吉田と高藤

おいしいお肉

第1話

 朝というのは誰にも平等に訪れる。それがたとえ人殺しの犯罪者でも、くたびれた社会人でも、生まれたての赤ん坊にも、同様に。太陽は麗らかな光を持って朝の訪れを祝福し、月はまた眠りにつく。

 この世界が始まって、ずっと変わらないもの。太陽と月のように。

 朝と夜を繰り返すように、吉田の一日は停滞に満ちている。

 

 吉田はまず、毎朝六時に起きる。アラームがなる前に目が開いて、彼女はその大きな体をベットから起こす。日本人女性の平均身長を大きく上回る自らの体躯を邪魔くさいと思いながら、盛大なあくびを溢した。

 洗面所に向かい、洗顔をして髪の寝癖を治す。そして歯を磨く。眠たそうに目を擦る吉田の顔はぼんやりとした肌色の輪郭をしていた。

 

 ──変わらない。大きくて、ぼんやりとした、生き物。

 鏡の中の吉田は二十代前半とは思えないほどくたびれていた。寝巻きのくしゃくしゃに着古したスウェットが、朧げな彼女の輪郭をさらに曖昧にしているように見えた。耳にかかるくらいの焦茶色の髪が、バサバサと野放図に伸びている。

 吉田はため息をつくと、クローゼットから適当にブルーのシャツと黒のスラックスを選んで、身につける。そうして薄く化粧を施す。吉田は服にこれといったこだわりを持たない。服屋に行き、入るサイズのものを見つけるとそれを複数枚買い、着回す。

 毎日洗濯した服を身につけ、最低限の化粧をする。

 めんどうくさい、と吉田は思う。

 しかし、逆説的に言えば「これさえしておけば文句は言われない」だからやっている。

 自分のためのものではない。社会性を身に纏うための身支度。なんて無意味な行為だろう。そんなふうに思いながらも、枠組みから外れた時に誹りを受ける覚悟はない。

 

 などとつらつら考えながらも、手を機械的に動かし身支度を整えて、七時に家を出る。

 

 コートを羽織り、黒のフラットシューズを履いて、アパートから歩き出す。寒さに震えながら駅に向かい、電車に乗る。車内は、吉田と同じように仕事へ向かう人で溢れかえり、混雑していた。潰されるほどの混雑ではないが、席に座れるほどではない。なんとも微妙な具合だ。

 朝八時、出社。

「おはようございます」

 社員証を首からかけ、タイムカードを押して、机に向かう。同僚たちはまだ少し眠そうにしている。吉田は自販機で買った缶コーヒーを飲みながら、仕事を始めた。

 パソコンを開き、メッセージを確認する。

 前日までの仕事を思い出し、続きから。あるいは新規のものがないか確認し、適宜振り分けていく。そうして期日を確認し、優先度の高いものから手をつけていく。吉田の迷いのない仕事ぶりは社内でも有名だ。

 

 正午。昼休みになれば仕事の手を止め、昼食をとる。弁当を買いに行くひと、持参した弁当箱を広げる同僚、外に食べにいくひと、各々が昼休みという限られた時間を、昼食を取るために使う。吉田も仕事の手を止め、食堂に向かった。

 吉田は券売機の前で悩む人を追い越し、金を入れると迷いなくボタンを押した。彼女は決まって、日替わり定食を頼む。

 食券は五百円。毎日同じものを頼むので、食堂のスタッフは彼女を「日替わり定食」というあだ名で呼んでいる。

 吉田にとって、食堂で提供されるものは美味しくもないし、不味くもない。

 食券を食堂スタッフに渡す。運ばれてくるおかずとご飯を見ながら、吉田はぼんやりとした様子で午後の仕事のことを考えていた。

 

 ──早く帰りたい。


 今日の定食はミックスフライと、水っぽいキャベツと、煮詰まって塩辛い味噌汁。

 それから大盛りのご飯。吉田は男性社員顔負けの量を食べる。定食は可もなく不可もなく、やや脂肪分が多い傾向にあるが、概ね正常の範囲内だ。

 吉田は定食が出来上がるのを待つと、さっと受け取り食堂のはじの方に一人で腰掛けさっさと食べ始める。黙々と飯を吸い込んで行く様は、味わうと言うより作業に近かった。

 ミックスフライの衣は、油っぽくて高温で揚げたせいなのか焦げのような苦味がした。ソースを掛けて白飯で掻き込んでいく。吉田にとっては何を食べても同じだ。

 

