第3話 スコット侯爵領(1)

 久々の立派な食事に舌鼓を打ち、オリヴァーは満足な気持ちになって食堂を出た。家で出る食事がこんなにも美味いものだと知れたのは牢での悲惨な扱いのおかげだ。硬くなったパンに具もろくに入っていないスープ風味の水が一日に一度出ればいいほうだった。


 温かくて野菜がたっぷり入ったスープにまだ温かさが残るふわふわのパン、肉汁がたっぷりとつまったジューシーなウインナーに新鮮な卵を使用した目玉焼き。付け合わせの野菜もシャキシャキとして歯ごたえがよかった。シェフお手製のドレッシングはほのかに酸っぱくて野菜の味を引き立てた。フルーツを絞ったジュースも格別だった。


 小食であったけれど、今朝は家族が目を見張るほど食事にがっついてしまった。みっともなかっただろうか。まあ、まだ十歳の子供だから許されるだろう、と勝手に判断してオリヴァーは自室に向かって歩き出す。


「……一体、どういうつもりだ」


 後ろから低い声が聞こえて、オリヴァーは足を止める。以前までなら兄に声を掛けられようとも無視していたけれど、むやみに人を敵に回すのはよくない。まあ、兄との関係はすでに最悪だから、今更かもしれないが。オリヴァーは笑みを顔に貼り付ける。


「どういうことですか?」


 振り返りながら尋ねると神経質そうな鋭い目がオリヴァーを捉えた。細身のメガネが余計にそれを際立たせる。


「ルドルフ殿下の従者を降りる件だ。あれほど躍起になっていたではないか。……何を企んでいる」


 その問いかけにため息が出かけて、ぐっと飲みこんだ。むしろ従者になったほうが兄にとっては不都合だろうに、何に突っかかっているのか。


「ルドルフ殿下の苛烈さは兄上もご存じでしょう?」


 自分だってルドルフの従者になどなりたくないはずだ。口には出さないもの、ルドルフの噂話を耳にするたび顔を顰めていた。今の一言で意思は伝わったかと思うが、兄は何も言わずにオリヴァーを見つめている。仕方なく話を続けた。


「他意などないですよ。……それに俺がルドルフ殿下の傍にいるほうが、兄上にとって迷惑ではないですか?」


 前回での人生で兄は早々に敵に回った。


「それはお前の行動如何によるだろう」


「まあ、それはそうなんですけど。ルドルフ殿下が何を考えているのか、兄上が知らないはずはないですよね」


 兄の眉がピクリと動く。


「俺が従者になれば急進派が勢いづくのは間違いないでしょう。いくらスコット家が中立だと言っても、二人の息子が両派閥にいればお家騒動に発展する可能性だって出てくる……、かもしれないでしょう?」


 あくまでも仮定の話です、とオリヴァーは付け加える。


「俺としてもそんなことに利用されるのはまっぴらごめんですし、どうせあと三年後には進学で王都に戻ってくる予定です。それまで領地でゆっくりしたいだけですよ」


「そうか……。あれほど嫌がっていたお祖父様のいる領地へ行くなんて、何を考えているのかと思ったが」


「……お祖父様」


 すっかり忘れていた。オリヴァーは頭を抱えそうになるのをぐっと堪えて床の絨毯を見つめる。これまでスコット家では文官が多かったが、祖父は根っからの武官で先の戦争では功も立てている。爵位を父に譲ってからは領地に引っ込んで騎士を育てているのだが、あまりに厳しい訓練に死者すら出ているとかいないとか。祖父に鍛えられたスコット家の騎士団は強くて有名だ。


 息子だろうが孫だろうが男と見れば鍛えることしかしない祖父にオリヴァーは苦手意識を持っていた。


「まあ、いい。折角の機会だから、お祖父様に鍛えてもらうといい」


「……お兄様もご一緒しませんか?」


「全く気持ち悪い。するわけがないだろう」


 兄はぴしゃりと断るとそのまま歩き始めてしまった。ルドルフの従者を我がままで断ってもらう以上、舌の根が乾かぬうちに前言を撤回し、領地に行くことを白紙に戻すのは土台無理な話だ。


 スコット侯爵領はヴォルアレス王国の南西、温暖な気候で農業が盛んであり海に面していることもあって漁業も行われている。元々は海からやってくる賊や他国の侵攻を防ぐため、初代スコット家当主がこの地を任された。それから約四百年。領都シエムは王都に次ぐ大都市に成長した。侯爵家の城はその領都のはずれにある。


