第1話 ある夜の一幕(1)

 古今東西、西洋から東洋に至るまで様々な創作物の中に登場する怪物や妖怪、いわゆる人ならざる者たち。当然空想上の存在にしか過ぎないはずなのだが、それにしてはいくら何でも彼らは事細かに描かれ過ぎではないだろうか。わざわざそんなことまで設定する必要があるのか、と思う人も多いはずだ。

 それに対する答えは非常に簡単で、かつはっきりとしている。


 彼らは実際にこの世界に現れており、その姿や生態を記録に残したものであるからだ。


 一般的に神話や御伽噺と呼ばれているものの中に登場するのは、彼らの姿形をいくらか脚色、誇張したものである。だが殆どがその通りに描かれていると言ってもいいだろう。

 ではそんな存在がいるというのに、なぜ世界は今の形を保っていられるのか。人間たちなどずっと昔に淘汰されていてもおかしくはないはずだ。


 その理由はひとつ、彼らは夜にこの世界に現れて、そして夜だけしかこの世界に留まることができないからだ。そうでなければ文明など発展してはいない。

 人々が寝入る安息の時間であるはずの真夜中にやって来る、人ならざる者たち。一体いつからそうなっているのかは、誰にも分からない。この世界の夜はひとつだけではなく、別の恐ろしい顔も持っている。確実なのは、彼らは明確に人間たちに対して敵意を持っているということだった。


 「開けてもいないのに【扉】を開いて、奴らはこの世界にやって来る。防ぐ方法なんてない」と昔の人間はそんな言葉を残しており、それは今日に至るまで語り継がれている。

 そしてこの日の夜も、【扉】を開いてそれはやって来たのだった。




「一体か。複数じゃないのはいいんだけど、ちょっと大きいな」


 凛はナイフの先端を【扉】を開き、こちら側にやって来た化物──ミノタウロスに向けながら呟いた。姉の悠李を見送った二年前と比べ、凛の身長も伸びている。黒のスキニージーンズに白いパーカー姿の凛の身長は百七十五センチぐらいか。髪型こそ二年前と変わらないが、その顔つきはあの時と同じように美少年のままでありながらも、それにはミスマッチな鋭さを携えていた。


 そんな凛を、ミノタウロスは優に見下ろすことができる。凛の倍とまではいかないが、三メートル近くの大きさはありそうだ。それに加えて盛り上がる筋肉は、人間など簡単に嬲り殺しにできるだろう。

 ミノタウロスが咆哮すると同時に地面を蹴り、凛に向かって走り出した。凄まじい脚力で凛との間合いを一気に潰すと、振り上げた右手を眼前の凛に対して振り下ろす。巨大な槌の一撃を思わせるそれは、凛の頭蓋を容易く叩き割るだろう。──直撃したのなら。


 凛はこの暗闇の中、ミノタウロスの行動をはっきりと見ることができていたのか、横にステップを踏み振り下ろされた一撃を回避する。当然その勢いでは右手を止めることなどできず、右手はそのままコンクリートの地面へと叩きつけられた。

 瞬間、爆音と共にコンクリートが叩き割れる。コンクリートの破片が宙に舞うが、そのひとつひとつを凛の漆黒の瞳は捉えていた。


 しかし、いくら単純な視力や動体視力が優れていても、自分の目の前すら満足に見えないはずの暗闇の中で、そこまではっきりと見通せるはずはない。だが凛の動きは、そうでなければ説明がつかないほど的確で、そして俊敏だ。


「あんまり散らかすなよ!」


 凛はそう口にしながらミノタウロスの背後に回ると、ナイフを振るった。手を伸ばしても急所を狙うのは難しい位置のため、凛の狙いはミノタウロスの脚だ。ナイフの刀身が逞しいミノタウロスの脚を深々と切り裂けば、凛のナイフを握る右手に確かな手応えを伝える。


 痛覚はしっかりとあるようで、人間で言えば太腿の裏を切り裂かれた痛みにミノタウロスは叫び声を上げた。そして背後にいる凛に振り向きながら、無造作に両手を振るう。もしそれを受けてしまえば、骨が粉々になりそうな勢いだ。


 だが凛はその攻撃をその場にしゃがみ込むことでかわすと、今度はミノタウロスの右足の甲にナイフを振り下ろす。ざっくりと突き刺さったナイフを、右足が暴れ狂う前に引き抜いた凛は、低い体勢のまま横っ飛びをしながら左足の甲にもナイフを突き刺す。ギリギリのところで振り払われたミノタウロスの足を回避し、ごろごろと地面を転がった凛は跳ね起きて、素早く体勢を立て直し、ミノタウロスと向き合った。

