第12話


 下田の名演説から数日が経った。


 あれから各種目の出場選手決めやクラスTシャツの作成など、体育祭色満載のイベントを駆け抜け。

 体育の授業で学年種目である「台風の目」の練習をしたり、選抜種目に出る人は昼休みや放課後を使って練習するなど、とにかく学校にいる間は常にそんな非日常を目にした。


 ――そして今日。


 体育祭前日を迎え、校庭は会場が設営され準備万端。

 校舎内も浮足立っているように騒がしく、部活動が特別に行われない放課後でさえもどこからか色めきだった声が響いていた。


「もうこんな時間か。早く帰らないとな……」


 はぁ、とため息をつきながら、やっとの思いで教室に戻ってくる。


 陽は落ちかけていて、教室がぼやけたオレンジ色に沈んでいる中。

 ただ一人、彼女だけがぽつんと椅子に座って手を動かしていた。


「遠坂?」


「わっ!!! ……藤田くん?」


「よっ」


「なんでこんな時間に学校に残ってるの? 愛佳とか旭日くんと違って会場設営の仕事とかはなかったと思うけど」


「現国の作文の再提出。寝ぼけて書いたのが何故か見抜かれたんだよなぁ。……字が歪んでたからかな」


「絶対それだよ……」


 遠坂が呆れたようにため息をついた後、おかしそうにぷっと吹き出した。


「あはははっ、やっぱり君は面白いね」


「大した人間じゃないけどな」


「君はいつもそうやって謙遜する……ま、それも藤田くんらしいけど」


 口に手を当てて、小さく笑う遠坂。

 遠坂の席に近づくと、机の上に並べられた紙束が目についた。


「遠坂は何してんだ?」


「実行委員の仕事。ほんとはプログラムを今日配る予定だったんだけど、気合が入りすぎたみたいでなかなか完成しなくて……。当日配ることになったから、今慌てて冊子にしてるんだ」


