカまがい半島に邪馬台国があったと主張する珍説集団一味なのだ。一味唐辛子も真っ青になる主張の中身で、カムチャッカまがい半島のナマズ県地震郡ナマズ村に卑弥呼の墳墓があるとのたまう、訳の分からない一族であるが、核武装狂いの危険国家。おまけに、ずさんな地下核実験で地盤がわななく震えっぱなし国土に、ブレっ放しの瀬戸際外交国家。この王国の長男が、東田名図馬のでっぷりお腹、目と口元までそっくりだった。


「主張の中身もそうだけど、なんという訳の分からないことをするんだよう!」

 

優一が呆れるのも当然で、呉市と広島市を結ぶ〈明日ひみロード〉にポテドンミサイルと落っコチン火の玉ICBMを配備し、百万兵と見紛う大軍まで配置して、五人の行く手を遮るのであった。


「東アジアのコアラルンプスーで暗殺されちゃって、本当に御気の毒。でも弟には、拉致被害者を、返せ、返せー! 他国の主権を侵害する、このクソならず者国家の独裁者めー!」

 

と、優一は大声で叫びたいのだが、叫ぶと不発ポテドンと落っコチン火の玉ICBMに乗せられてしまい、一緒にナマ屯王国へ連れ去られ拉致無視プロパ(プロパガンダ)の煙幕に巻かれるのが恐ろしい。が、空想ゲームワールドでは負けるわけには行かなかった。我が国の主権と邪馬台国の名誉がかかっているのだ。


「よし! 鶴翼の陣を敷くのだ。のり子中尉、野呂川の河岸左手にそびえ立つ、あの核弾頭の起爆装置を奪い取るのだ!」

 

おっと、完全に空想ゲームワールドへ飛び込んじゃいましたけど、こうなると、もう流れに任せるより仕方ないですよね。ユウ君は既に司令官気分ですから。


そうなんです、優一は名司令官よろしく、のり子に命じ超高速スワロー・ブーメで、バシッ! と、その名の通り、燕さながら一直線に舞い上がるマッハブーメで、そそり立つミサイルから起爆装置を奪い取ってしまった。後は右翼を使っての肉弾戦で、竜児が〈楚の項羽〉さながら百万兵どもに突っ込み、バッタ! バッタ! と薙ぎ倒し中央突破を図るのだ。項羽の股がる名馬〈スイ〉に負けじ劣らず、竜児の愛車〈七半・レッドホース〉の速いこと速いこと。後に続くワシラが、ホンマ、疲れまんがな。


「のぞみ大尉、狙撃兵を倒して切り込み隊長を守るのだ! 千加子将軍、敵大将に必殺スパイクだ!」

 

はあはあ息を切らし、切り込み隊長竜児の後に続きながら、司令官優一はナマ屯王国独裁者を探し、とどめのキックを突き刺す―――などと空想に浸り切っていると、我が家へ帰れなくなってしまうのであった。そう、現実に戻りましょ。


「掃除当番だから」

 

先ほどの三国志の時代か近未来か、訳の分からない時空から時制を現在に一致させ、優一はテキストをカバンに詰め込みながら、メールおたくマニア東田を見ないで断る。空想ワールドとまだごっちゃになっていて、現実に完全復帰していないのか、東田を見ていると訳の分からない妄想が沸いてくる。お前は、本国から暗殺指令が出て、殺されちゃった! との噂の絶えない、地震国家の元第一承継人の変装なのか? それとも乗り移りなのか? 友引さながら、俺まで後継争いに巻き込んで、アチラの世界へ連れ去るつもりなのか? などと被害妄想に陥っていると、〈明日ひみ〉ロードは夢のまた夢。で結局、完全に現実に戻ってしまった。


「本当に、掃除当番なんだから」

 

時制は現在に完全一致したものの、一緒に帰りたくない気持ちが、再度拒否理由を優一の口から漏らす。


ところで現実に戻れば、ナマ屯王国の国営セクシー歌劇団〈美人集団喜んで組〉が忽然と視界から消えてしまい、何とも殺風景な目線の先であった。佐世保駅から歩いて二キロ余りの、この九州俊英学園は男子校で、しかも東田は中学受験組だったのだ。もちろん女に〈♪ 飢え、飢えー ♪の ♪ そのまた二乗 ♪〉に飢えている。


