ナイトウォッチ ~行方不明の姉を探さなきゃいけない上に、どうも世界も大変なことになりそうだ~

森ノ中梟

プロローグ

 物語はいつだって、大きな別れから始まる




 そこは小さな神社の境内だった。ちらほらと雲が確認できる空はまだ薄暗く、朝日が昇る前だ。空模様からして、今日は雨が降ることはないだろう。

 その空を見上げながら階段を上り、綺麗に整備された境内に現れたのは一人の少女だ。ぐるりと周囲を見渡した少女の表情は、どこかノスタルジックな気分に浸っているようにも見える。


 少女は可愛らしいブレザー制服に身を包んでおり、スカートは短めにしてあるのか魅力的な太腿がしっかりと見える。茶髪のウルフカットにすらりとした目元、身長も百六十半ばほどはあるだろうか。男性ならば思わず目で追ってしまうぐらい、整った容姿をしている。


「ここに来ることも、もうしばらくはないわね。凛もきっと寂しいんじゃないの?」


 少女はそう呟きながら、後ろを振り返る。振り返った少女の視界に入ったのは、躊躇いなく綺麗な顔面を目掛けて打ち込まれてきた拳だった。

 だが少女は慌てることもなく滑らかな動きで頭を傾けて、鋭く繰り出された拳を回避する。耳元に空を切る音が聞こえ、その拳のキレの良さが少女には分かった。


 回避したと同時に少女は前に一歩踏み出しながら体を横に向け、空振りに終わった拳──その手首を右手で掴むと、円を描くように右手を回しながら、足払いを放つ。ローファーを履いた少女の足が、凄まじい勢いで拳を打ち込んだ人間の足元をすくい、円の動きと合わさっていとも簡単にその体を宙に浮かし、背中から石畳の地面に叩きつけた。


「うあっ!」


 何とか受け身は間に合ったようだが勢いは殺しきれなかったようで、地面に叩きつけられた少年は思わず声を上げてしまっていた。少女は少年の手首を掴んでいた右手を離すと、「ふふふ」と満足げな笑みを見せながら、少年の顔を覗き込む。反応が遅れれば鼻の骨でも折れていたはずだが、少女に怒った様子は一切見られなかった。


「感傷に浸るお姉ちゃんにいきなり不意打ちなんて、凛も大胆ね」

「……手加減はしなくてもいいって、姉貴がいつも言ってるじゃないか」


 凛と呼ばれた少年は不意打ちがいとも簡単に防がれた上、背中から地面に叩きつけられたことに悔しさを感じているのか、不満気にそう返す。


 そう、この二人は姉弟だ。姉弟喧嘩にしてはいくら何でも過激すぎるやり取りをしているが、同じ葛花くずはなという苗字を持つ。凛は姉である少女、悠李とは二歳離れており、性別こそ違うものの、その顔立ちは姉譲りというべきか可愛らしい美少年と呼べるものだ。

 来週に中学二年生となる凛は髪を染めた悠李とは違い黒髪で、緩く癖がついている。上下黒のジャージ姿で、その身長は悠李よりも少し低く見えた。


「そんなに落ち込まないの。狙いは悪くはなかったわよ。少し直線的すぎたっていうだけで」

「小細工をしても姉貴には通用しないと思ったんだよ」


 悠李から差し出された手を少しの間を置いて掴み、凛はその場で立ち上がる。こうして会話ができているのだから呼吸も落ち着いているようだし、痛みもさほどないようだ。その凛を見て悠李は楽し気な笑みを浮かべたまま、「どうするの?」と訊いた。


「もう止めにする? 時間はまだあるから、もうちょっとは付き合えるわよ」

「……姉貴、あと一本だけ頼む」


 凛は悠李を真っすぐに見ながら、そう言った。短いが力強さを感じさせるその言葉を聞いた悠李は「うん、分かった」と頷き、何歩か後ろへと下がり凛との間合いを作ると、迎え撃つ準備を整えた。悠李は特に構えなどは取ってはいないが、それはいつでもかかって来ても良いということだと凛は理解していた。


 ふう、と一度短く息を吐いた凛は自分の中での合図としていたのか、悠李に向かって踏み込んでいく。凛は構えを取っていた左手をぴくっ、と動かしジャブを打とうとしたが、それをフェイクに使い、悠李の意識が上に行ったところでの下への攻撃として、ローキックを放った。悠李ならばそれも防いでしまうだろうが、動きは止まる。そこですぐさま横に入り込む、と凛は思考を巡らせていた。


 しかしそんな凛の考えは無駄に終わる。悠李は凛が左足を軸として放ったローキックを小さく前にジャンプしてかわすと、凛の右膝を踏み台にして、更にそこから跳躍。凛の頭上を軽々と飛び越えてしまった。


「は!?」


 軽業師顔負けの動きを目の前で見せられた凛は、思わず声を上げてしまう。背後から着地音が聞こえ、凛は咄嗟に振り向きざまに裏拳を放とうとするが、首元に悠李の綺麗な人差し指がとん、と当てられる。もしこれがナイフだったならば、凛の首は切り裂かれていただろう。つまり凛の負けだということを意味していた。

 凛は握り締めていた右手の力をふっと抜くと、「結局、姉貴からは一本も取れなかったな」と口にし、自分の首元に当てていた人差し指を引く悠李を見た。ついさっきまでは楽しそうに笑っていた悠李だったが、今の表情は寂しそうな影を落としている。


