第14話
それから競技は順調に進んでいき、間もなくこの体育祭のフィナーレである全校リレーを迎えようとしていた。
借り物障害物競争での遠坂の活躍があって白組に逆転したものの、そこまで差は広がらず。
「これってさ、全校リレーの結果によって総合優勝がどっちか決まるってことだよね?」
「そうだよ! 超ヤバい展開じゃん!」
「しかも、うちの組のアンカーは王子様でしょ? 絶対勝ったじゃん!」
「アレ見せられたらもう期待するしかないよねー!」
「ってか、王子様が負けるわけないし! すごい楽しみなんだけど~!」
赤組の応援席は、興奮冷めやらぬと言った感じで浮足立った雰囲気が流れていた。
ふと気になって周囲を見渡す。
しかし、どこを見ても目当ての人物は見当たらなかった。
「あれ? 遠坂どこ行った?」
「あ、ほんとだ。おかしいなぁ。さっきまで私の隣に座ってたんだけど……」
「……そうか」
さっきから背中にぺたりと張り付いた予感が密着して離れてくれず、俺は駆り立てられるように立ち上がった。
「どうした林太郎。早く場所取んないといい位置でリレー見れないぞ?」
「ちょっとトイレ行ってくる。俺の分までそのデカい体で取っといてくれ!」
「おい言い方!」
玲央のツッコみを背に歩き出す。
できればこの予感が外れてくれたらいいと、そう願いながら。
♦ ♦ ♦
ジャー。
ジャー。
ジャー。
「……ふぅ」
薬品の味がする水道水を顔にかける。
湧き出る嫌な汗を流しながら、私は見過ごせない違和感に顔をしかめた。
「遠坂」
声をかけられ、慌てて取り繕おうと顔を上げる。
しかし。
「藤田くん……」
彼だと分かると自然に体から力が抜けて、いつもの私を作ることができなかった。
藤田くんが私のことをじっと見る。
まるで私の全部を見透かしたかのような、怖い瞳。
やがて私の左足に視線をやると、思わずびくりと体が反応してしまった。
「やっぱりか。足、怪我してるんだろ?」
「っ⁉ そんなことは……」
「分かるよ。無理な体勢で着地してたし、退場するときちょっと足気にしてただろ?」
どこまで見てるんだ、この人は。
誤魔化し通そうと思ったけど、彼にそれは無駄だと悟り、私は息を深く吐いた。
「……誰にも気づかれなかったんだけどなぁ。やるね。探偵とか向いてるんじゃない?」
「不倫調査とかやりたくないし却下で」
「ふふっ、そっか」
このまま見逃してくれないかなと思ってしまう。
でも、彼は一切の隙も見せず、さらりと言ってのけた。
「その足じゃ厳しいだろ。最後のリレーは」
「……そんなことない。私は走れるから」
「嘘つけ。ほんとは歩くので精一杯なんだろ?」
「もう、ほんとに藤田くんは……私の天敵なの?」
「俺は人類の味方だから、そうなると遠坂が人類の敵になるな。それでもいいか?」
「よくないよ。……ほんとに、困まるんだから」
本音が零れ出る。
彼が正しい視線で私を見てきても意思は変わらない。
水が絶え間なく流れ出る蛇口をひねって止めると、今度こそ私を作って歩き始めた。
「みんなが期待してくれてるし、三年生がわざわざ私にアンカーを託してくれた。その期待には絶対に応えたい。だから行くね」
「……遠坂」
「大丈夫。私こう見えて、結構運動神経いいからさ。それに君の言った通り、血なまぐさい奴なんだよ」
「…………」
藤田くんは何も言わない。
ただその正しい瞳で私を見るだけだった。
彼に見られていたら体が焼けてしまいそうな気がして、逃げるように気丈な笑みを振る舞い、視線を外して藤田くんの横を通り過ぎる。
大丈夫。私なら大丈夫だ。きっと、大丈夫なんだ。
「いけーっ!!!」
「赤組いいペースだよ!」
「走れ走れー!!!」
絶え間なく、歓声が校庭に注がれていた。
レースは終盤。
私はスタートポジションに立ち、コーナーを曲がってくるチームメイトから託されるバトンを待っていた。
「っ……」
地面に足をつける度にじんじんと痛む左足。
しかし、走り始めてしまえばきっとこの痛みも気にならなくなる。
大丈夫だ。きっと大丈夫。
「王子っ!」
「っ!!!」
遂にバトンが渡され、スタートを切る。
白組とはほぼ互角。差はほとんどない。
「王子様ーっ!!!」
「走れー!」
「頑張ってー!!!」
声援を背に、地面を勢いよく蹴る。
「っ!!!!」
その度に鈍器で殴られたような痛みが左足に走った。
痛い。痛みはある。それでも今は走らなければいけない。
誰よりも先に、一番にあのゴールテープへ……!