「終わるまで、待っとったるさかい」


「いいよ」

 

魂胆が見え見えで、優一はウンザリなのだ。


「そがんこと言わんば、一緒に帰ろうや。な」


〈なまポン〉と呼ばれ、地震の白身ナマズが好物で、性格はスッポンだった。政治家の息子だけあり、しつこくて、一筋縄では行かないのがやっかいであった。


「やっと、終わったんか」

 

雑巾を片づけ教室を出ると、東田がいそいそと近寄ってくる。


「うん」

 

仕方なく、彼と並んで佐世保駅へ歩く。市のターミナル駅といってよい駅で、学生や生徒、園児、それにハウステンボスへの観光客と思われる外国の人たちまで駅に吸い込まれていく。


「なあ、倉田。九日ん日に、稲垣のぞみば連れて、ぼくんとこへ来ぇへんか」

 

改札前で、東田が優一を見上げ、下卑た愛想笑いを浮かべた。


「無理だな」

 

優一は素っ気ない。革カバンを肩にぶら下げ、別の改札を通り抜けた。


「何でなんや。小学校んとき同じクラスやったやんか。―――十五日が僕ん誕生日なんや。誰かもう一人、女ん子ば連れて来てくれてんエエし」


「十五日が誕生日なのに、なんで九日なんだよ」

 

聞きたくもなかったが、とりあえず理由を聞いてみた。のぞみがワースト・ワンにあげるのが東田で、希望が叶うはずがなかった。


「九日ん日曜日は、家に誰も居てへんさかい、みんなで楽しかこと出来るやろ思て」

 

優一にすり寄り、東田は卑しい想像笑いを浮かべ声を落とした。


「楽しいことって、また、あれかよ」

 

あきれ顔で、一カ月前の事件を示唆した。名画鑑賞がポルノ鑑賞に化けた事件で、いきなりのファックシーンに、



「キャー!! こがんエッチだらけんもん見たら、パパに怒らるるー! エーン」

 

招待客の女子生徒が悲鳴を上げて逃げ帰った。事情を知った父親が怒り狂い、


「わいせつ物陳列罪で、告訴したるー!」

 

告訴寸前にまで至ったが、東田代議士がもみ消したらしい。実は、カムチャッカまがい半島ナマ屯王国のスパイとの噂が、空想ワールド以外でも絶えないのが東田代議士で、007が裸足で逃げ出すしみったれアクションを起こすので有名だった。ワルサーPならぬ、ワイセツ爆弾を腰に巻き、自爆テロの脅し得意の、根性なし議員が東田名図馬の父親なのだ。自爆覚悟ゼロは逃げ足の速さが証明で、体に似合わず忍術ナマズ隠れの免許皆伝であった。ピ、ピ、ピコピコと、地検(地方検察庁)特捜部の捜査情報をナマズひげで素早くキャッチ。どろん! と、あっという間の肥満体・縮小モード。するりんこんと、愛人のスカートへ潜り込むのだ。この恐るべき離れ業を零コンマ三秒でやってのけるのが、何を隠そう東田名図馬の父、東田弥太郎であった。


「ちゃうちゃう。今度はれっきとした洋画ん名画鑑賞や。ブラッド・ピットんエエのがあるんや。ちょっと古かばってんな、シュワルツェ・ネッガーんもあるったい」

 

血は争えず、弁解口調が父親と瓜二つだった。秘書をとっかえ不倫の度に、父・弥太郎は右手を振って否定するので、〈ちゃう! ちゃう! の弥っ太郎〉と陰口をたたかれていた。


「な、倉田。ちゃんと、考えといてや。頼むったい。な、ホンマやで」

 

中佐世保駅の改札を出て、最後の念を押して東田は優一の後ろ姿を見送る。

 

―――バーカ!