「落ち込む必要なんてないわよ、凛。凄く強くなった」

「お世辞言うなよ、姉貴。……なあ、姉貴が向こうに行ってこっちにいない間、俺ももっと鍛えて──」


 凛がその言葉を言い切るよりも前に、悠李は凛の体を抱き締めていた。発育の良い悠李の胸がぎゅっと押し当てられ、凛は「お、おい姉貴!」と恥ずかしそうに声を上げるも、悠李はしばらくそのまま凛を抱き締めていた。満足したのか、あるいは落ち着いたのか、悠李は凛からそっと体を離すと、「鍛える必要なんてないわ」と口にする。


「私が凛の分まで戦うからよ。──さ、もう時間も無いし戻りましょ。父さんと母さんが心配しちゃうわ」


 と悠李は寂しそうな影を消し去り、明るい表情に戻ると階段の方へと歩き出した。だが階段を下る手前で、凛が境内に残ったままだということに気づくと、悠李は振り返り凛を呼ぼうとした。ジャージの上着のポケットに両手を突っ込んでいる凛は、小さく首を振る。


「俺はしばらくここにいるよ。見送りとしては、今ので充分だし」

「ん、分かった。父さんと母さんには凛は寂しくて泣いていたって伝えておくわ」

「それはやめてくれ」


 あからさまに顔をしかめた凛を見て、悠李は満足そうに笑うと背中を向けて階段を下ろうとする。その悠李の背中に「姉貴!」と、凛の大きな声がかけられた。


「あのさ……その、向こうでも元気でな」


 恥ずかしそうに凛が口にしたのは姉である悠李を想った、穏やかな言葉。それが悠李にとっては心底嬉しかったのか、凛に振り返りぶんぶんと右手を大きく振る。そして凛に見送られながら、悠李は階段を下って行った。凛一人だけとなった、うっすらと朝日が差し込んで来た境内。凛はポケットの中に入れた手を握りながら、ぽつりと呟いた。


「姉貴なら、きっと大丈夫さ」


 ──────────────────────────────────────


 物語は二年後へと移る。

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 緩く吹いた風にうっすらと潮の香りが乗っていることから、今いる場所から海が近いんだなということを凛は知った。そんなことを考える必要も、そして余裕も無かった。状況が違えば海を見に行っていたのかも知れない。


 凛の考えている通り、そこは海から近い場所に位置している工業地帯だ。大小様々な工場が建てられており、使用されている重機や倉庫も並んでいるその場所は入り組んでいる上に、人の気配も無い。街灯の明かりも殆どないこの場所は、深夜の時間では闇に覆われていた。特に今日は月明かりも差しておらず、手探りで歩くのも難しいほどだろう。


 その闇の真っただ中で、何かを待つように凛は立っている。音も飲み込まれそうなこの中で怯える素振りも見せていない凛の瞳は、あるモノを捉えていた。それを見つめる凛の黒目は、異常なまでに暗い。あるいは、自身を取り囲むこの闇よりも。


 その凛の瞳に映る空間が、ぐにゃりと歪に歪んだ。例えるならば紙をぐしゃぐしゃに丸めたときのように空間に皺が入り、そしてそれは徐々に大きくなっていく。音は無く、ただ闇がひしゃげ、壊れていく。ゲームで魔法を使用したみたいだが、凛の目の前で起こっているそれは幻でも何でも無い。


「ようやくお出ましか」


 そう言葉を漏らした凛の前方、ぐしゃぐしゃに歪んだ暗闇がガラスのように砕け割れる。そこから現れた存在を目にすれば魔物や怪物など、様々な例えが浮かんでくるだろうが、凛の目の前に現れた存在は古くからこう呼ばれている。


 ──ミノタウロスと。


 ギリシャ神話に登場する、牛頭人身の怪物。様々な創作物に登場する化物。フィクションの住人でしかないはずのそれは、確かな足取りで一歩、二歩と前へと進んでいく。そしてグロテスクと表現しても尚生易しい牛頭の目がぎょろりと凛を捉えた瞬間に、身の毛もよだつような絶叫を上げた。それは凛に対する威嚇なのか、あるいは獲物を目の前にした歓喜の叫びなのか。

 鼓膜を震わせる叫びを受けながらも、凛は表情を変えない。そして凛は、口を開いた。半ば意味の無いことだと理解しながら、微かな希望を込めてこう言った。


「お前、葛花悠李って知ってるか? 行方不明になっている、俺の姉貴なんだ」


 だがその言葉に、目の前の化物が答えるはずもない。荒く呼吸をしながらぼたぼたと涎を垂らし、凛へと近寄ろうとするその様子は、明らかに凛を餌として認識している。

 凛は「通じる訳がないか」と自嘲気味に呟き、首を振る。そして腰に手を回すと鞘走りの音と共に、一本のナイフを手に持った。刃渡りは十センチ弱だろうか。護身用というにはあまりにも物騒であり、そしてそのナイフを構える凛の姿は堂に入っていた。


「何処に行ったんだよ、馬鹿姉貴」


 ここは太古から現代に至るまで、人々が夜を恐れ続けている世界。

 そしてその夜を見通すことのできる少年の物語だ。

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