悪魔の囁き

 数日後。場所はかつて古代ラティニア帝国の首都であったラティニア。


 そこには現在、クライツ法王が政務を取り仕切る法王庁が置かれ、数千万の信徒の支配に務めていた。


猊下げいか、ただいま戻りました」


 オラブ村から馬に乗り、一週間かけて戻って来た例の枢機卿は、息つく暇もなく法王の間に姿を現した。法王は別の国から訪れた大司教からの報告を受けている最中で、彼は帰って来た枢機卿を一瞥いちべつすると、


「しばし待たれよ。もうすぐそなたの話を聞くことができようから」


と抑揚のない言葉をかけて、彼を数分待たせた。枢機卿はその間、法王の背後にあるステンドグラスに目を移して時間を潰す。


(ふうむ、無垢な信徒はあれを見て目を輝かせるが、私には分らんな)


 陽光に照らされたステンドグラスには、クライツ教の創始者が現世で歩んだ生涯について色鮮やかに描かれていた。生誕、説教、迫害、死、そして復活。文字の読めない農民への布教方法として編み出されたそれはだが、高い教養を持つ枢機卿には陳腐な、取るに足らないものにしか思えなかった。


 聖職者たちにとって、己の目を輝かせるのはお布施であり、税であり、富であった。奇跡などという非現実的な事象よりも現世利益を優先するのが、クライツ教の聖職者、神に仕える者だった。


「こちらに来なさい。マクセンチオ。詳しく聞かせておくれ」


 オラブ村から戻ったマクセンチオ枢機卿に報告を促したのが、第一七八代クライツ法王インノケンティオ。齢七〇の老人である彼は耳が遠く、また足腰も弱っていたため、彼に自分の方に来て報告するように手招きをした。


「それでどうだったかね? 村の巫女とやらは。わしは千年も記憶を引き継ぐ乙女なぞ、到底信じられぬのだが」


「私もです、猊下げいか。ですが、見た限りでは、彼女がお告げにあった巫女で間違いないかと。ハインリヒ殿も古文書に照らして間違いないと言っておりましたから」


「ふむ、そうか。まあ、あの博学な君主が言うのなら誤りはなかろうて」


 インノケンチィオ法王の言葉には、どこか神聖ラティニア帝国の皇帝ハインリヒに対するあざけりの感情が見受けられた。どうやら、両勢力の間には溝があるらしい。


「なあ、マクセンチオよ」


「なんでしょう、猊下げいか


「ウルピノスの聖遺物が本当にあると思うかね? わしにはどうしても、クライツ教徒でもない彼が、聖遺物を遺しているとは思えんのだ」


 聖遺物。それはクライツ教の聖人――偉大なクライツ教信徒――の遺品を指す言葉で、それを手にした者は人智を超えた強大な力を与えられると長らく信じられてきた。骨や髪、本や手袋が主な例であり、それらは聖職者たちが大金を積んででも入手したい代物だった。


 だが、法王が言ったように異教徒の聖遺物など初耳だった。果たして、そんなものが地上に存在するのか。


「お言葉ですが、猊下げいか。お告げは猊下にだけ聞こえるもので、その内容は絶対であると教会の歴史には記されております。私自身、お告げを下す天使がまさか虚偽を猊下げいかにお伝えなさるとは考えられません。ですから――」


「マクセンチオ、言いたいことは分かっておる。お告げは絶対。じゃから、皇帝の聖遺物も確実にあると言いたいんじゃろ?」


「はい」


 法王インノケンチィオは高齢の影響か、顔に汗を滲ませていた。それにどこか体から湯気が出ているようだった。


猊下げいか。調子が悪いので?」


「少しな。もうよい。マクセンチオ、下がれ」


 法王がそう言って、二人の会話は打ち切られた。背中が小さくなっていくマクセンチオを見やりながら、インノケンチィオ法王は入れ替わりに入って来た緋色の聖職者服をまとう男――マクセンチオとは別の枢機卿すうきけいに、


「医者を呼んどくれ」


と指示する。医者が来るまでの間、法王は目をつむって待った。が映らないようにするために。


(無駄だ、穢れた法王よ。お前たちの神は騙せるかもしれんが、は騙せない)


 法王のまなこに、角の生えた人間が眼球一杯に姿を現した。容姿は悪魔、言葉は世界の終焉を告げる角笛のような男が、尚も話し続ける。


(千年前のようにはいかないぞ。法王よ。今度こそお前の首を、そして世界を私のものにさせてもらうぞ。はーはっはっは!!)


「うるさい! 黙れ!!」


「げ、猊下げいか?」


 叫びとともに目を開けた法王の前に医者がいた。彼は患者が緋色のローブにぐっしょりと汗をかき、顔には油汗をかいているのを確認した。


尋常じんじょうではない汗です。一体、何が」


「いや、気にするな。悪い夢を見ただけじゃよ」


 法王は医者にこれ以上の質問を許さず、その後は彼の治療を受けた。脳内に響く悪魔の王の言葉に耐えながら。

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