 王都から馬車で三日ほどかけてオリヴァーはようやく領地に足を踏み入れた。春先のうららかな日差しが耕されたばかりの大地に降り注いでいる。海に近いこともあって風は強く肌寒い。早朝にも関わらず領民達はすでに活動を始めていて、これから夏に収穫する作物の種まきをしていた。


 オリヴァーは馬車に揺られながらぼんやりとその景色を見つめている。


「オリヴァー様。本日も気候が良いこともあり、城へは昼過ぎに到着する予定です」


 対面に座る男はオリヴァーの教育係兼監視のヨハネスだ。彼はオリヴァーより十歳年上であり、最年少で王都の高等教育機関を卒業した天才と呼ばれている。数学や語学にも精通していて、もっぱら得意分野は歴史で研究にも従事していた。そんな彼がなぜ侯爵家の教育係になっているのかは謎であるが、前回での人生では最低限のことしか教えてもらわなかったのでもう少し彼から学んでみてもいいかもしれない。


「どうせ着いたらお祖父様の挨拶……、という名の鍛錬があるでしょうから、先生は部屋でゆっくりなさってください」


「せっかくですから私も参加しますよ」


 てっきり体を動かすことなどあまり得意としていないと思っていたので、ヨハネスのその返答は意外だった。


「いいんですか? お祖父様は結構、いや、かなり厳しいですよ」


 ヨハネスはニコリとほほ笑む。分かっていると言いたいらしい。まあ、一人でしごかれるよりも道連れがいるならば視線をそらしやすくもなる。


「そのまま真っすぐに城へ向かってしまってよろしいですか?」


「そうですね。お祖父様も待っていることでしょうし……」


 本音を言えば市場なども見てみたいが、護衛の騎士達も三日間の移動に疲れているだろう。


「護衛の皆さんも疲れているでしょうから」


 にこりと微笑むとミハエルも合わすように笑った。何を考えているのか底の見えない笑みにオリヴァーは胸の内で毒づいた。





 ほぼ定刻通りスコット城に馬車は到着した。出迎えに祖父の姿は見えず、庭の奥からは元気な怒声が聞こえてくる。


「ゴラァ! あと三週追加じゃあ!」


 今日からあのしごきを受けなければならない

と考えるだけで肝が冷える。オリヴァーが馬車から降りるとずらりと並んだ使用人たちが一斉に頭を下げた。


「オリー、ようこそいらっしゃいました。長旅で疲れたでしょう?」


 出迎えてくれたのは祖母のビアンカだった。祖父とは打って変わって優しい祖母にオリヴァーは「お祖母様!」と抱き着く。ふんわりと柔らかい感触に花の香りが漂ってきてとても落ち着く。


「お久しぶりです。とても会いたかった」


「ええ、私もよ。ほら、中に入りましょう?」


 とんとんと宥めるように背中を叩かれ中に入るよう促す祖母の手を制し、オリヴァーは「先に護衛達をねぎらってやってください」と伝える。


「俺はただ馬車に乗っていただけですから、そこまで疲れていません。それにお祖父様への挨拶もありますから」


「あらあらまあまあ」


 他人を気遣う様子を見せると祖母は嬉しそうに笑い、「いつもの場所にいますよ」と祖父の居場所を教えてくれた。これまで他人のことなど気にしたことはなく、特に使用人など人として扱っていなかった。少しでも優しくしてやるだけで周囲の評価は一変する。今はとりあえず地に落ちた人望を少しでも良くするのに努めよう。


 前回の失敗は味方がほとんどいなかったこともある。どんなにオリヴァーが悪くとも、最後まで自分の盾になってくれるような人物がほしい。それは主従関係を結んでしまうのが一番だ。どこかに劇的な出会いは落ちていないだろうか。


 なければ作ってしまえばいいのだが、それにしても人選は必要だ。


 祖母に見送られてオリヴァーは騎士団の訓練場へと向かう。近づいてくるにつれて剣のぶつかる音や人の倒れこむ音、祖父の怒声が大きくなっていく。


「ほら、アラン! 腰が引けているぞ!」


「は、はいっ!」


 少年の声だ。騎士団に入れるのは十五歳を過ぎてからだが、子供でも混じっているのだろうか。祖父は来るもの拒まずなので平民の子供でも剣の稽古を受けたいと言えば二つ返事で快諾していた。それなら今日の訓練はまだ優しいかもしれない。そんな期待を胸にオリヴァーは訓練場へと入っていった。


 オリヴァーが姿を見せると騎士たちが敬礼をする。


「お、オリーか。よく来たな」


 祖父はオリヴァーと年がそう変わらない少年に剣の構え方を教えていた。少年もちらりとオリヴァーを見るとすぐに目を逸らしてしまう。祖父はそんな少年の肩を叩き「紹介しよう」と彼をオリヴァーのほうに向かせた。


