第11話


「ただいまー」


 扉を開け、家に帰ってくる。

 玄関には靴が一つも出ておらず、物寂し気に靴べらが靴箱の取っ手にかけられているだけだった。


「何とか間に合ったか」


 達成感を感じながら玄関に腰を下ろし、ローファーを脱ぐ。

 つま先を揃えて右端に置き、「よし」と呟いたそのとき――




「ただいまー!」





 扉が勢いよく開かれ、ぱたぱたと音を鳴らして入ってくる少女。

 二束の髪が、ついんついんっと跳ねるように可愛らし気に揺れていた。


「お、海」


「あ、お兄ちゃんだ!」


 俺を見ると、海はパーッと満面の笑みを浮かべて隣に座った。


「珍しいね! こんな時間にお兄ちゃんがいるなんて!」


 海が嬉しそうに足をぶらぶらと揺らす。


「海に会いたいと思ったら、授業が早く終わってな。だから――」


「そういうのいい! どうせテストとかで早く終わったんでしょ?」


「……よ、よくご存じで」


 俺の妹は、この愛情ボケすらスパッと切り捨てることができる。

 うん、英才教育の影響かな。


「というかお兄ちゃん、テストできたの? 昨日もリビングでずっと寝てたけど」


「知ってるか海。人間には得手不得手っていうのがあるんだ。だから――」


「知らない! 勉強してね!」


「あ、はい」


 ……英才教育しすぎたカナ。


「それはそうと、今日の夕飯何か食べたいものとかあるか? 海の好きなやつ作ってあげるよ」


「え、いいの⁉」


「もちろん。だって今日は、海の“初めて逆上がりができた記念日”だからな」


「初めて聞いたよ⁉」


「ちなみに、この二週間後は“初めて自転車に補助なしで乗れた記念日”、その三日後は海が“初めて赤い物に興味を抱いた記念日”だ」


「お兄ちゃんってほんと、私のこと大好きだよね……」


「当たり前だろ? 兄が妹を溺愛するっていうのは生物学的に決まってることなんだ」


「私がお兄ちゃんをこうしたんだと思うと、少し責任を感じるね!」


「難しい言葉よく使えるな、小四なのに」


 海は俺がちゃらんぽらんだからか頭がいい。

 女の子の精神年齢が実年齢よりも上だとはこの年代でよく言われることだが、海はそれが顕著に表れているように思う。


 これも俺の反面教師の賜物か……無免でもやればできるな。


「ま、でも毎日を何かの記念日にしたいだろ? そっちの方が嬉しいし、憂鬱な月曜も楽しくなる」


 人生とはいかに一日一日を楽しく過ごすかだ。

 そんなの、工夫次第でどうとでもなると俺は思う。


「で、何が食べたい? 遠慮はするな。お兄ちゃんが何でも作ってやる」


「何でも……ごくり。じゃあ、お兄ちゃん特製のハンバーグが食べたい!」


「そんなんでいいのか? もっとこう、高い肉を使ったステーキとかお願いしてもいいんだぞ?」


「いいの! 私お兄ちゃんの作るハンバーグが一番好きだから!」


「海……お前って奴はほんっと、シスコン製造機だな」


「意味分からない! でもなんか気持ち悪い!」


「押しては引くの王道パターンも習得済みだな。うん偉いぞ」


 やっぱりうちの妹、出来過ぎだわ。


「よし。そうと決まれば買い出しだな」


「私も行く!」


「ったく、海も俺のことが大好きだなぁ」


「しょうがなくかまってあげてるだけだもん!」


「……あまり男の子を勘違いさせちゃダメだぞ」


「何の話⁉」


 俺にツッコみを入れてから、「もう、お兄ちゃんってば……」と呆れたようにため息をつき、海が靴を脱いでパーッと階段を上っていく。

 海の靴も並べて右端に寄せると、後を追うように俺も階段を上がった。










「「いただきまーす」」


 手を合わせ、箸を手に取る。

 こうしてしっかりサラダや白米などを盛り付けてみると、我ながら素晴らしいハンバーグプレートだなと思う。


「ん! 美味しいよお兄ちゃん!」


「よかった。隠し味が効いてるみたいだ」


「隠し味?」


「そう、それは――」


「愛を込めるみたいなやつ?」


「……隠し味は秘密だ。隠すからこそ隠し味なんだし」


「そっか!」


 海は何も気にしていない様子で目の前のハンバーグに食らいつく。

 ……意外に年相応なところもある。うん可愛い。そういうことにしておこう。


「そういえば、お父さんまだ帰ってこないのかな?」


「……そうだな。今日も遅くなるんじゃないかな」


「そっか! お兄ちゃんのハンバーグ、一緒に食べられたらよかったんだけどね!」


