第20話


 電車が湿った空気を切り裂き、ホームを通り過ぎていく。

 風が私の少し濡れたズボンの裾に触れて、不快感を生み出していた。


「一本後の電車だと、やっぱり遅刻か。ごめんな、遠坂も巻き込んじゃって」


 隣に座る藤田くんが頭を掻きながら言う。


「いいよいいよ。何故か降りちゃったのは私だし、それにあそこで無視できるような人じゃないでしょ?」


「……もしかして遠坂、俺のこと子供に優しいクールなお兄さんだと思ってる?」


「クールは余計。それ以外は……まぁ、だいたい合ってるよ」


「クールだけは合っててほしい要素だった」


 軽口を飛ばす藤田くん。

 梅雨の時期には似つかわしくないほどに爽やかな藤田くんとは対照的に、私の心には小さな疑問が広がっていた。


 私はあの時、どうして降りてしまったんだろう。


 頭で考えるより先に体が動いていて、その答えは元々なかったみたいにどこかに消えてしまった。


「あー、先生に怒られるだろうなー。いっそのこと遅延したとか言うか」


「愛佳たちが間に合ってるから通じないんじゃない? というか、別行動になってる時点で怒られそう」


「それは確かに。うちの担任厳しいからな。変なところで変だけど。あ、でもそしたら一周回って普通か? いや違うか」


「とりあえず今の藤田くんは変だよ……」


 そういえば、このままだと相田さんは藤田くんのことを誘えないんじゃないだろうか。

 今頃集合場所に着いているだろうし、私たちは遅刻している。

 

 そう思った瞬間、私の心がふっと軽くなったように感じた。


「ま、とにかく次の電車を待って……ん? 相田さんからメールだ」


「っ⁉」


「……ごめん遠坂。ちょっと電話してくる」


「あ、うん。分かった」


 藤田くんがさっきとは打って変わって真剣な面持ちで、スマホを持って離れる。

 それが私、そして相田さんへの配慮だと分かった瞬間、ドキリと心臓が跳ねた。


 きっと今から藤田くんは相田さんに誘われるんだ。

 そう思うと、胸が締め付けられるみたいにきゅっと痛んだ。


 電話をする藤田くんを見つめる。

 彼は驚いたように口を開けた後、淡々と話していた。


 藤田くんが相田さんのことをどう思っているか分からない。

 けど、相田さんは藤田くんのことがきっと――好きなんだ。


 わざわざ電話をするほどに、彼女は彼のことが好きなんだ。


「好き、か。そっか」


 今更気が付く。

 相田さんが藤田くんを誘う動機が、好きという感情であることを。

 

 好きだから一緒に遊びたい。

 好きだから付き合いたい。

 好きだから勇気を出せる。


 そうやって、人は暗くて先の見えない洞窟のようなところにだって入っていける。

 そうか、そうだったんだ。一体私は、いつからそれを忘れていたんだろう。


「あぁ、うん。じゃあ」


 藤田くんが電話を切り、私のところに戻ってくる。


「そろそろ電車来そうだな」


 まるで何もなかったみたいに話す彼の姿を見て、また胸が痛んだ。

 私はズボンをくしゃりと握り、彼に尋ねる。


「相田さんに誘われたんでしょ? この後会わないかって」


「え? なんでそれを?」


「噂で聞いたんだ。それで、藤田くんはどうするって言ったの?」


 私は意地悪な女だと思う。

 それでも聞かずにはいられないから。全ての答えが、そこに詰まっているような気がしたから。




『まもなく二番線、電車が参ります』




 アナウンスが流れる。


 相変わらず騒々しいホーム。

 私は彼の横顔をじっと見つめる。


 脳内では、少し前の記憶が再生されていた。



 ――あははっ、やっぱり面白いね! 藤田くんって


 ――それはどうも。楽しんでもらえたようで何よりです



 笑い合う、藤田くんと相田さんの姿。

 


 ――香子はいいんだ?


 ――香子、君はねぇ……はぁ、嫌じゃないの?



 愛佳の芯をつく言葉。


 そのほかにも、妹さんを温かい目で見守る藤田くんの姿や、帰り道に仲睦まじいカップルを見たことなんかも思い出された。


 どんどんとその範囲は広がっていき、体育祭で藤田くんに見つけられたこと、ガラの悪い高校生に絡まれたことなんかが脳裏に浮かんでいく。

 その全部が私の中に入って、グルグルと掻きまわされていった。

 

 今なら分かる。今なら素直に言える。


 私は――嫌だ。

 藤田くんが他の誰かとなんて考えたくない。


 相田さんと二人で出かけるなんて嫌だ。絶対に嫌だ!


 だから私は、電車を降りたんだ。

 ここで別れてしまえば、まるで藤田くんが自分の手の届かないような場所に行ってしまう気がしたから。


 私はこうして藤田くんの隣にいたかったんだ。

 だって、だって私は……っ!