「北東のザセキノロンから来たアランだ。当面の間、うちで面倒を見ることになった。年はえっと……」


「八つです」


 はっきりと答える姿を見ると利発そうな少年だ。モスグリーンの癖のある髪の毛が印象的だった。


「あともう一人、ジュノ辺境伯の息子も来てるんだが、あやつはどこへ行った!?」


 知らない間にいろんな人物がこの領へ来ていて驚く。それだけ祖父に人望があるということだろうか。ザセキノロンにしてもジュノにしても国境を守る国においては重要地点だ。祖父の元で学んだことは領地に戻ってからも役立つだろう。


「構いませんよ、お祖父様。この城に滞在しているのなら、いつかは会うでしょう」


「まあ、そうだな」


 ふん、と荒く息を吐くとにやりと笑ってオリヴァーを見る。


「折角、来たんだから、手合わせするか?」


「……お手柔らかにお願いしますよ、お祖父様」


 たった十分ほど打ち合っただけだと言うのに、容赦ない祖父のしごきにオリヴァーは立てなくなった。


「どうした? オリー。もう終わりか」


 文句を言ってやりたいが、息を吸ったり吐いたりするだけで精いっぱいのオリヴァーは言葉も出ない。見守っていた騎士達ははらはらとしていて、ミハエルは顔色を変えることなくにこにことしていた。


「まずは体力を付けるところから始めないといかんな。明日は朝から走り込みをせい」


「……わかり、ました」


 領地へ来たのだから領都の市場へ行ったりしたかったが、ここでは領主代行をしている祖父の命には逆らえない。当面の間は走り込みや剣術の稽古で忙しくなるだろう。そう急がなくても時間はまだまだある。何とか息を整えて立ち上がると、くりっとした髪の毛が視界に入った。


「……大丈夫ですか?」


 顔を覗き込まれて、一瞬、表情を作り忘れる。慌ててにこりと微笑み「ありがとう」と手を貸そうとするのを制してオリヴァーは城に向かって歩き始めた。祖父は彼の出自をはっきりと言わなかったが、わざわざここへ来るぐらいだから地方貴族の息子なのだろう。けれど仲良くするつもりはあまりない。





 日が暮れて夕食の準備が出来たと使用人から言われ、オリヴァーは自室を出た。体が軋んで痛い。祖父は軽くのつもりだったかもしれないが、王都の屋敷では運動などほとんどしていなかったためオリヴァーは付いていくこともできなかった。同年代の男と比べても体力はないほうだ。そもそもスコット家で祖父だけが異常なのだ。この祖父から生まれた父だって運動は得意でなく、兄は言うまでもない。筋肉だって付きにくいし、運動神経だっていいほうとは言えず、頭を使う方が断然楽だった。


 しかしそんなオリヴァーの都合など、祖父には通用しない。やらないからできないだけだと根性論を突きつけてくる。そんな考えの違いもあって前回の人生では幼少期に仲違いしたまま滅多に会うことはなかった。


 武器は使えるほうがいい。王立の学校に進学すれば授業で嫌でも武術を習う。ルドルフは槍を得意としていたので、槍術部に入っていた。オリヴァーも付き従うように槍術を習っていたが、見ているだけで自身が槍を使う機会はほとんどなかった。


 今日も剣を少し使っていてよく分かった。自分はこちらの方が向いている。


 食堂に入ると見慣れない赤毛が飛び込んできた。砕けた態度で祖父と話していて、祖父もそれに嫌な顔をしていないところを見ると仲がいいようだ。


「オリー。こやつがジュノ辺境伯の嫡子、バルナバスだ」


 祖父が彼を紹介すると、バルナバスは立ち上がってゆっくりと胸に手を当てる。

「初めまして、スコット侯爵令息。バルナバス・フォン・ジュノと申します」


 美しい所作だった。ボウ・アンド・スクレープ一つだけで彼が貴族の令息としてしっかりと教育を受けているのが良く分かる。祖父の訓練を抜け出していたようなのでとんでもない放蕩息子なのかと思いきや、礼儀はちゃんとしていた。


 人懐こい笑みを向けられ、オリヴァーもにこりと微笑む。


「初めまして。当面の間、こちらで生活することになりました。どうぞオリヴァーとお呼びください」


 辺境伯と言えば地位としてもかなり高い。彼が味方になってくれればとても心強い。一緒に生活をしていけば悪感情を抱かせない限り、それなりの情は生まれるだろう。


 そんな下心をオリヴァーは笑顔で隠した。

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