 海の純粋無垢な笑顔。

 それが向けられた先には、空いているのが当たり前みたいな顔をした椅子があって。


 いるべきはずの人は、今日もいない。


「そうだな。冷やして冷蔵庫に入れておくよ」


「うん!」


 俺が言うと、海は満足そうに微笑んで行儀よくご飯を食べ始めた。



 ……確かに、どんどん母さんに似てきている。



「……バカ野郎」


 海に聞こえない声量で呟くと、俺は気を紛らわせるようにハンバーグを箸で割ったのだった。





     ♦ ♦ ♦






 テストが終わり。


 立夏をとうに越した俺たちは、気づけば暦上の“夏”に足を踏み入れていた。

 ブレザーを着ている人も減ってきて、教室は視覚的に夏の気配を感じさせる。


 開け放った窓から入り込んでくる風や太陽の日差しもまた、夏の兆しを分かりやすいくらいに含んでいた。


「地獄のようなテスト期間を終え、僕たちは遂にこの時を迎えた」


 教卓に両手をつき、厳かな雰囲気で話し始める委員長、下田。


 トレードマークの銀縁メガネをクイっと上げると、息を大きく吸い、その勢いで言い放った。




「体育祭だぁあああああああああああああ!!!!!!」




「「「「「「うぉおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!」」」」」」


 下田の叫びに答える生徒たち。

 下田が続ける。


「僕たちのクラスは赤組に決まった! 狙うはもちろん優勝ッ! 白組の奴らを、その血で赤く染めてやるんだぁぁぁぁああああああッ!!!!」


「「「「「「血祭りだぁああああああああああああああ!!!!!!!」」」」」」


「……なんだこの物騒なクラスは」


 武闘派が多すぎるだろ。

 ふと、下田の隣に立つ彼女に視線が移る。


「うんうん!」


「遠坂もやる気だ……」


 遠坂の瞳には、下田たちに引けを取らないほどに熱い炎が灯っている。

 体育の時も思ったけど、遠坂ってこういう勝負事好きだよな……意外ではないけど。


「下田めっちゃやる気だな! うははーっ! なんか楽しくなってきた!」


 斜め前に座る西原がキラキラと目を輝かせて言う。


「西原も血祭りにするのか?」


「血祭りはさすがに可愛そうだから、指の一二本でやめようと思う!」


「そうだな、そこまでに抑えた方がいい」


「昨今のご時世に合わない考えすぎるだろお前ら……」


 玲央が呆れたように顎に手をつく。


「ま、毎年うちの体育祭は結構盛り上がるからな。三年生は特に」


「運動かぁ……日陰で完結する競技とかないかな」


「あるか! 林太郎の要望に応えるには、屋根付きスタジアムを貸切るしかないな」


「スタジアム⁉ 今年の会場はスタジアムなの⁉」


「なわけねーだろ」


「公立高校にそのお金はない」


「ちぇっ、つまんねぇのー!」


 本気で残念そうにしているあたり、よっぽどスタジアムでやりたかったんだろうなと思う。

 まぁ、観戦とか楽そうだし俺もできるならそれがいいけど。

 

 なんて三人で雑談していると、再び下田が口を開いた。


「幸い、僕たちのクラスにはこの王子様がいる! 絶対に勝てる!」


「絶対じゃないけど……まぁ、できるだけ頑張るよ」


 遠坂が爽やかな笑みを浮かべる。


 すると、教室のあちこちで弾んだ声が上がった。


「そうだ! 王子様がいるなら大丈夫だ!」

「去年も全校リレーでごぼう抜きしてたし!」

「士気も間違いない! 絶対にいけるぞ!」


 みんなの期待の声を受けて、「あはは」と照れくさそうに頭を掻く遠坂。

 

 相変わらず遠坂は大人気だな、と漠然と思っていると、ふと遠坂と目が合った。

 

 ――その瞬間。わいわいと騒がしい教室の中、まるで俺と遠坂だけの世界ができたみたいに周りの声が聞こえなくなった。


 遠坂は口角を上げて目を細めると、俺だけに呟くように口パクで言った。





「(楽しみだね)」





 ふふっと微笑み、また元の世界に戻る。

 

「ったく、ほんとに遠坂は……」


 俺は一人呟くと、何気なしに窓の外を眺めた。




 だだっ広い青い空が、俺たちにとっては無限にも等しいほどに広がっている。


 きっと体育祭当日も、見上げればこんな景色が広がっているんだろうなと、俺はただ何となく思ったのだった。



 

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