何も見えない

「こ、これは失礼。後でお話を。外で待っておりますから」


 皇帝ハインリヒは無礼な振る舞いをしたと恥じて、その場を去ろうとした。というのも、目の前にいた巫女ヴェレダは着替えの途中で、この時は胸元の部分に上着を掛けられる瞬間だった。


(おおっ)


 一方の枢機卿はといえば、巫女の美しさに見れて目が離せなくなっていた。ついさっきまで、異教徒の村に来たことを後悔していた姿はどこへやら。聖職者として恥ずべき顔――鼻の下を伸ばしたままの情けない表情をつくっていた。


「おい、それは失礼ではないかね」


 皇帝ハインリヒはそんな枢機卿を咎めた。そして、枢機卿は肩を掴まれると強引に引っ張られていった。


「この村の人ではありませんね。儀式の準備中に入ってくるはずがありません」


「ええ、ヴェレダ様。一人は紫色のローブを被ってて、頭にピカピカの冠を乗っけてました。あと、坊主様もいましたよ。なんだか、嫌らしい眼つきをしてました。きっと、あいつにはネルトゥス様の裁きが下ります。だって巫女様の着替えを見るなんて罰当たりですもん!」


 ヴェレダに服を着せている幼い少女の言葉が、訪問者の容姿や振る舞いを伝えた。少女は特に司祭の態度に腹を立て、ネルトゥス――村で崇拝されている土地神の名を出して、彼に裁きが下されるよう願ったようだ。


「紫のローブ……皇帝陛下がお戻りに!」


 皇帝ハインリヒの身なりを聞くと、突如として心が高ぶったヴェレダ。「もしや、がお戻りになられたのでは?」と早合点していたのだ。


「皇帝陛下? ヴェレダ様。私にはよく分かりません」


 どうやら、幼い少女には「皇帝」が何か理解できなかったらしい。よって、ヴェレダの言葉の真意も掴むことができなかった。



「お待たせしました」


 ヴェレダは着替えを手伝ってくれた少女と共に、村の聖堂から姿を現した。右側を杖で、左側を少女に支えてもらいながら。


「いえ、こちらこそ予告なしに来て申し訳ありません。自己紹介が遅れました。私は――」


陛下、ではないようですね」


 ハインリヒが言い終わる前に、ヴェレダの口から出された名前。それは千年前に古代ラティニア帝国を統治していた指導者の名だった。


 なぜ、彼女がその名を?


 現皇帝であるハインリヒは面食らった。そんな彼をよそに、ヴェレダは話を進める。


「ウルピノス皇帝陛下は、決して体に香水を付けたりはなさいませんでした。いつも香らせていたのは汗の匂い。でも、それは努力の証で、民のために精一杯戦ってこられたためににじみ出たもの。ですから、あなたは私が待ち望んでいた方ではありませんね」


 周囲の注目をよそに、一人嘆息するヴェレダ。意味が皆目かいもく分からない枢機卿が、彼女に詰め寄った。


「おい、異教徒の巫女。こちらはわざわざ、来たくもない場所にやってきているのだぞ。の名を出すな」


「じ、地獄に? 一体、何をおっしゃられるのですか?」


 このままではらちが開かないと判断した枢機卿は、おもむろにヴェレダの祭服の袖を握ると、


「皇帝ウルピノスは『地底の民』との戦いで死んだ挙句、法王庁のあるラティニにまで、彼らの侵攻を許した男だぞ。地獄に落とされて当然ではないか!」


と暴言を吐いた。狼狽うろたえるヴェレダ。


「嘘です! 何を根拠に――」


「嘘ではない、これは教会の歴史に刻まれている『真実』だ」


 ふと開かれた彼女の両目。その時、皇帝ハインリヒと司祭は気づいた。


 オラブ村のことに。

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