第3話


 息を切らして階段を下る。

 

 目的の場所に到着すると、階段の陰が落ちた端っこにちょこんと座る遠坂の姿が目に入った。

 一見地味な場所でも、遠坂は他と一線を画すほどに眩いオーラを放っている。


「はい、ズボン。身長変わんないし、サイズ的には大丈夫だと思うけど」


「あ、うん。ありがとう」


 遠坂が俺から体操着の長ズボンを遠慮がちに受け取ると、珍しいものでも見るかのように凝視して固まる。


「安心してくれ。まだ洗濯してから一度も履いてないし、洗剤も実はちょっといいやつ使ってるから」


「べ、別に衛生面を気にしてるわけじゃないよ」


「しかもアロマティックフローラルな香りだ」


「匂いも気にしてないから……。その、私はただ」


「ただ?」


「……なんで体育もないのに体操着があるんだろうって思っただけ」


 遠坂が悪いことをした子供を叱る一歩手前みたいな顔で俺のことを見てくる。


「普通のことじゃないか? 体操着は基本ロッカーに入れとくものだし。何かあった時に便利だろ?」


「へぇ、藤田くんって意外に計画的なところあるんだ」


「……というのが建前で、本音は持って帰るのが面倒なだけだ。今回はたまたま洗ってたけど、いつもは長ズボンなら履いてそのままロッカーへカムバック」


「一回履いたら洗った方がいいよ……」


 尤もな意見だ。


「まぁ、君がマメでズボラなおかげで助かったわけだし、これ以上は何も言わないけどさ」


「矛盾してる気がするけど、それは助かる」


 俺が言うと、遠坂がクスクス笑う。


「じゃあ、ありがたく着替えてくるよ」


 遠坂はすらっと立ち上がると、俺を一瞥してからトイレに入っていった。

 