 休憩が終わり午後一時から業務再開。

 席に戻り、ひたすらに仕事をこなし、書類を捌き、キーボードを叩く。

 胃が昼飯を消化している間、脳には血が回らなくなる。吉田も少しだけウトウトしてしまったが、目薬を差して眠気を撃退する。それでも、指の動きは鈍くなっていく気がした。

 

   

 午後六時。

 終業の合図とともに席を立つ。「お疲れ様でした」と同僚に声をかけ、タイムカードを切って、吉田は定時で帰宅する。同僚たちはそんな吉田を「定時帰宅の鬼」と呼んでいる。閑話休題。

 吉田はコートを羽織ると会社から駅へ、駅から自宅へ向かう。朝とは逆の道を、同じように電車に揺られてたどる。

 午後七時。帰宅と共に、夕食を食べる。外で食べることもあるが、自炊する方が安上がりなので、なるべく自炊している。

 近所のスーパーで大量に買った冷凍食品のうちからどれかを食べる。最近は安売りしていた十二個入りの餃子、それからインスタントの味噌汁、余力があれば白飯を炊き、腹に詰め込む。腹を満たせればなんでもよかった。

 洗濯物が溜まっていればそれを洗い、干し、ゴミを纏め、汚れが気になればその場所を掃除し、食器がシンクに溜まれば洗う。

 雑事をこなし、風呂に入り、髪を乾かし、諸々の身支度を整え、午後十時には就寝する。彼女の一日は終わる。そして朝日が登ればそれの繰り返しだ。

 眠くてもそうでなくても、必ずベットに入り、寝る。そうしなければ延々と起きてしまう。

 夜が来るから眠る。朝が来るから起きる。そうでなければ、彼女は永遠に眠り続けるだろう。

 吉田文香の生活は、規則的で整然としていた。彼女に趣味はなく、日々に大きな変化はない。彼女を知るものは、彼女を人形のようだと言った。

 楽しむことを知らず、仕事と家の往復するだけの日々。無味乾燥とした人生に、苦痛を覚えることはない。

 それこそが吉田だった。

 

「もしもし──」


 だから、吉田を気にかける人なんていないし、吉田が誰と電話しているかなんて誰も知らない。


 □ □ □


 高藤の世界は概ね混沌に満ちていた。彼女の世界は好きと嫌いと気分で周り、行動に一貫性はなく、言動に意味はなかった。

 高藤がオギャアと生まれてから二十と幾年。彼女が継続できたのは仕事だけだった。

 金がないからと始めたバイトは上司が嫌になってバックれ、結婚でもしようかと始めたマッチングアプリでは面倒くさくなり連絡を無視し、そのムラっけのある態度から他者からは裏表が激しいと倦厭された。高藤の人間関係は終わっていた。

 

 しかし、そんな高藤にも一つだけ誰にも真似できない特技があった。掃除することだ。

 なぜか、高藤には掃除の才能があった。あらゆるガラクタを解体し、こびりついた澱みを濯ぎ、不要なものを消し去る。綺麗にするのは床、壁、世界、秩序、あるいは人間。

 依頼を受けて、対象を始末する。それがガラクタであっても、人間であっても高藤は構わなかった。金さえもらえればなんでもよかった。 

 金さえ出せば何でも片付ける高藤の仕事は一部で評判が良く、さまざまな人間に重宝された。やる気がある時しか依頼を受け付けないのがネックだったが、それでも客足は途絶えない。世の中、どの業界でも人材不足らしかった。

 

 