最初のコーナーを曲がり、直線へ。
まだ互角。ここで私が一歩前に出て……。
「くっ……!!!」
思うように左足が回らなくなる。
強く地面を蹴れない。力が思うように出せない。
「負けるなー!」
「絶対勝って!!!」
「いけ王子様ーッ!!!」
負けられない。絶対に負けられない。
私が組の代表を背負っている。だからこそ、負けられない!
痛みを噛み殺して、再び勢いに乗っていく。
縮まる距離。再び並ぶ肩。
そして最後のコーナーを曲がり。ラストスパート。
ここで一歩前に出て、あのゴールテープを……!
――しかし。
「ッ……!!!!」
ゴール直前で足が動かなくなる。
その一瞬を、相手は決して見逃してくれなかった。
「あぁっ!!」
目の前でひらりと揺れるゴールテープ。
私の視界は滲み、体が空を切る。
「「「「「ッーーーーーーーーーーーー!!!!!!!」」」」」
地面が揺れるほどの歓声が沸き起こる。
しかし、その中にいるはずの私には、その歓声がすごい遠くから聞こえるように思えた。
そう、思えてしまったのだ。
湿った五月の風が吹いている。
私は一人、薄い影が染み込んだブロックに腰を掛けていて。
この時期特有の、人によって感じ方を変える季節の匂いが私の鼻腔をくすぐった。
『これにて、今年度の体育祭を終わります。係の生徒は、本部テント前に集合して……』
アナウンスが遠くから聞こえる中、私はこみ上げてくるものを必死にこらえようと拳を握り、じっと地面を見つめていた。
すると地面に、急に新しい影が現れる。
「よ」
顔を上げると、そこにはいつもと同じ顔をした藤田くんが立っていた。
まるで何でもない放課後に、ふらっと立ち寄った先で私を見つけたみたいな気軽さで、私に視線を落とす。
「どうして、ここにいるの?」
「知らないのか? ここ、俺のお気に入りのスポットなんだよ。たまに弁当ここで食べてるし」
「あぁ、そういえば」
思えばこの場所は、藤田くんに初めて私の本音を話した所だった。
あれは確か、一つの季節の終わりの頃のことだった。
「だから、たぶん遠坂もここにいるんじゃないかなって思ったんだよ」
「なんで?」
「だってここ、人が来ないから。それも体育祭終わってすぐとか、秘境を極めてる」
いつもの彼の軽口。
藤田くんが私の中で濃くなっていく。
それと同時に私の心は沈んでいき、圧力に四方八方から押しつぶされていった。
そして押し出されるように、沈殿させた重くて醜いそれがせりあがってくる。
「……私、負けちゃった」
私は気づけば出かかっていた言葉を吐き出していた。
それから制御ができなくなって、意思を持ったように逃げ出していく。
「私のせいでみんなが負けちゃった。せっかく期待してくれてたのに、何もできなかった。最後に私が勝てていればよかったのに」
藤田くんは何も言わない。
ただ私の言葉に耳を傾けている。
「最悪だよ。自分一人のせいで多くの人を悲しませるなんて。私、これからみんなにどういう顔をしていいか分からない。みんなの期待を裏切っちゃったから……」
せき止めていたものが今にも溢れそうになる。
でもダメだ。楽になってはいけない。私は楽になっちゃダメなんだから。
「だから、だから私、私……っ!」
「あのさ、遠坂」
「藤田、くん……?」
藤田くんの顔が優しい表情へと染め上げられていく。
微笑んでいるわけじゃない。そんな分かりやすい次元の話じゃなくて、きっと彼の内側からにじみ出るものが、ふわりふわりと私の下に運ばれてきていた。
「みんなって言うけどさ、結局あのリレーで負けたのは誰だ?」
「誰って、それは……」
「遠坂自身だろ?」
「……え?」
急に頭が真っ白になる。
彼の話す言葉が違う言語みたいに一瞬、分からなかった。
「だってそうだろ? 遠坂の力と相手の力を出し合って、それで負けたんだ。そこに遠坂の言う“みんな”の力は含まれてないだろ」
「っ! そうだけど……!」
「わざわざ苦しい方を選ぶなよ、遠坂。ほんとは自分でも分かってるんだろ? ――自分が一番、悔しいんだって」
しかし、彼は眠ってしまった私に温かい毛布をかけるみたいに、そっと優しく言葉を手のひらに乗せてくる。
「で、でもっ!」