 

死んでも治らないバカというのは、ほんとうに救いようがない。優一は背中でアカンベーをしたのだった。


「ただいま」

 

帰宅すると、玄関の柱時計が四時三分を指していた。


「お帰り、ユウ。―――のぞみさんから電話があったわよ。家に来てねって」

 

母がリビングのドアを開け、笑顔で息子を迎える。色白で、若い頃はハッとするほどチャーミングな女性だった。幼い日、母のアルバムを見るのが楽しみで、のぞみと母を自慢しあったが、二人は好対照だった。のぞみの母みどりは背が高く、つんと澄まし顔の美人。恵美子は背が低くて、丸みのある可愛い女性だった。子供はどちらかに似るようで、足して二で割るとは行かないようだ。父の洋は背が高く、姉は父親似だが、優一は母親似で背が高くなく、色が白い。ものごとにあまりこだわらないタイプで、優一は母の性格が好きだ。

 

―――さて、約束だから、のぞみんちへ出かけるとするか‥‥‥。

 

自室のドアを開けると机の前を素通りし、優一は南窓のカーテンを開け、ぼんやりと眼下を眺める。丘陵地に建つマンション八階。眺望は掛け値なしのパノラマで、壮麗なハウステンボスは言うに及ばず、五島列島まで視界に納まり、汽船が小さく煙を吐いていた。

 

九州北部を襲った集中豪雨前、倉田家はマンション右手の分譲住宅の住民だったが、豪雨は容赦なかった。優一が三歳のころのことで、記憶はあいまいだが、鮮烈な映像が一つ脳裏に焼き付いている。その映像は、父の友人たちが避難所へ見舞いに訪れ、熱心に引っ越しを説き始めるシーンから始まっていた。


「いや、駄目だ! 駄目だばい。今、佐世保ば離るるなんて出来んばい。こがん傷ついとーんに‥‥‥、出来るだけ一緒に居たかばい」

 

父の膝と、自分を抱く手が急に熱くなって、優一が驚いて見上げると、


「ゴメン、ゴメン、驚かして。‥‥‥ユウ、よか子やけん佐世保が元に戻るまで、パパに付き合うてくるるよね」

 

笑顔の目が涙を一杯ためて、泣き出しそうに微笑んでいた。祖父の死と、つらかった少年時代。苦学の末の会計士試験合格。のぞみの母との恋愛と破綻。佐世保は、父の人生そのもの―――優一は最近、確信に近い印象を持つようになっていた。


「ふぅっー」

 

机に腰を下ろすと、優一の口から大きなため息が漏れる。父に較べ、中身の薄い青春に思えてならない。帰宅後、最初の作業が宿題の確認なのだ。中学入試からのエスカレーター組と違い、三年遅れの高校受験・外様組は完全に一年、授業が遅れている。六年の一貫教育が謳い文句の学校であった。全過程が高二で終了し、卒業までの残り一年、予備校さながらの特訓が待っているのだ。当然ではあるが、外様組は二年で高校過程が終わらねばならない。短縮は、宿題と確テ(確認テスト)の雨・アラレで凌ぐのだ。無理は承知のはずであった。が、想像を絶する宿プリ(宿題プリント)嵐なのだ。一体いつまで続くのか。本当に追いつけるのだろうか。オツムの程度が分かるだけに悩みは一層、深刻だった。


「行ってきまーす」

 

英語と数学の宿プリをDバッグに詰め込み、マンションを出る。チャリで行こうとチャリ置場へ足を向けたが、急きょ変更。坂道は〈歩き〉に限るのだ。

 

息を弾ませ急坂を上ると、矢岳神社の境内に差しかかる。木々の緑がひんやりと肌に心地よく、背中の汗がスーと引くのが分かった。

 

神社をしり目に、再びTシャツの背中に汗をにじませ三百メートルばかり上がると、シックな豪邸が右手に見える。のぞみの家で、重厚な低いレンガ塀に囲まれ、広々と解放感あふれる二階建て居宅だった。部屋数は幼稚園年長組のとき、一度数えた記憶があるが、いくつあったか優一は忘れてしまった。そんな大きな家なのに、住人はたったの四人。のぞみと母みどり、祖母アイとお手伝いの孝江さんだった。

 

―――ピン、ポーン!