 電話が鳴ったのは、高藤がそろそろ寝ようとベットに入り込んだ時だった。

 時刻は午後十二時。太陽が燦々と照りつけ、レースのカーテン越しに刺す光が目に痛い。絶好の昼寝日和だ。彼女の携帯に表示されるのはクソ上司の四文字。仕事の電話だ。

 高藤は充電器から携帯を外すと、しげしげと画面を眺めた。

 着信三件、そうして、これを無視すれば着信の数はさらに増えるだろう。普段なら無視するところだが気づいてしまったからには、仕方ない。高藤は電話を取った。

「もしもーし、何」

「高藤、依頼だ」

 上司の往年のスパイ映画のような口上に、思わず高藤は吹き出した。

「君から仕事以外の連絡なんて来ないじゃーん。何それカッコつけてんの?」

 棒切れのような体をベットに横たえたまま、高藤は携帯越しの上司に話しかけた。

「格好をつけているわけではない。ただ、やっかいな仕事でな。お前にしか頼めない」

 はあ、と上司のため息が聞こえた。社会の荒波にくたびれて揉まれた男にしか出せない哀愁が漂っている。高藤には、彼が胃のあたりを抑えながら、目頭のあたりを揉んでいる様子が想像できた。

「え、何それ訳あり?やだよ僕、面倒臭いのはごめんなんだけど」

 高藤の気分が乗らなければ依頼は受けない。上司も知っているはずだ。のらりくらりと面倒ごとを避けて、人生の美味しい部分だけを啜って生きていきたいのが高藤だ。だというのに、上司は引き下がらない。

「頼む。依頼人からは金も通常の倍額出すと」

「ふーん?」

 上司の苦々しげに絞り出された声が、悲壮感を漂わせる。

 逆に言えば、金さえあれば高藤は動く。シンプルな理屈だ。

「特記事項に関しては、詳細を送る。それで確認してくれ」」

 高藤は濡れたまま放置してぼさぼさの髪を、床に落ちていた櫛で梳く。絡まった髪が引っかかって何本か毛が抜けたが、高藤は特に気にする様子なく櫛をその辺に置いた。

「はいよ、詳細送って。時間と、場所と、始末するもの。よろしく」

 端的に告げると、高藤は寝巻きを脱いだ。

「ああ、助かる。さすが、うちのエースだ」

 取ってつけたような世辞はただ薄寒く、高藤の耳元を吹き抜けていく。

「あー……そういうの、いいから。お金さえくれれば」 

 お前はそういうやつだよ、と言わんばかりの上司のため息。そうして電話は切れた。

 

 数分後、上司から詳細の添付されたメールが届いた。高藤は携帯のメーラーからそれを開いて、内容を確認する。さっと内容を斜め読みし、削除する。

 詳細に添付されていた標的の写真は、いかにも平凡で荒事とは無縁に見えた。

「吉田──えー、あやか?」

 切手ほどの小さな顔写真の中で、ターゲットの女はむっつりと押し黙ってこちらを見ている。

 経歴もなんら怪しいところがない、表側の人間。そんな人間を、殺したいと思っている誰かがいる。

 真っ当に働き、真っ当に世間の歯車として生きている、普通のひと。

「特記事項……」

 必ず彼女が死ぬ瞬間を確認することとだけ書かれていた。極めて当たり前のことだ。ターゲットを殺し損ねてしまえば、信用を失う。不完全な業務というのは、どの業界でも嫌われる。社会の常識だろう。まあ、高藤にはあまり関係のないことだが。

 高藤は一通り書類を確認し終えると携帯を放り投げ、目を瞑り、写真の中のくたびれて色のない女に、小さじいっぱいばかりの哀れみを贈る。そして、約七時間後の仕事に備えて眠った。

 

 □ □ □

  

 その日、吉田はとても疲れていた。

 現在時刻は午後十時。普段ならとっくに帰宅し、風呂に入り、就寝している時間だ。だというのに、この有り様はなんだ。吉田は何度目かわからない大きなため息をついた。

 

 今日も、吉田の仕事は完璧だった。寸分の綻びもなく、過不足はなかった筈だ。

 しかし、己に過失が無かろうとも終業ギリギリになって、同僚の仕事のミスが発覚。それが大手の取引先とのやりとりで起こったものだというから、社内は騒然。社員総出で平謝りと尻拭いに奔走することとなったのだ。