 背中が女子トイレに消えていくのを見届けた後、少ししてさっき遠坂が座っていた一段下の階段に腰を下ろす。


「カレーのルー、か」


 もしかしたら“遠坂香子”という女の子は、俺たちが想像するような女の子ではないのかもしれない。

 それはもちろん、いい意味で。





     ♦ ♦ ♦





 パタン、と個室の扉を閉め一息つく。


 トイレの中は似つかわしくないカレーのルーの匂いが立ち込めていて、私はじんわりと燃える頬を手で押さえた。


「こんなことになるなんて……しかも、よりにもよって藤田くんに……っ!!!」


 叫びたくなる気持ちをグッと堪えて、手に持つ青色のズボンに視線を落とす。


「ふじ、た」


 左ポケットの隣に刺繍された藤田、の文字。


 たったそれだけのものが、私にとっては衝撃的で、大きな意味を持っていた。

 だって、これは彼の物である証拠だから。


 この刺繡がなければ誤魔化せた照れくささや恥ずかしさも、彼の名前が入っているだけでこうして長ズボンに特別な価値を生み出してしまう。


 名前って恐ろしい。


「私が藤田くんのズボンを……」


 戸惑う気持ちがありつつも、背後からふつふつと使命感が迫ってきている。


「ふぅ……よし」


 葛藤を端に追いやると、藤田くんのズボンを扉にかけてベルトを外した。

 ルーが染みたズボンに不快感を感じながらも、フックを外してしゅるりとズボンを下ろす。


 さらされる白い足に、誰にも見られていないのに恥ずかしくなる。

 しかし、こうして露出した自分の下半身を見下ろすとやはり女の子なんだなと思う。


 肉感のあるむちりとした太ももも、少し飾り気のないショーツも。ちゃんと女の子……だと思う。いや、やっぱり違うかも。


「はっ! 早く着替えないと」


 使命感に駆られて再び藤田くんのズボンを手に取ると、とくんと胸の鼓動が早くなった。


「今からこれを……ふぅ」


 なんで私はこれくらいのことで動揺しているのだろう。

 自分の情けなさにも恥ずかしくなったところで、私はようやく藤田くんのズボンに足を通した。


 私が持っているものと同じはずなのに、男の子のもの、それも藤田くんのものだと意識するだけで全く別物に思えてしまう。


 私の下半身をすっぽりと覆ったズボンを見下ろす。


「なんか私、いけないことしてる気分だ」


 ふと目に入る刺繍を見て、私は結局、不必要に長くトイレに籠ったのだった。





     ♦ ♦ ♦





「お待たせ」


「ちょうどよかったみたいだな」


「うん、そうみたい」


 パタパタと駆けてくる遠坂。

 ぴったりの長ズボンは、遠坂の物のように馴染んでいる。


 ……それにしたって。


「じぃー……」


「ど、どうしたの? 私のことじっと見て……はっ! もしかしてまだ臭ってる?」


「それは大丈夫」


「それは?」


「うんうん……いやぁー、なんていうか」


 頭に浮かぶことを本人に言っていいものかと躊躇する。


 しかし、いつもの堂々たる遠坂とは打って変わり、頬をほんのり赤く染め、匂いを気にし、時折チラチラと俺のことを窺う彼女を目の前にして、感情は凄まじい勢いで膨れ上がり。


 加えてあの遠坂が俺のズボンを履いていると思うと当然、我慢できるわけもなく。



「遠坂ってやっぱり可愛いな」



「っ⁉ なななにを突然⁉」


「いや、うん。ごめん」


「なんで謝るの⁉」


 食い気味に尋ねる遠坂。


「耐え切れず可愛いって言っちゃったけど、可愛いって言われて遠坂、反応アレだったし。もしかしたら嫌だったのかもって。こないだもそうだったし」


「嫌とか別に、そんな……思ってない、ケド」


「ほんとか? 無理にとは言わないぞ。嫌なら嫌ってはっきり言ってくれ」


「だから、その……嫌じゃない、というか」


「気を遣うな遠坂。遠坂に嫌って言われても俺傷つかないから。な?」


「だ、だから! 嫌じゃないって!」


「そうか。ならよかった」


 世間一般で見れば褒め言葉でも、当人によってはそうでないこともある。

 遠坂がカッコイイと言われることに違和感を感じるように。


 だが、俺の先入観が遠坂を傷つけなくてよかったと心の底から思う。


「……はぁ、もう困るよ……ほんとうに」


「え? なんか言ったか?」


「なんでもない!」


 ……でも何故だろう。


 遠坂が少し怒っているように見えるのは、気のせいだろうか。うん、きっと気のせいだ。





     ♦ ♦ ♦





 翌日。


 登校して自席に鞄を置くと、ふわりといい匂いを香らせて彼女がやってきた。


「藤田くん、昨日はありがとう。これ、借りてたズボン。今日体育だから使うと思って」


「お、ありがとう」


 ズボンを受け取り、自然と遠坂のズボンに目がいく。


「汚れ、落とせたんだな」


「うん、結構苦労したけどなんとかね」


 クスクスと笑う遠坂。

 その上品さと凛々しさは、まさに王子様そのものだ。


「あ、その……さ」


「ん?」


 遠坂が少し身を乗り出して、俺の耳元まで口を寄せる。




「昨日のこと、秘密にしてね?」




 堂々たる様子で元の位置に戻ると、ニコッと微笑んで遠坂が自分の席に帰っていく。

 その一連の動作がカッコよく、王子様と呼ぶにふさわしいもので思わず目を奪われた。


 しかし、それと同時に俺は、昨日のことを恥ずかしいと思うその乙女心に、胸を小突かれていた。


「可愛いな……」


「え? 何俺が?」


 ちょうど俺の前を通りかかった玲央が、マヌケ面で自分を指出す。

 俺は少しため息を吐いて、何事もなかったかのように着席した。


「今可愛いって言った? 俺だよな? なんで俺?」


 ……うるさい。










 二時間目が終わり、次の授業は体育。

 

 体操着を持って更衣室にやってきた俺たちは、何気ない談笑をしながらそそくさと着替えていた。


「……え」


 が、しかし。

 俺は長ズボンの刺繍を目にして、一瞬で頭が真っ白になった。


「なるほど……いや、マジかぁ」


 思わず心の声が漏れ出る。


 手の中にあるズボンに縫われた『遠坂』の文字。

 そのたった二文字に、冷や汗が止まらないのだった。




 

 


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