何も見えない
「し、失礼。後でお話を」
無礼な振る舞いをしたと思ったハインリヒはその場を去ろうとした。巫女ヴェレダは着替えの途中で、しかも胸元の部分に上着を掛けられる瞬間だったから。
(おおっ)
一方の枢機卿はといえば、巫女の美しさに見
「君、それは失礼ではないかね」
ハインリヒはそんな枢機卿を咎めると、彼の肩を掴んで、強引に外へと引っ張られていった。
「村の人ではありませんね。儀式の準備中に入ってくるはずがありません」
「ええ、ヴェレダ様。一人は紫色のローブを被ってて、頭にピカピカの冠を乗っけてました。坊主様もいましたよ。やらしい眼つきでした。きっと、あいつにはネルトゥス様の裁きが下ります。巫女様の着替えを見るなんて罰当たりだもん!」
ヴェレダに服を着せている幼い少女の言葉が、訪問者の容姿や振る舞いを伝えた。少女は特に司祭の態度に腹を立て、ネルトゥス――村で崇拝されている土地神の名を出して、彼に裁きが下るよう願う。
「紫のローブ……陛下がお戻りに!」
ハインリヒの服装を聞くと、突如として心が高ぶるヴェレダ。
「もしや、あの方がお戻りになられたのでは?」と早合点したのだ。
「陛下? ヴェレダ様。私にはよく分かりません」
幼い少女には『陛下』が理解できなかった。
◇
「お待たせしました」
ヴェレダは着替えを手伝ってくれた少女と共に、村の聖堂から姿を現した。
右側を杖で、左側を少女に支えてもらいながら。
「いえ、こちらこそ予告なしに来て申し訳ありません。私は――」
「ウルピノス陛下、ではないようですね」
ハインリヒが言い終わる前にヴェレダの口から出された名前は、千年前に古代ラティニアを統治していた指導者の名。
面食らうハインリヒをよそに、ヴェレダは話を進める。
「ウルピノス陛下は、決して体に香水を付けたりはなさいませんでした。いつも香らせていたのは汗の匂い。でも、それは努力の証で、民のために精一杯戦ってこられた証拠でした。……あなたは私が待ち望んでいた方ではありませんね」
周囲の注目をよそに一人嘆息するヴェレダ。
意味が
「おい、異教の巫女。こっちは来たくもない場所にやってきているのだ。地獄に落とされた皇帝の名を出すな」
「じ、地獄? 何を
このままでは
「ウルピノスは『地底の民』との戦いで死んだ挙句、法王庁のあるラティニにまで彼らの侵攻を許した男なのだ。地獄行きは当然ではないか!」
と暴言を吐いた。
「嘘です! 何を根拠に――」
「嘘ではない! これは教会の歴史に刻まれている『真実』だ」
ふと開かれた彼女の両目を確認し、ハインリヒと枢機卿は気づいた。
巫女の目が白く濁っていて、何も見えていないことに。
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