 想定外の残業というのは、さすがの吉田も疲弊させた。

 ミスした同僚に嫌味の一つでも言ってやりたいところだったが、炎天下に晒されたミミズのように干からびた同僚の姿を見るとそんな気持ちも失せる。

 社員総出の尻ぬぐいのおかげでその場はどうにかなったものの、仕事は立て込み、結果として吉田の帰宅時間は大幅に後ろ倒しとあいなったわけだ。

 ──疲れた

 体が重い。パソコンの画面の見過ぎで目が痛い。長時間机に齧り付いたせいで肩が酷く重い。まさしく死に体。吉田は体にまとわりつく疲れを引きずって歩く。さっさと家に帰って寝たい。明日のことなど考えたくもない。脳が疲弊すると、全ての事柄が急速に面倒臭くなっていく。

 夕飯を食べる気力があるだろうか、と考えながら駅から自宅に向かう。空腹のピークを過ぎてしまっているせいか、どうにも腹が減っていないのだ。

 

 ──よくない兆候だ、と吉田はため息を吐いた。


 吉田の吐く息は即座に白く染まり、今が冬であることを嫌でも実感させる。街灯が少なく真っ暗な道は、そんな息すら闇に溶かしてしまう。寒さと疲労が、吉田の足を重くしていく。

 ──明日に疲れを持ち越したくない、しかし飯を食う気力が湧かない。このまま寝てしまおうか。いやしかし、化粧を落として風呂に入らなくては明日に差し支える。エトセトラ、エトセトラ。

  吉田は考え事をしながらも、すれ違う人と距離を取り、車が来ていないかなどを確認しながら、家に向かって歩く。この時間でも、この辺の道路はポツポツと車やバイクが通るから油断はできないのだ。

  

 ふと、吉田の後ろから、誰かが通り過ぎていくのが見えた。そうして、誰かは吉田を追い越すと、三歩ほど進んで街灯の下で止まり、くるりとこちらに向き直った。

 自然と、吉田と誰かは向き合う形になる。

 それは、じっと、吉田を見ていた。深く被ったフードの下から、ざんばらな長い金髪が覗いている。吉田よりも頭一つ分ほど小柄で、オーバーサイズのパーカーを着ているからかボディラインなどは分かりづらいが、おそらく女性だろう。

 女性のらんらんと輝く青い目が、吉田を捉えている。どうしてだか、吉田の背筋にぞっと寒気が走った。蛇に睨まれた蛙、まな板の上の鯉、そうして喉笛に爪を立てられるヴィジョンが吉田の脳裏に浮かんでは消えていく。

「こんにちは」

 にこりと、女性が笑みを浮かべた。からっとしているのにまとわりつく様な不思議な声だった。

「……こんにちは」

 夜にはそぐわない挨拶だな、と呑気なことを考えながら吉田は答えた。吉田の挨拶に気をよくしたのか、女性は目を細めてうんうんと頷いた。

「ちゃんと挨拶返せるのえら〜い!」

 先ほどの雰囲気を消し去るような、朗らかで明るい声だった

「はあ、ありがとうございます?」

 一体なにを褒められているのだろう、と首を傾げながら、吉田は女性に礼を言った。

「じゃ、僕もちゃんと挨拶するのが筋だよね」

 そして、女性が小さな銃を構えた。どこから取り出したのか、とか、一体何の冗談だとかそんな言葉を漏らす暇もない。あまりの非現実っぷりに吉田の理解が宙を舞う。

 人を殺すための道具、日常には決してそぐわないそれ。

 

 女性はためらいもなく、引き金に指をかけて──そうして、弾丸が吉田の眉間をぶち抜いた。


 音も無く、あまりにも静かな一撃だった。

 吉田のシャツに、ぼたぼたと真っ赤なシミが広がっていく。なんとも景気の良い吹き出し具合だ、と吉田は他人事のように思う。

「……あ?」

 両手に、足に、道路に、ぼたぼたと血が流れていく。その割に痛みがしない。

 そういえば、人は死を目の前にすると脳内の快楽物質を過剰分泌すると聞いた。死に近付けば近づくほど、気持ちがいいらしい。真偽のほどは定かではない。 

 現実逃避にどうでもいいことを考える。吉田は霞んでいく視界のなか、女性を見つめた。

 そうして意識が遠のいていく。立っていることができず、体を道に投げ出す。ほおで感じるアスファルトの床の寝心地は最悪だった。

 ああ、まただ。吉田は目を閉じる。

「さようなら」

 ひらひらと、女性が先ほどと変わらない笑みを浮かべて手を振っている。幼子のような声が、吉田に別れを告げた。吉田の耳も完全に聞こえなくなって、音が途絶えて──



 □ □ □

 