 

門のチャイムを押して、監視カメラにニヤッと笑いかける。


「はーい。当家はただいま、ニヤケの押し売りはお断りしていまーす」

 

のぞみの澄まし声の前に、「カチャッ」と門のロックが解錠された。


「よぅ! チー太郎! よし、よし。―――コラ、コラ! 顔をなめんなって!」

 

キュンキュンと忙しなく尾を振るセパードの頭を撫でる。千加子が「断固! 改名要求!」する愛犬とジャレ合い、眼下に海を見渡す広い芝生を横切って玄関へ着く。


「こんにちは」

 

チー太郎の鼻をつまんで、後ろ手でドアを開ける。


「チー。 ハウスでしょ」

 

やんわりと、ご主人様の命令。チー太郎はすごすごと未練いっぱいに犬舎へ帰って行った。


「おじゃまします」

 

スニーカーを脱ぎ、のぞみの後から海を見下ろす廊下を歩く。当家で一番緊張するエリアで、優一は〈監視・肩凝りゾーン〉と呼んでいた。


「こんにちは」

 

まず最初の部屋の二人に挨拶を送る。


「こんにちは」

 

にこにこと親しみあふれた孝江さんと、どことなくよそよそしいアイの返礼。洋・みどりの結婚反対張本人だが、若干後悔しているのか、優一には控え目である。


「こんにちは」

 

隣室の障子もオープンで、みどりが長椅子に腰掛けて、ファッション雑誌を読んでいた。ソバージュが肩までかかる、色白の美人である。二十代と見紛う若さで、父がうらやましくなるときがある。


「こんにちは、優一君。―――みなさん、お元気?」

 

ワンテンポおいて、みどりは頬にかかる髪をなで上げ、優一に微笑みかけた。


「はい。‥‥‥ええ、元気です」

 

父のことかと、つい勘ぐってしまう。


「さあ、入って」

 

のぞみに促され、彼女の部屋へ入る。二十畳の広さで、マンション暮らしの身にはうらやましい限りだ。中央にソファーとテーブルが置かれ、デスク、パソコンにステレオ、ピアノが東西の壁ぎわに並んでいる。これだけの部屋をもらって、ベッドルームが隣室八畳間というから驚いてしまう。


「ねぇ、なに飲む?」

 

西隅の小さな厨房前に立って、のぞみがソファーの優一を振り向く。


「紅茶がいい。アイスティー」


「分かったわ」

 

美人ウェイトレスを待つ間、優一はテーブルのファッション雑誌をパラパラとめくる。のぞみも、やはり女なのだ。オーダーするのか、ところどころ書き込みと修整が入っていた。


「さあ、出来あがり」

 

シュワッ! と、レモン臭の刺激に、優一はあわててビキニモデルから目を移した。


「どうする? 先に宿題をする?」


「うん? ‥‥‥いや、のり子の話でいいよ。何か問題でも?」

 

優一は目のやり場に困ってしまう。目線の先がスカートの奥なのだ。


「あのねー」

 

知ってか知らずか、のぞみは足を組んできれいな太ももをさらけだす。


「なんだい?」

 

のぞみの顔に視線を戻し、優一はひたすら平静をよそおう。


「うん。のりっぺ、最近ずいぶん思い詰めているようなんだ―――南のことで。ユウ、知ってる?」


「さあ‥‥‥」

 

昨日も駅前で、トボトボと寂しそうな後ろ姿を見かけたが、優一は知らんふりをした。


「なぜのり子みたいな優しくていい子が、不良の南にあそこまで尽くすのはね」

 

のぞみは一呼吸おいた。


「―――実は六年前の、小学校四年のときに遡るんだ。―――ユウ、覚えてる? 南が大きな野犬に襲われて、背中に大けがしたのを」


「うん、知ってるよ」

 

優一は力なくつぶやいた。実は自分もその場にいたのだ。


「あれはね、南がのり子の身代わりになったんだ。咬まれる寸前、南がのり子におおいかぶさったんだって」


「‥‥‥」

 