 ――俺は可愛いと思うよ、遠坂のこと 






 鮮明に、その声と季節を伴って思い出される彼の言葉。


 藤田くんは依然として正面を向いたまま、遂に答えを口にしたのだった。



「断ったよ、ごめんって」



 電車が私たちの前に滑り込んでくる。

 ぶわりと吹き付ける風が、私の心の奥深くにまで届いていた。


 私は息を吐いた。

 壊れて灰になった不安や迷い、葛藤が出ていき安堵に置き換わる。


 一連の流れを私はじっくりと自分の中で見つめていて。

 過程で生まれる感情も取りこぼさず、私は初めてその全容を見た。

 そして、隠しようもないほどに気づいてしまう。気づかされてしまう。


 名前の知らない“それ”が、私の中で意味を持つ。


 そうか。やっぱりそうだったのか。





 私は藤田くんのことが――好きなんだ。















 藤田くんと人のまばらな電車に隣り合わせで揺られる。

 ガタンゴトン、と規則的な音が車内に響いていた。


「ちゃんと怒られたな」


「だね。ま、そりゃそうなんだけど」


 あの後、遅刻していった私たちは先生のお叱りを受けた。

 しかし、どうやら遅れたのは私たちだけではなかったようで、そこまでお咎めはなかった。


「ってか、あいつら先に帰るなんてびっくりだよな。薄情か。いや、遅刻した俺が悪いんだけど」


 藤田くんが笑みをこぼす。

 心地よさを感じていると、ふと窓から差し込む光に目を細めた。


「あれ? 晴れてきてる」


「ほんとだ」


 窓の外を眺めると、分厚い雲の隙間から淡い光を放った太陽が顔を覗かせていた。

 不思議と心が軽くなって、何もかもが報われたような気持ちになって。

 

 私はコトン、と体を隣に預ける。


「遠坂?」


「疲れちゃった。だから、少しの間寝かせてくれない?」


「分かった。最寄り着いたら起こすよ」


 彼はそうとだけ言って、再び窓の外に顔を向けた。

 私は寝たふりをしながら、こっそり目を薄く開いて彼の顔を見る。


 幸せだ。


 ただ見ているだけなのに、ただ隣にいるだけなのに、ただ体を預けているだけなのに。

 まるで優しい何かに包まれているかのように心地よく、温かい。

 荒れた心が癒され、あるべき場所にそっと戻っていく。

 

 これが好きってことなんだ。

 何もしなくても、勝手に幸せにしてくれるのが恋なんだ。


 そのことに気が付いて、私はたまらなく嬉しくなった。

 



「……今がずっと続けばいいのに」




 藤田くんにも聞こえない、もはや言葉になっていないくらいの声量で呟くと私は今度こそ目を閉じ、幸せに身を委ねた。

 

 もう空は、晴れていた。





     ♦ ♦ ♦





 翌朝。


 今日は梅雨の時期にしては珍しく晴れていて、窓から差し込む太陽の光がキラキラと輝いていた。


「そろそろ梅雨も明けるのかな」


 一人呟き、鏡の前に立つ。


「ふぅ……よし」


 拳をきゅっと握ると、鞄を持って勢いよく部屋を飛び出した。










「え、嘘⁉」

「どういうこと⁉ あれって王子様だよね⁉」

「ヤバい! 超ヤバいよ!!!」

「似合いすぎだって!!!」


 騒々しい廊下を通り抜けて、教室の前にまで来る。

 見慣れたプレートを見上げ、一息。


 それでも鳴りやまない胸の鼓動。さっきから全然落ち着かない。

 もう一度脈を整えるように息を吐き、思い出すのは彼の言葉。



 ――何言ってんだよ遠坂。普通に似合うだろ。というかむしろ似合いまくりだろ

 


「……大丈夫だ、私。よし」


 決意を固め、教室に入る。


「あ! おはよ、香……子?」


「おぉ……マジか」


 愛佳と旭日くんが驚いたように目を見開く。

 そして、二人のすぐ近くにいた彼もまた驚いたように私をじっと見ていた。


「おはよう、藤田くん」


「お、おぉ……遠坂」


 藤田くんの意表を突かれたような表情。

 私は藤田くんのこの表情がどうしても見たかったんだ。


 窓から風が吹いてくる。

 さらされた私の足を撫で、涼しさを感じさせた。



「やっぱり似合ってるな、スカート」



 藤田くんは言うと、私に向けて微笑んだ。

 私はその一言だけで――そう、好きな人に褒めてもらえただけで、こんなにも嬉しい。


 だから私は、スカートを履いた。


 今までずっと履けなかったスカートを、藤田くんのためだけに履いた。


 これは私の決意。

 絶対に揺るぐことのない、決意なんだ――







 本格的な夏が、すぐそこまで迫っている。

 梅雨は明け、分厚い雲は消えてなくなり、太陽が輝き続ける季節がやってくる。


 きっと忘れられない、夏になる。










 

 ――燃えゆく彼女は決意する。










――あとがき――


ここまで読んでくださり、ありがとうございます!


次話より第四章に突入していくわけですが、新章準備のため次の更新が7月3日になります!

楽しみに待っていただければ幸いです!!!

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学校の王子様に可愛いと言い続けていたら、学校一の美少女になっていた 本町かまくら @mutukiiiti14

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