 集中的に機動力のある両足を狙われたミノタウロスは、再び間合いを取った凛とすぐさま距離を詰めることができない。潮の香りの中に、血の匂いが混ざり始めていた。


(今のところ、他に【扉】が開く様子は見えない──数が増える前にカタをつけた方が良いな)


 凛は冷静に状況を分析するが、その顔にはじんわりと汗が滲んでいた。心臓の鼓動も高鳴り、それがひたすらに凛の耳を打つ。

 凛の目はこの暗闇をはっきりと見通せていた。しかしミノタウロスの攻撃が一発でも凛に直撃すれば、それが致命の一撃になることは明らかだ。それを理解している凛は、見た目ほどの余裕ははっきり言ってない。ミノタウロスは凛の攻撃によって出血しているものの、その体格を考えれば出血多量により戦闘不能に陥るには、まだ時間がかかるだろう。それまでに凛が全ての攻撃を回避できる保証はない。


 だからこそ凛は、勝負をつけるために駆け出していた。凛の狙いはひとつ、急所への必殺の一撃。

 両足を傷つけられ、素早い動きが取れなくなっているミノタウロスは凛を迎え撃つつもりのようだ。雄叫びを上げ、両手を振り上げる。正面から突っ込んでくる凛に振り下ろした両手を叩きつけるつもりのようだ。凛がその両手の下敷きになれば、無残にも叩き潰されてしまうのは確実。


 凛の目が、ミノタウロスの両手が凄まじい勢いで振り下ろされたのを見た。その瞬間、凛はその両手の間合いに入る直前、斜め前方に跳躍する。

 耳元を高速で振り下ろされた手が通り過ぎ、先ほどよりも大きな破壊音が響き渡る。コンクリートの地面はその部分がまるで爆発したかのように、破片と土を撒き散らす。


 凛は着地をした瞬間、今度は真上に跳んだ。凛の左足裏は筋肉が隆起したミノタウロスの腕を踏み台にすると、そのまま前に踏み込み、今度は右足裏で肩を踏みつけ、高々と跳躍する。死角である頭上に跳ばれたミノタウロスは、一瞬、凛を完全に見失った。


「──ふっ!」


 雲の隙間からほんの少し、月が覗いて見えた。その月を背に、凛は落下の勢いを最大限に利用し、ナイフを牛頭の頭頂部に突き立てる。根元近くまでナイフは入り込み、凛のナイフの柄を握る両手に重い手応えを伝えた。迸った鮮血が、凛の白いパーカーを赤く汚していく。


 瞬間、ミノタウロスの絶叫が響き渡る。凛を振り払うように体を大きく捩ると、力なく数歩後ろに後退していく。凛は地面に着地し、ナイフを失った両手で構えを取る。その様子には一切の油断は無い。


 ミノタウロスは頭頂部に突き刺さったナイフを引き抜こうとしたのか、右手を上げようとした。だがその手が力を失うと、前のめりに地面に倒れ込んだ。凛はその様子を見ながらも、構えを解くことはしない。ふっ、ふっ、と短く呼吸をしながら、地面に倒れたミノタウロスを窺っている。


 そしてそれは起こる。地面に倒れたミノタウロスの体が闇に包まれたかと思えば、次の瞬間にはそこにミノタウロスは存在していなかった。凛が牛頭の頭頂部に突き刺したナイフが、地面に転がっているだけだ。


 タチの悪い夢、凛が見た幻──そうではないことは、破壊されたコンクリートの破片が散乱しているこの戦いの痕跡を見ればはっきりと分かる。そこで凛は構えを解くと、ようやく緊張から解放されたのか、ふうー……と大きく息を吐いた。顔を伝う汗を拭いながら、地面に転がるナイフを回収しようと近づいていく。


 ナイフを掴もうと手を伸ばしたところで、「動くな!」と大声が響いた。それは凛に対して向けられた声のようで、強烈な明かりがいくつも凛とその周辺を照らした。急に明るくなったことで、凛は思わず顔をしかめてしまう。


「両手を上げて、その場に膝をつけ──妙な動きは取るんじゃないぞ」


 凛はナイフを拾い上げようとしていた手を戻すと、言われた通りに両手を上げてその場に膝をついた。それを合図としたのか、凛の周囲を十人ほどの集団が取り囲んでいた。彼らは全員物々しく武装しており、アサルトスーツの上からタクティカルベストにボディアーマーを装着している上に、自動小銃やサブマシンガンを携行していた。どう考えても一般的な警察の武装ではない。


 構えている集団の銃口は全て、凛に向けられている。ようやくいきなりこの場を照らした光に慣れてきた凛の目は、こちらに向かって歩み寄ってくる黒いスーツ姿の男を捉えていたのだった。

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