あのとき震えるだけで、優一は何も出来なかった。首が咬まれないことだけ、祈っていた。


「くそー! 負くるもんか! ワー!」

 

咬ませるだけ咬ますと、大声を上げ、南は反撃に転じたのだ。血だらけの右手を振り上げ、鬼のような形相だった。このことがあってからだ、南の肝が据わったのは。泣き虫だったのに、急に喧嘩も強くなった。

 

野犬が去って、のり子は泣きながら、


「竜ちゃん、ごめん。竜ちゃん、ごめん」

 

ハンカチで、体中の血を拭いていた。

 

一番みじめだったのは優一で、のり子と病院へ見舞ったときも、うつむいたまま口もきけなかった。


「‥‥‥ユウ、のり子。こりゃおい達だけん秘密だぞ、誰にも言いなしゃんなや」

 

母親が病室を出ると、竜児は優一の手を握って、思い詰めたような顔で念を押した。


「ごめん」

 

優一が泣きそうな顔で謝ると、


「ええんや、これでおあいこや」

 

竜児はようやく無邪気な笑顔を浮かべたのだった。あの時、竜児の負い目が初めて分かった。優一に大きな恩義を感じ続けていたのだ。小一の出来事を、彼は忘れていなかったのだ。母に頼まれ、保険証と財布を野田歯科の祖母に届ける途中、優一は竜児と父親に出くわした。竜児の父は仲間の金をくすねたらしく、三人の男たちに殴る蹴るの暴行を受けていた。泣きながら父にしがみつく竜児が哀れで、優一は黙って男たちに祖母の財布を差し出した。いくら入っていたのか知らなかったが、男たちは中身を確認すると捨てゼリフを吐いて去って行った。祖母は優一が財布を落としたと思ったのだろう、


「ええんやで、ユウちゃん。お祖母ちゃんが落としたことにしとくけん、お父さんとお母さんに内緒やで」

 

歯科の待合いで、優しく孫の肩を抱いて微笑みかけたのだった。


「ね、ユウ。南のヤツ、ちょっと甘えてると思わない。そりゃあ、のり子を助けたかも知れないわよ。でも六年も前のことで、たかが野犬に咬まれたくらいで、―――何よ!」

 

のぞみは、どん! と、テーブルを叩いた。現場にいなかったので、足のすくむ震えの止まらない恐怖は感得できないのだ。優一は死の危機に襲われてしまって、未だに血に染まる―――傷だらけの竜児が夢に現れるほどなのだ。


「のりっぺはね、本当はあのとき自分は死んでいたはずだって言うのよ。だから、南君は命の恩人だって。命をかけて彼を更生させたいって、思い詰めているの。でも南は、そんなのり子の気持ちを全然分かってないんだ」

 

のぞみは下唇をかんで、天を仰いだ。のり子の気持ちを思うと、涙が溢れるほどの怒りと悲しみが込み上げてくるのだ。


「ね、ユウ。何とかならないかな。南は番はってワルだったけど、不思議とユウの言うことは聞いたじゃない。―――ね、のり子の借りは帳消しにしてやってもらえないかな。これまで随分つくしてきたんだから」

 

のぞみの口から漏れたのは、感動物語だった。中学時代、のり子は竜児の家庭教師をしていたのだ。ワル番だった竜児が、なぜ工業高校に合格できたかの奇跡が、いま解き明かされたのである。


「‥‥‥うん、分かった。一度、竜児のアパートへ行って、彼と話してみるよ」


「ありがとう、やっぱりユウね。でも出来るだけ早く行ってね。のりっぺ、相当あぶないとこまで来てるから」


「うん、それじゃ」

 

立ち上がって帰り支度をすると、


「ねぇ、何考えてんのよ。宿題しないで、どうすんのよ」

 

背中のDバッグを引っ張り、のぞみが優一を呼び止めた。


「いいよ。自分でするから」

 

手伝ってもらう気など疾(と)うに失せてしまっていた。とっくに終わった事件―――と思っていたのに、のり子は修羅場をくぐり続けてきて、いまも苦悩のどん底にあるのだ。気分最悪、視界真っ暗。おまけに今夜は、徹夜の予感であった。

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