 退社後。吉田は最寄り駅近くの喫茶店で夕飯を食べていた。

 昨日の残業の疲れがまだ残る体は、少し重たい。そして怪我による疲労が取れないせいで、寝ても寝ても脳の動きは鈍いままだ。

 たった一日のペースが乱れただけで、吉田のルーチンはガタガタだ。それが情けなく、恥ずかしい。

 はあ、とため息ひとつ吐くと、対面に座る女性はあからさまに嫌そうな顔をした。吉田のルーチンを崩した張本人。

「辛気臭いなあ。カビ生えそう」

「文句があるならどこかに行ってくれませんか、えーっと」

「僕のことは高藤って呼んでね。お姉さん」

 にこり、と高藤は笑った。

「はあ」

「お姉さんの顔、僕の好みだからさ〜もうちょっと笑ってくれるとなおいいんだけど」

「それはどうも」

 お褒めに預かり光栄です、と全く感情の篭らない声で吉田は答えた。

「ねえ、ところでさ〜お姉さんはコーヒー派?ココア派?ちなみに僕はどっちも嫌い!」

 高藤のなぜ聞いた、と言わんばかりの問いかけに吉田は答えない。

「はあ」

 代わりに、相槌とも溜め息とも取れる曖昧な言葉を返した。

 無愛想なウエイトレスが、食後に吉田の頼んだアイスコーヒーと女性の頼んだホットココアを置いていく。店内に二人以外の客はおらず、寂しい印象を受けた。

「お姉さんは?」

「特には」

 吉田に好き嫌いはない。子供の頃からなんでもよく食べたせいなのか、身長はにょきにょきと伸びて、今では一八〇センチもある。

 おかげで、日本人女性の平均的なサイズ展開の国内ブランドの服はほとんど入らなかった。吉田が着ている服の大半がメンズのものだった。

「本当に?」

「学生時代は、同級生の嫌いなもの全部押し付けられていました」

 トマト、牛乳、ピーマン、タケノコ、きゅうり、数え出せばキリがない。ありとあらゆる同級生の嫌いなものが彼女の皿に乗せられ、彼女の胃に吸い込まれた。

「カワイソー」

 対照的に高藤はとても小柄で、身長は吉田の胸あたりくらいまでしかない。パーカーから覗く首元はほっそりとしていて、どうにもやせぎすな印象を抱かせた。

「馬鹿にしてます?」

「いんやしてないよ」

 苦々しげな表情を浮かべる吉田の様子に気を良くしたのか、女は唇を吊り上げると子猫のような笑みを作った。

「で──聞きたいんだけど、お姉さんって何者?」

 唐突だった。高藤はごく自然に対面に座る吉田の太ももに拳銃を向けて、セーフティを外した。その音は、昨日吉田の脳天を打ち抜いた銃とは異なる音のようだった。

「……ごく一般的な社会人です」

「嘘つけ。拳銃で脳天ぶち抜かれて生きてる奴なんてそうそういないよ」

「そういう体質なんです」

「マジで言ってる?ねえ、流石に僕も信じたくないんだけど──バケモンだったりする?」

「一応、人間です」

 

 吉田文香は人間である。自然妊娠、母の胎で育ち、経過観察を経て病院でおぎゃあと産声を上げた。吉田の父もそれに立ち会ったと聞いているし、異常があるなら健診などで引っかかってしかるべき場所に行くことになっていただろう。

 ──吉田は、ただ異常に体が頑丈で、損傷した肉体の再生速度が速く、死ににくいだけの、人間だ。


「私は──撃たれたくらいじゃ死にません、車に轢かれても死にません、腹を割かれても死にません、血がたくさん出たくらいじゃ死にません、下半身が潰れたくらいじゃ死にません、毒をもられたくらいじゃ死にません」