 答えながら、何枚かをまとめて折り曲げ、ぱちんっとホッチキスで止めていく。

 パッと見出来上がっているのは六冊ほどで、クラスの人数を考えるとまだまだありそうだ。


「下田は? あいつも体育祭の実行員だろ?」


「下田くんは開会式の準備体操の確認とか、部活動対抗リレーのリハとかで忙しいみたい」


「そういえば下田、演劇部とディベート部の掛け持ちだもんな。そりゃ忙しいわけだ」


 言いながら遠坂の机の前の席を拝借すると、遠坂と向かい合うような位置に椅子を置いて座る。


「これが表紙で、あとは順番に取っていけばいいのか?」


「え、うん。そうだけど……」


「了解」


 ぺらぺらと紙を取り、冊子にしていく。

 遠坂は一冊が出来上がるまでをじっと見た後、ふっと笑みをこぼした。


「藤田くんってさ」


「ん?」


「……いや、なんでもない」


「言いかけてやめられるのが一番むず痒いんだけど」


「なんか急に言いたくなくなった。以上」


「意志は固そうで」


 俺が言うと、もう一度遠坂は楽し気に頬を緩ませ、やがて手元に視線を落とした。


 放課後の教室に紙をめくる音だけが響き渡る。

 水が緩やかな斜面に沿って流れていくように、俺と遠坂の間では穏やかな時間が過ぎていた。


 ここというタイミングもなく、遠坂が口を開く。


「体育祭、絶対に勝ちたいな」


「勝ちたい、か。遠坂、そういうの好きそうだもんな。争い事というか、熱くなれるものというか」


「え、そう? 周りからは結構落ち着いてるとか言われるんだけど」


「それも間違いじゃないけど、百点じゃないな」


「へぇ? ……もしかして私のこと、実は血なまぐさい奴だと思ってる?」


「いや、実はホイップクリームまみれの女の子だと思ってる」


「……藤田くん?」


「あ、はい。すみませんでした」


 やはり美人に睨まれるのは怖い。

 素直に謝罪すると、遠坂が「よろしい」と短く一言だけ呟いて頷いた。


「でも、君の言う通り結構好きなんだ。勝負事とか。体育祭は特にね」


「ここ数日は気合入ってるもんな」


「分かる?」


「分かるよ。見てればな」


 俺が言うと遠坂が小さく微笑んだ。


 また一枚、また一枚と手にとっては重ねていく。

 しゅるり、と耳心地のいい紙の擦れる音が輪郭のぼやけた空間に溶けていく。


「ほんとに、心の底から勝ちたい。今までは私一人でもそう思ってたけど、明日はみんなも勝ちたがってるから。期待されてる分、少しでも貢献したい」


「やっぱりすごいよ、遠坂は」


「すごいかな?」


「……いや、なんでもない」


「それはさっきの仕返し?」


「さぁ? 全部忘れちゃったな」


「ふふっ、ほんとにおかしな人だね。君は」


 遠坂と言葉を交わしながらも、手は機械みたいに勝手に動く。

 それはこれが簡単な作業だからか、それとも――




「そういえば、藤田くんは――」

「そういえば、遠坂は――」




 言葉が重なる。


 それと同時に、気づけば最後の一枚になっていた表紙に伸ばしていたお互いの手もまた、ほんの少しだけ重なり合った。


 その瞬間、話すことに集中していたことに気が付き、口裏を合わせたように顔を見合わせる。

 そして何故か、俺たちは言葉も発さずにお互いの顔を見つめ合っていた。


 教室に“あったかい”を色にしたみたいな夕陽が差し込む。


「あっ。ご、ごめん」


「俺こそごめん。話すのに夢中になってて気が付かなかった」


「う、うん。私も、同じ」


 先に手を引っ込めると、遠坂が「じゃあ」と遠慮がちに表紙を手に取り、最後の一冊を完成させた。

 積み上げられたクラスの人数分の冊子。

 

「もうできたのか」


「あれだけあったのにね。二人でやると早いなぁ、やっぱり」


「そうだな」


 俺は短く答えると、もう一度完成した冊子に目をやった。

 

 しかし、俺の頭には達成感とか、意外にも早く終わったとかそういうのはなくて。

 ただあの時、手が触れ合った時の遠坂の手の冷たさと、感触と、その表情が脳裏一面に張り付けられたみたいに一杯に広がっていた。


 一体、彼女の顔は、本当は何色に染まっていたのだろう。


 それもまた、誰も知らない。

 オレンジ色が染め上げる、この教室の中では。





     ♦ ♦ ♦





 教室の前で声が聞こえて、足を止める。


 こっそりと扉のガラスから中を覗き込むと、香子と藤田の姿があって。

 私、宇佐美愛佳は咄嗟に身を隠した。


 なんというタイミング。

 放課後の、それも夕陽がいっぱいの教室で二人きりだなんて……なんてロマンチックな。


 私は昔から感情移入の力が強い。

 そのせいか今も、二人に自分を重ねてはドキドキが止まらなかった。


 前から楽しい予感はしていた。

 しかし、それが今はより強く脈を打って――



「あれ? 宇佐美何してんの?」



「⁉」


 慌てて振り向くと、そこには不思議そうに首をかしげる旭日くんの姿があった。

 

「なんだ旭日くんか……もう、驚かせないでよ!」


「それはこっちのセリフだわ。今の自分の姿、客観視してみ?」


「……これを見れば、旭日くんも私の気持ちが分かるに違いない。刮目せよ!」


「ったく、そんなわけ……はっ! め、メシウマ!!!」


「ウマウマッ!」


 志を共にする仲間として、一緒に二人を観察する。

 まるで私たちまでその青春のおすそ分けをもらっているようで、感じたことのないような幸福感に、胸が満たされていく。


 そして――


「「っ!!!!」」


 確かに触れ合う、香子と藤田の手。

 私たちも又、思わず顔を見合わせ、興奮していることを共有した。


 なんてことだ。

 こんなことまであるなんて……やっぱり、あの二人は本物だ。


 二人は少しの間、自分と相手しか世界に存在していないみたいな顔で見つめ合った後、時間を思い出したかのように、


「あっ。ご、ごめん」


「俺こそごめん。話すのに夢中になってて気が付かなかった」


「そうだね。私も、同じ」


 短く言葉を交わした後、元に戻る。

 その最後までを見届けて、私は脱力するように大きく息を吐いた。


「すごいなぁ、ほんとに」


 他の人からもらえる幸福がいっぱいになって、私はそのまま向かいの廊下の壁に背中を預ける。


「俺にはできないな、あんなの」


 旭日くんもまた、同じようにため息にも似た息を吐いて隣に腰を下ろした。


 そして二人で天井を見上げる。

 よく分からない模様に、いつできたか分からない雨漏りのようなシミ。


「ねぇ、旭日くん。私たちってさ、ちょっと似てるよね」


「そうだなぁ。確かに、そうかもな」


 言葉はそれだけで、私たちは満足した。


 後ろの窓から柔らかな光が差し込んできて、壁に体を預ける私たちに影を落とす。


 遠くからは楽し気な笑い声が聞こえてきて、それをさらいながら、私たちはもう一度息を吐くのだった。





     ♦ ♦ ♦





 照り付ける太陽。雲一つない青空。


「これより、体育祭を始めます」


 開会の言葉が終わり、生徒が壇上を降りていく。

 

 次第に沸き起こる拍手。

 それはいつにも増して大きく、時折テンションの高い声なんかも混じっていて。


「優勝は僕たちのクラスがもらったッ!!!」

「そうだそうだ! 待ってろ俺たちの青春ーッ!!!!」

「……いやいや、優勝はクラス単位じゃないから」


 内容はさておき、ようやくこの日が来たんだと肌で実感していく。


「やっぱり晴れたか」


 一人、今日も輝かしい太陽を見ながら呟くと、俺はジャージのジッパーを少し下げたのだった。


 

 ――こうして。




 運命の体育祭が、始まる。





 

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