崩れる日常
気の遠くなるような年月が流れた。
人々は千年前に世界を襲った災厄を忘れつつあった。
かつて存在した帝国は蛮族に破壊し尽くされ、現在はその後継を自称する新たな帝国が世界の支配者となっていた。
しかし、誰が世界の支配者になろうとも庶民にはどうでもよいことだった。
「ほら、捕まえてごらんなさい」
場所はその帝国領の遥か東。人口三〇〇人程の小さな村。
果てしなく続く平原地帯。丈の短い半袖のブラウスにジャンパースカートを着た一人の若い娘が、同年代の青年を相手に仲
「こら、待てよ」
娘の背中を追いかける青年はフード付きの
それでも娘と青年では脚力の差がありすぎたようだ。
「捕まえた!」
「きゃあっ!」
青年は娘を背中から抱き寄せ、そのまま緑豊かな草原に並んで横たわった。
「また捕まっちゃった」
「はは、これで何度目だろう?」
「もう、少しは手加減してよ」
「してるつもりさだよ。それとも、僕に一刻も早く捕まえてほしかったのか?」
「ちょっと、そんなことないわ。あなたなんか」
言葉は否定しているが、娘の顔は正直だった。ほのかに赤らみ、恥じらいを示していた。青年はそれを見て嬉しくなり、心臓が早く脈打つのを感じた。
「もう少ししたら、父さんの仕事の手伝いをしないと。ああ、残念だな」
「あたしもよ。あなたとずっとこうしていたい。同じ空気、同じ場所、同じ時を過ごしたいの。片時も離れていたくないわ」
熱を帯びた娘の告白に、思わず青年も興奮する。彼は無意識に娘の背中に手を回し、そのまま
ボオウッ。ボオーウ!
青年のものではない、低音の笛の調べ。それはおどろおどろしく耳障りなもので、その後に異教徒の発する意味不明な呪文が続いた。
「なんだよ。また西の森に住む奴等の儀式かよ。ちぇ」
雰囲気をぶち壊され、舌打ちをする青年。彼は途端に目の色を変え、西に生い茂る森へと軽蔑の視線を向けた。
「ちょっと、やめて。呪い殺されるわ」
「そんなこと、起こりっこないさ。神聖な巫女だか何だか知らないけど、殺せるもんならやってみろってんだ」
大きく溜息を吐いて、青年は東の方に娘と共に歩いていく。間もなく正午になる。青年の父が仕事の手伝いを頼みにくる時間だったのだ。
「じゃあ、また明日」
「またね。明日こそ勝たせてもらうわよ」
二人は朗らかに笑いあいながら、各々の家に戻っていった。彼らは明日も楽しい日々が訪れると信じて疑わなかった。陽が沈み、また昇った時に顔を会わせ、至福の時間が待っているはずだと。
「父さん、遅れてごめ――」
しかし、希望は脆くも崩れ去る。青年が自宅に戻った時に見た光景が、それを教えてくれた。
動かぬ四肢。見開かれたままの
ギロリッ。
そして自分に向けられた、
「肉付きの良い格好の獲物がやってきてくれた」と。
青年は彼らに背を向け、大急ぎで家を出た。誰かに知らせなければ、と思ったのだ。
ヒュンッ!!
だが、それは果たせなかった。青年も父と同じように矢を射られ、背中を
「ちくしょう……」
「きゃああ、やめて!」
しかしそれも娘があげた悲鳴と、先ほど見た男たちの蛮行を目の当たりにして挫かれた。
「どうして、そんなことができ……るんだ」
青年は力尽きた。それが彼にとっては幸せだったかもしれなかった。愛する女性に加えられた仕打ちを見ずに済んだのだから。
◇
一時間と経たずに、青年と娘が住んでいた村は壊滅した。
「隊長。敵は残らず皆殺しに出来ましたかね?」
彫りの浅い男たちの一人が、隊長とされる男に呼び掛けた。声をかけた男は山羊の毛皮で縁取った円形帽子を被り、ネズミの皮でできた衣服を着用している。
「斥候の情報だと、この村の住民は三〇〇近くだと聞いているぞ。死体を数えて確認する」
隊長の男は事務仕事をこなすように、戦果の確認を部下に命じた。彼の身なりは周囲の男共と異なり、金属製の兜を着用していた。
「隊長。死体はぴったり三〇〇ありました」
「ご苦労。なら。村は完全に破壊したとカン様に報告せねばな」
隊長はすぐに伝令と呼び寄せると、
「近くにある丘に登り、カン様に伝えろ。『侵攻は順調です』とな」
指示を受けた伝令は小型の馬を駆り、すぐさま丘を探しに出かけていった。
「さあ、次の狙いはどこになるか」
馬を休息させるために、隊長は部下たちに自由時間を与えた。彼らはそれを聞くと喜んで、村人の死体で遊び出す。
その被害者には、少し前まで甘酸っぱい恋を満喫していた二人の死体も含まれていた。
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