「十年前、家族旅行の時交通事故にあって、家族はみんな死にました。大きなトラックに激突されて、車も私たちもペシャンコになりました。でも、私は死にませんでした」

「お医者様は奇跡だと言いました。親類もそうに違いないと、言いました」

「六年前、通り魔に刺されました。どう見ても助からない出血量でした。それでも、私は死にませんでした」

「三年前、火災に巻き込まれ、体丸ごと焼けました。それでも私は死にませんでした。」

「お医者様は奇跡だという他ないと言いました、ですが親類は違いました」

「私は化け物の子だと噂されるようになりました。それから、親類とは会っていません」

 そこまで話すと、吉田は一旦言葉を切る。そうして、コーヒーを一口飲むとつぶやいた。

「化け物の子だった方が、マシだったかもしれません」

 吉田はあくまで淡々と事実を告げる。

「ふうん、そうなんだ。じゃあ、現状お姉さんを殺す方法は無いってことでオーケー?」 詰んでんじゃねえかよ、と高藤は思った。

 そもそも、昨日自分を殺そうとした相手と平然と喋っている時点で吉田という女は、どこかのネジが外れている。危機管理能力が欠落していると言い換えても良い。

 死なないから、という慢心ゆえなのか命の危機を前にしても泰然としている。

「さぁ、どうでしょう。私でも全てを試したわけでは無いので……」

 そもそも、吉田が自発的に死のうと思ったことは一度もなかった。なぜなら彼女にとって死とはただ苦痛の延長線上にあるもので、終わりでは無いからだ。

「僕さ、お姉さんを殺すように依頼されたんだよね。んで、依頼主のこと調べたら、君の叔母さんだったんだけどどう思う?」

 高藤はけたけたと楽しそうに笑うと、吉田に向かってティースプーンを向ける。行儀の悪い仕草に、吉田は眉をひそめた。

「あの人たちのやりそうなことですね」

 吉田は極めて無感動にそう言った。

 吉田の叔母は、歳の近い高藤の母を大層可愛がっていたらしいし、その母を奪った娘が憎いのだろう。最後に会ったのは両親の葬式の時なので十年も前だ。一人だけ生き残った吉田に尋常ならざる憎しみを込めた視線を送ってきた叔母を、ありありと覚えている。

 

「お姉さんの体質知ってて黙ってうちに仕事寄越してくるとかいい度胸してるよね」

 成功すれば御の字。失敗したら高藤の過失ということにすればいい。そんなふざけた魂胆でこちらの世界に足を踏み入れるなど、侮辱も甚だしい。高藤の胸の内にはじりじりと小さな炎がゆらめいていた。対照的に吉田の思考はどんどんクリアになっていく。

「慣れてんだね、お姉さん」

「あの人たちは私が疎ましいんでしょう。私が全ての不幸の元凶、ということにすれば楽ですから」

「……なんか、お姉さん可哀想だね」

「はぁ、どうも」

 吉田はコーヒーを飲み終えると、そのまま席を立つ。金は自分の注文分ぴったりを机に置いた。

「……私の義務は果たしました。それでは」

「ちょちょ、待ってってお姉さん。僕まだ聞きたいことが」

「これ以上お話しすることはありません。もう私に関わらないでください、警察に行きますよ」

「お姉さんってもしかしてすげぇ馬鹿だったりする?僕たちが何にも手打ってないわけないじゃん」

「……申し訳ないですけど、もう帰らないと明日の支度が間に合わないので、失礼します、用があるなら明日以降にしてください」

 吉田は高藤の静止を振り切ると、そのまま走って帰宅した。彼女はまだ何か言いたげにしていたが、吉田には関係のないことだ。

 

 吉田文香の一日は、概ね平和だ。そこには秩序があり、規則性があり、平穏と退屈に満ちている。

 

「はぁ〜、また明日出直すかぁ」

 

 残された高藤は大きくため息をついて項垂れた。彼女はこの仕事を諦めるべきか思案する、しかし仕事を遂行しないことには金が手に入らない。ならどうにかしなくてはいけない。吉田の都合など知ったことではないとばかりに、高藤は嗤った。そうして、明日はどんなふうに彼女の前に現れてやろうかと考えながら、高藤はその場を去った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

吉田と高藤 おいしいお肉 @oishii-29

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