「みんなの悔しさを一人でしょい込むなんて無理だよ。いくら遠坂と言えど、そこまで人間は頑丈じゃない。だからさ、自分一人分の大きな悔しさだけでいいんだよ」
藤田くんの言葉がぬるま湯になって私の体に浸透していく。
気づけばほろほろと、熱を持ったソレが流れ落ちていた。
「私は……」
「それにさ、遠坂。もし遠坂の言う通り、遠坂一人が勝ってればみんなも勝ってたって言うならさ――」
「遠坂一人が負けたときも、みんなで負けて悔しいって思いを分け合わないとおかしいだろ?」
――その時。私の心で確かな感情が姿を見せた。
小さくて丸い、そして淡い光を放つものが、私の心の中にたった今生まれた。
「あっ、香子いた!!」
「おいお前ら! こっちだぞ!」
「え……?」
どたどたと複数の足音が響いてくる。
少しして、クラスメイト達が私の方に駆け寄ってきた。
次々と、私と藤田くんの影だけだった地面が色んな人のもので溢れていく。
「香子っ!!!」
愛佳が真っ先に私に抱き着いてくる。
「もう! どうして一人どっかに行っちゃうの! 香子がいないと私たち悔しがれないでしょ!」
「ご、ごめん……」
「そうだそうだ! まだ体育祭は終わってないんだからな!」
「壮真、体育祭はもう終わってる」
「終わってないっ!!!」
「僕も終わってないと思うよ、旭日くん。なんならこれから第二ラウンドと行こうか」
「下田、お前は日焼けしすぎな」
旭日くんのツッコみに、周囲が笑い声に包まれる。
気づけば私の周りにはクラスメイト達がいて、力んでいた体からどんどん力が抜けていった。
「な、遠坂。ここらへんで一回、声に出しちゃえよ」
「え? でも……」
「むしろ出してくれ。じゃないと俺たちも叫べないからさ。な?」
藤田くんの言葉に、同意するようにクラスメイト達が笑みを浮かべる。
黒くてどんよりした校舎裏が、私のすぐ目の前で色づけられていく。
まるで過ぎ去った春を思い出すように、煌めきだしていく。
「っ……もう、ほんと藤田くんは」
思わず笑みがこぼれてしまう。
心は軽くなった。
それでも心の真ん中はずきずきと痛むし、モヤモヤもすごいする。
だからこそ、私は自分と藤田くんの要望に応えて、すぅーと今日一番の息を吸って。
そして――目いっぱいに叫ぶのだった。
「悔しぃーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!!!!!!」
私の声が空高く昇っていく。
人の優しさを溶かしたような色の空が、そんなちっぽけな私の声を吸い上げてどこかへ飛ばしていく。
季節は変わり、暦は五月になった。
まだ行かないでと引き留める春に別れを告げて、私は次の季節へ向かう。
この心地いい、風に乗って。
♦ ♦ ♦
体育祭も終わり。
待ってましたと言わんばかりにすっかりと、日常が俺たちの日々に我が物顔で鎮座していた。
「ふはぁ」
あくびを噛み殺しながら教室に入る。
するとちょうど教室を出ようとしていた遠坂とぶつかりそうになり、寸前のところで踏みとどまった。
「うわぁっ。なんだ、藤田くんか」
「なんだとはなんだ」
「なんなんだ」
意味のない会話を交わし、遠坂がふふっと笑う。
「おはよう」
「おう、おはよう」
「足の調子はどうだ?」
「もう絶好調だよ。それこそ、今すぐ第二ラウンドに突入してもいいくらいにね」
「是非ともそうしてくれ。下田を連れてな」
ふふっと互いに笑い合うと会話はそこで終わり、俺が避けると遠坂は満足げに俺の横を通って廊下に出ていった。
意味もなくその後ろ姿を目で追う。
「……うん、やっぱ可愛いな」
誰にでもなく呟くと、頬を元に戻して教室に足を踏み入れたのだった。
♦ ♦ ♦
廊下を歩いて、ふと意味もなく振り返る。
彼の姿はすでになくて、それでも私には彼がそこにいたという記憶があって。
思わず頬が緩んでしまい、その事実に今度はちゃんと笑みをこぼす。
「ほんと困っちゃうな、私」
私は呟くと、再び歩き出した。
足取りは軽い。
それでも私は、一つ新しいものを持って進んでいく。
名前の知らないそれを、そっと大事に抱えながら。
――熱狂を遠くに、彼女は思う。
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