濃霧

 女性達の声が湖上に響き渡る。水浴びという貴重な機会を、彼女らは存分に楽しんでいた。


「ほれっ!」


「きゃっ、ちょっと。やめてよ」


 数十分前まで窮屈で通気性の悪い鎧兜を着用していた乙女の集団。それが今では、重苦しいかせを脱ぎ捨てて、んだ水の冷たさを肌で感じ、子どものようにはしゃいでいる。水をかけあったり、抱きついたり、故郷ラプタルラントにいた頃の昔話を語りあったり……。湖は、市場のような喧騒けんそうに包まれていた。


「申し訳ありません。マルグレーテ様。こんなことまでしていただいて」


「いいってことさ」


 乙女の集団には、ヴェレダとマルグレーテも含まれていた。二人は周囲の従者たちと肌着一枚で、ヴェレダが腰まで浸かる形でぺたん座りをし、マルグレーテが彼女の髪をすきいていた。


(しっかし……綺麗だなあ)


 同じ女性として、マルグレーテはヴェレダの美しさに見惚れていた。


 金の髪色は本物の黄金のように輝き、肩まで伸ばされたそれがヴェレダの神秘性を高めている。それをかき上げた際に見えたうなじも、女性としての魅力を高め、目にした男をとりこにするには十分な破壊力がある。おまけに体型もしなやかで肌も色白。とても魅惑的だ。


 対するマルグレーテはと言えば……。ブロンドの髪を適当にセットしているせいで、乱雑な印象がぬぐえない。加えて、やや筋肉質――彼女の名誉のために伝えておくが、彼女の従者もそう変わらない――な体つきは、軟弱な男共に近寄りがたい雰囲気を与えてしまっている。ヴェレダと同じなのは肌の色ぐらいしかない。


 同じ女性なのに、どうしてこうも違うのか。村を出て一週間。ヴェレダの傍に付き添って少しの時しか経ていないのに、マルグレーテはオラブ村の巫女に羨望の眼差しを向けていた。


「ねえ、髪とかは誰に結ってもらってたのさ?」


 先ほどまでヴェレダは三つ編みだった。そんな彼女の髪をほどいてやった時、マルグレーテはその編み方が見事な、丁寧な結い方だと思ったのだ。余程彼女を大切に思う人が結ったのだろうと推察していた。


「いつも、アルトゥールが結ってくれます」


「いつも? そりゃ、随分と姉ちゃん想いだね」


 そう言われた時、ヴェレダの白いほおは赤く染まっていた。その様子はどこか、兄弟以上の感情を示しているよう。


 マルグレーテは改めて気になった。ヴェレダは盲目で身の回りのことはこなせない。ということは……。


「なあ、不躾ぶしつけなこと聞いてもいい?」


「なんでしょうか」


「あんた、一人じゃ何もできないでしょ。いつもどんな感じで過ごしてるのかなあって。例えば、風呂とか着替えとかその……下の世話とかさ。誰かにやってもらわないといけないじゃん」


「……ほぼ全て、アルトゥールにやってもらっています。儀式の際に祭服を着るときぐらいでしょうか。弟の手伝いをうけないのは。それだけは村の少女にさせる仕来たりになっていますので」


 ヴェレダはそのように答えた。すると、マルグレーテは彼女と弟の間に「良からぬ関係」があるのではないかと勘ぐり、


「まさか、姉弟で愛しあってる?」


と聞いていた。


「へ?」


 ヴェレダの口から、間の抜けた声が出た。それを「核心を突いた」と思い込んだマルグレーテが、さらにまくし立てる。


「それは駄目だぞ。その……血の繋がりのある者同士が体を重ねたりとかまで考えたりとかさ」


「あ、あの、マルグレーテ様。何か思い違いをして――」


 ヴェレダがアルトゥールとの関係について詳しく話そうとした、まさにその時。


「うん? なんだ。辺りが真っ白になりやがった」


 マルグレーテが異変に気付く。ちょっと前まで空は青く、四方が森の緑に囲まれていたはずが、今では霧が立ち込めて百m先も見通せない程になっていた。


「ここは海の上じゃねえってのに」


「マルグレーテさん、何かがこっちに向かってきます」


 ヴェレダは濃霧の中で誰かが近づいて来るのを、確かに認識していた。



 濃霧は覗きの実行犯であるローラントにも届いていた。


「なんだ? 不吉な感じがする」


 彼は当初の目的を中断した。「見たい対象」がいたであろう場所に霧が留まり、見ることも叶わなかったからだ。しかも、それは湖から離れていこうとはしなかった。言語化できない妖しさを含んで。


ひづめの音? 湖の方に向かってる?)


 ローラントは聖剣ルミエールをさやから抜き、女性達の集まる湖に駆けようとした。そこには邪な欲望を満たそうとする男の姿はない。


 小さな陽光の光を放つ聖剣を手に、伯爵は走り出した。その瞬間。


「見つけたぞ!」


 一頭の馬が鳴らす蹄の音が、段々とローラントの耳に大きく響いてくる。それが明らかに自分を標的にしているのだと彼が察知した直後、一筋の光が飛ぶ。


 刺されば命はないと思わせるほどの大きな槍が、皮膚をえぐらんと突き進んできたのだ。


 ローラントはルミエールで矛先を反らした。槍は背後の巨木に突き刺さり、大きな亀裂を生じさせた。メキメキという無機質な悲鳴が、ローラントに直観させた。


 相手は常人ではない。手ごわい奴だと。

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