第37話


 真理恵さんの言葉に頭が真っ白になる。

 

 父さんが、転勤……?

 そんなの父さんの口から一度も聞いたことがない。

 ……いや、そういえば何か言いかけるような素振りが何度かあった気がする。


 でもそんな……。


「あれ? もしかして聞いてない?」


「……聞いてない」


「あちゃーそっか。まぁ道人さん、そういうこと言うの躊躇いそうだからなぁ」


 躊躇うとか、そういう話じゃないだろ。

 心の奥底で沸々と怒りが湧いてくる。

 それに伴って、これまで感じてきた父さんへの不満がせり上がってきた。


「ってことは俺、引っ越すことになるのか。父さんの転勤先に」


「いや、道人さんだけ行くみたいよ」


「え? じゃあ俺と海は……」


「私が保護者として家に住むの。ほんっと何にも話してないんだなーあの人は。ダメねぇ」


「…………」


 俺は真理恵さんみたいに軽く笑い飛ばせない。

 ありえないだろ、こんなの。 

 なんで俺たちに真っ先に相談しないんだ。


 父さんはいつもいつも逃げてばっかりだ。

 こんなの、海が可哀そうだろ。


 湧いてきた怒りの温度がみるみるうちに上がっていく。

 沸騰し、思考がどんどん狭まっていって……。



「藤田くん?」



 遠坂に肩を叩かれ、ハッとする。

 そうだ、今はみんなで旅行に来てるんだ。

 こんな俺にしか関係のない話をして、俺が勝手に怒ったところで空気が悪くなるだけだ。


「ごめん。とりあえず人生ゲームの続きしよう。えっと、次は……」


 この話を海の前でされなくてよかった。

 海の前で取り乱すなんて、兄失格だから。


 ひとまず、この件は頭の片隅に追いやってボードゲームを興じる。

 しかし、胸は騒がしく。そしてじんわりと熱かった。





     ♦ ♦ ♦





 からん、と氷がグラスの中で滑る音が聞こえる。

 

 みんなが交代交代でお風呂に入っていて、今は愛佳の番だった。

 すでに旭日くんはお風呂から上がり、眠いからと言って寝室に入っていった。

 きっとそれだけじゃないと、私は知っているけど。


「藤田くん……」


 リビングから出れるベランダで、藤田くんは一人柵にもたれていた。

 いったい藤田くんは何を思っているんだろう。

 藤田くんと同じ状況に陥ったことがない私に分かるわけがない。

 それに分かるなんて、そんな無責任な言葉も言いたくない。


 ……けど。

 好きな人が何かで思い悩んでいるのに、何もできないのは嫌だった。


「太郎はね、見ての通り自分で全部背負おうとしちゃう奴なの」


「真理恵さん……」


 真理恵さんがウィスキーのボトルを取り出しながら言う。


「小さい妹がいるし、父親は気弱で頼りがいないし。そんなんだからあの子一人で頑張ろうって気張っててね。だから弱音とか吐かないの、全然」


 私のイメージ通りだ。

 藤田くんは一人でも強くて、いつだってぶれない何かを持っている。

 でも、それが逆に弱さなんだとしたら。

 いったい彼は、誰の胸の中で泣くことができるんだろう。


「でもさ、香子ちゃん」


 真理恵さんがグラスをからんと鳴らしながら、私をまっすぐ見つめる。



「誰かが太郎の傍にいてくれたらって私は思うんだ」



 真理恵さんの言葉が、じんわりと胸の奥まで染み込んでいく。


「それはもちろん私でもいいし? というか私は、ずっと太郎の傍にいるって決めてるし。でも、そういう人が何人いたっていいでしょ? 少なくて困ることはあるだろうけど、多くて困ることなんてないんだから」


「そう、ですね」


 藤田くんは強い人だ。

 だから周りにいるみんな、私も含めて支えられてばかりいる。

 

 でも、誰にだって悩みはあるし弱る時だってある。

 どうしてそんな簡単なことに気づいていなかったんだろう。


「だから私は、その人が香子ちゃんだったらいいなって期待してるの」


「私ですか?」


「うん。だって香子ちゃん、太郎のこと“特別”に思ってるでしょ?」


「っ!!! え、えっと、それは……」


「隠し通しても無駄よ? 私の方が何年も女の子の先輩なんだしぃ?」


 真理恵さんの言う通り、誤魔化すことは出来なさそうだ。


「……そう、ですけど」


「ふふっ、やっぱり。それできっと、太郎も香子ちゃんのこと特別に思ってるのよ」


「え⁉」


 それって、つまり……。


「男の子になったことはないから、恋愛感情なのかわからないんだけどね!」


 思わずずっこけそうになる。

 真理恵さんはほんとに油断ならない。

 藤田くんがあの対応になることも、納得できる気がする。


「でも間違いなく、私や海、それこそ愛佳ちゃんや玲央くんにはない感情をあなたには持っていると思うの。これだけは間違いないわ」


「どうしてそう思うんですか?」


「ふふっ、それはね」


 真理恵さんが小さく微笑み、そして呟く。



「女の勘よ」



 “勘”。

 なんの根拠もないはずなのに、真理恵さんの自信たっぷりな顔を見ていると本当にそう思えてくる。


「……ふふっ、じゃあそうですね」


 不思議と私は笑みをこぼしていた。

 嬉しかった。

 真理恵さんから見て、藤田くんが私に特別な感情を持っていると思われることが。

 

 それはつまり、私が一歩を踏み出す勇気に足る後押しで。


「私、藤田くんにはすっごく感謝してるんです。彼のことを支えたい。私がそう、されたように」


 体育祭のとき、真っ先に私を見つけてくれたのは藤田くんだった。

 いつもいつも、藤田くんは私の隣でいつでも寄りかかっていいよと言っているみたいに立っていた。


 なら、今度は――


「ちょっと行ってきます」


 グラスをテーブルに置いて、歩き出す。

 リビングの窓をがらりと開けると、ほんのりと涼しい風が肌をそっと撫でた。


「遠坂?」


 藤田くんが私に気が付いて振り返る。

 


「ちょっと話そうよ、二人でさ」



 

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